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20240714学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第31章-2 ドイツにおける革命の裏切り…

20240714
[革命の裏切り]

 1918年のドイツ革命の頃、皇帝の体勢はすでに崩壊していたのだから、ただちにプロレタリア社会主義革命に突入できたはずだ。しかし、右翼社会民主主義の指導者は、プロレタリア革命を望んでいなかったし、人々は社会主義を信じてもいなかった。ドイツの社会民主主義者は、他の国々の社会民主主義者と同様、資本主義のほころびを繕う努力をしていただけだった。彼らの方針は、雇い主たちと協力して革命を粉砕すること、そのためにはどんな手段を取ってもいいという態度だった。

 1918年11月8日から15日にかけて、ベルリンで大労資会議が開かれた。このとき、市街ではまだ機関銃がうなっていた。
 この会議の資本家側の代表は億万長者のフーゴー・シュティンネス、労働者側の代表は社会民主党のボスで労働組合の指導者カール・レギエンである。会議で決められたのは、「資本主義は今まで通りに存続する、これ以上の社会主義化は行われない」という反革命的な前提を土台として、労働組合の承認、8時間労働日の確率、工場委員会の設立等であった。そして、党の政治的指導者がいかにドイツを社会主義に引っ張っていこうとしているかというデマの演説を労働者の前で行い、労働組合運動を革命的大衆から分離させようとしていた。そうして革命を鎮めるつもりだったのである。
 11月10日に、ベルリン労兵評議会にこのような声明を出した。「古いドイツはすでに滅びた。今や労兵評議会はソヴェトこそ政治主権の担い手である」と。これは、「すべての権力をソヴェトへ」という、ロシア革命初期の労働者の綱領と一致するものであった。さらに、産業を急速に国有化し、国の全般的民主化を行うことを、綱領に含めた。

 ドイツの右翼社会民主主義者は、誕生したばかりの各地のソヴェトの権力を奪い破壊することを、自分たちの第一の反革命目標とした。彼らはドイツの労働者の革命的精神やプロレタリアート独裁の可能性を死ぬほど恐れていたのだ。
 彼らはまず、ドイツをボリシェヴィズムから救おうと、資本家を固く手を握った。修正主義者のフリードリヒ・エーベルトを長とする管理政府を作ると、彼はベルリン・ソヴェトが呼びかけていたゼネストの停止指令を出した。その数日後には「人民代表委員会」という臨時政府を樹立し、3名の右翼(エーベルト、シャイデマン、ランズベルク)と3名の独立社会民主党員(ハーゼ、ディットマン、バルト)が内閣を作った。独立社会民主党は、「すべての権力をソヴェトへ」という政策を支持するフリをして、右翼と手を握っていた。このことにより、レーニンは彼らを、革命の全ての敵のうち最も危険なものとみなしていた。
 12月16日、ベルリンで労兵評議会全国大会が開かれた。代議員の4分の3を占めていたのは右翼であり、残りはほぼ独立社会民主党だった。全国大会は、臨時政府を支持し、ソヴェト権力の樹立に反対し、国民議会の召集を票決した。これは、初期のソヴェト・ロシアで多数を占めていたメンシェヴィキと同じだった。

 1919年1月、政府は突如、ベルリンの軍司令官で独立社会民主党のエミール・アイヒホルンの職を解いた。これがきっかけとなり、スパルタクス団と独立社会民主党左翼の武装闘争が起こり、ゼネストが全国に広がった。2週間に及ぶ闘争でベルリンやその他の都市の市街地は赤く染まり、反乱は鎮圧されたが、新たに結成された共産党にとっては致命的な打撃であった。
 1919年4月13日、バイエルンの労働者がソヴェト共和国を樹立した。しかしこれは、たったの18日間しか続かなかった。監獄から解放されたローザ・ルクセンブルグとカール・リープクネヒトは、この闘争の最後に惨たらしく殺された。この暗殺は、官憲が慎重に計画したものであり、政府はその全ての責任を否定した。殺人者が誰なのかわかっていたのに逮捕もしなかった。こうして、世界革命運動が生んだ最も崇高な闘士の2人は、地上から姿を消したのである。

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