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20240512学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第29章-1 ロシア革命

20240512
『三つのインタナショナルの歴史』
第29章 ロシアのプロレタリア革命(1917年11月)

 1917年6月から11月というのは、ロシアにおける共産党の急速な発展と革命の準備の重大な時期であった。ケレンスキー臨時政府は、戦争を継続し、農民には土地を与えず、民主的自由を制限し、コルニロフの反乱に加担し、国民の信用をすっかりなくした。もはや臨時政府に政治を行う資格はない。
 7月26日から8月3日、共産党はペトログラードで密かに第6回党大会を開いた。3月革命当時45000人だった党員数は、24万人に増えていた。レーニンはこの時、党の指示によりフィンランドに隠れていた。そのためスターリンが党大会の主要な報告を行った。スターリンは、「革命の平和な時期は終わった。平和でない時期、格闘と爆発の時期が始まった」と述べると、党は革命への準備を整えた。
 トロツキーは、10年以上ボリシェヴィキに対して反抗の闘いを続けていたが、この大会ではボリシェヴィキの政策に全面的に同意したため入党を許可された。入党後、トロツキーは高い地位を与えられたが、結局彼が党に同化できない異分子だったということは、その後の事実で明らかであろう。

 10月初め、ケレンスキー政府は予備議会をつくった。これは、人民の革命的精神の高揚を打ち砕こうとするものであり、憲法制定議会が召集されるまで続けるとした。ボリシェヴィキはこの組織に反発しボイコットすると、やがて予備議会は解体された。大衆は、平和とパンと土地と社会主義を、決して諦めることはしない。

 フィンランドに留まる間、レーニンは『国家と革命』を書いた(革命的危機のためにこの本を完璧に書き上げることはできていないが、実際に革命が起きたことは筆にするよりも愉快で有益であると、のちに述べている)。この偉大な本も、マルクス主義の基本的著作である。「近代資本主義国家は人民の国家である」という修正主義の理論を粉砕し、第2インタナショナルの右翼日和見主義者たちによって忘れ去られた「国家の階級的性格」を再確認している。さらに、著しく強大化した帝国主義国家が、革命的労働者階級に対する弾圧の武器となっていることを証明した。労働者階級は、専制国家を自分たちの目的のために引き継ぐことはできない。労働者階級は専制国家を破壊し、プロレタリア独裁がそれに取って代わらなければならない。階級闘争の承認をプロレタリア独裁の承認にまで広げる者がマルクス主義者なのだと、レーニンは言った。

[権力の獲得]

 1917年10月7日、レーニンはフィンランドから帰ると、人民は革命の準備を整えた旨を中央委員会に提出し、「人民の多数が我々に味方している。今や我々は、2つのソヴェト(ペトログラードとモスクワ)で多数を占めている」と述べた。さらに、革命的情勢が熟するには3つの条件がなければならないと言った。第一に、蜂起は先進的階級を支柱としなければならない。第二に、蜂起は人民の革命的高揚と一致しなければならない。第三に、支配階級が動揺し混乱していなければならない。これら全ての条件が、現在揃っているのだ。
 しかし、レーニンの主張は党中央委員会で多くの反対にあった。カーメネフ=ジノヴィエフ派は一般的に蜂起に反対した。トロツキーは蜂起を延期し潰そうとした。それでも最終的にはレーニンの主張が通った。10月10日、中央委員会は武装蜂起に向かって行動することを決定し、次のように述べた。「このすべては、相まって武装蜂起を日程にのぼせている。中央委員会は、このように武装蜂起が不可能となり完全に成熟したことを認め、全ての党組織がこのことを行動のしるべとするように……勧告する。」
 党中央委員会の指令により、ペトログラードに軍事革命委員会が創設された。革命の総司令はこの委員会が執ることとなった。軍事委員会内にはスターリンを長とする党中央部がつくられた。これらに反対したカーメネフとジノヴィエフに対してレーニンは「スト破り」として、彼らの除名を要求したが受け入れられなかった。

 11月6日、レーニンはスモーリヌイ女学院に到着した。この女学院はツァーリの貴族女学校だったが、2月革命以来ペトログラード・ソヴェトが置かれていた。レーニンは蜂起の指導権を自分の手に握ると、ケレンスキー軍が進めていた武装攻撃に対して蜂起の矛先を向けた。
 11月7日、赤衛軍部隊と革命的軍隊が、停車場、郵便局、電信局、所管庁、国立銀行を占領した。予備議会は解散させられた。夜になると、臨時政府の閣僚たちは冬宮(元々はツァーリの宮殿で、この時は臨時政府が置かれていた)で逮捕された。革命は既定事実となった。その後モスクワでは4日間の戦いがあり、他でも小さな小競り合いが起きた。そして、あらゆる都市がペトログラードの革命的規範に従った。
 革命的放棄が成功した11月7日の夜遅く、第2回全ロシア・ソヴェト大会が開かれた。ボリシェヴィキが圧倒的多数を占め、メンシェヴィキ、ブンド派、右翼社会革命党(エス・エル)は立ち去った。全権力はソヴェトの手に渡った。大会はソヴェト政府を樹立し、レーニンが人民委員会議長となった。党員は約30万人、同調者はソヴェトや労働組合全体で何百万人となった。戦闘的同盟軍である労働者と農民は、残忍なツァーリズムと資本主義を打倒した。共産党は次のように述べた。「大10月社会主義革命の勝利は、プロレタリア革命についてのレーニン主義的理論の勝利を示した。資本家と地主の支配を倒し、帝国主義者の支配を倒して、プロレタリアートの独裁を打ち立てたことによって、我が党は、ロシア社会民主労働党第2回大会で採択した綱領を実行したのだ」

 偉大な勝利を収めることができたのは、レーニン主義の政策によるものであったが、その中心となっていたのは、レーニンがプロレタリアートと農民との革命的統一を達成したことである。3月革命の時、あらゆる階層の農民の多くがレーニンの教えの通り労働者と手を結び、ツァーリズムを倒した。11月革命の際にも、レーニンと偉大な共産党は、マルクス主義の理論と戦術に基づき、進むべき道を示した。社会主義になかなか関心を寄せない小土地所有者の多くを労働者の陣営に加えることによって、ケレンスキーの資本家政府を倒したのである。
革命は成功した。これから、労働者階級の全般的指導のもとに、やがて社会主義の建設を始め、大きな政治的奇蹟を成し遂げる。これが、レーニンと党に残された仕事であった。

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