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20240407学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第27章-3 カウツキーへの批判

20240407

[1916年のアイルランドの反乱]


 第1次世界大戦中には、ヨーロッパの様々な被抑圧民族の革命的な抵抗が増大した。1916年の復活祭の週にアイルランドで起こった反乱が、最初に起きた反乱としてはっきりとしたものだっただろう。アイルランドは長い間イギリスの支配と搾取に対する闘争を続け、それは700年にも及ぶこととなる。マルクスは、アイルランドの独立運動を非常に重要視していた。それは、抑圧されているアイルランド人だけの問題ではなく、イギリス資本主義に対する全般的闘争のひとつの武器でもあったからである。


第8章より

[アイルランド問題]

アイルランドの問題は、インタナショナルの歴史において重要な役割を果たしていた。植民地諸国という抑圧される国々と、これを抑圧する強国との関係についての方針は、世界の労働運動にとって最も重要な問題であった。アイルランド問題が、このきっかけとなったのである。

700年もの間、イギリスの支配階級に反対してアイルランドの人民は戦いを続けてきた。1641年、1798年、1848年、1867年、それぞれに起きた暴動が特に大きなものだった。また、1923年に独立を達成するのだが、それまで1916年、1921年も含めていくつかの暴動を経なければならなかった。

バーゼル大会の時、アイルランド問題は特に政治的な注目を浴びていた。そのきっかけは、フィアナ会(古代アイルランドで活躍した武士団になぞらえて、アイルランド独立を目指して在米アイルランド人が中心となり1856年にニューヨークで結成。別名フィニアン協会)がアイルランド人政治犯を助けようとしてマンチェスターでひとりの警察官を殺害した事件であった。

マルクスは、チャーティストの時代からアイルランドの独立に賛成していた。マルクスは総評議会から代表団を送り、アイルランド人への暴虐行為に抗議しようとしたり、アイルランド人政治犯の特赦請願運動に積極的に支援したりした。

「アイルランドはイギリスの地主貴族のとりでである」「アイルランドはイギリスの貴族にとって、イギリス自体の中での彼らの支配を維持するための重大な手段である」と、マルクスはイギリスの貴族がアイルランドをこのような位置に置いているのだと言った。

また、アイルランド問題は労働運動に致命的な弱さが生まれているとも言った。これは、イギリス人労働者とアイルランド人労働者が分裂しているためだった。これを説得するためにマルクスが言ったことは、イギリスの労働者にとっては、アイルランドの民族的解放は抽象的な正義や人情の問題ではない、彼ら(イギリスの労働者)自身の社会的解放の第一条件なのであると説いた。植民地、被植民地を問わず、労働者は団結しなければならない。


 アイルランドの指導者たちは、第1次世界大戦を帝国主義戦争として非難していた。イギリス本国がドイツを滅ぼすことに忙殺されている時、アイルランドの指導者たちはアイルランド解放戦闘を強化するチャンスだと見ていた。しかし、突然反乱を布告されてもアイルランドの人民は準備もないため対応できず、4月24日に始まった反乱はわずか5日で終わった。兵力はたったの120人で、イギリスに敵うはずもなかった。反乱を率いたパドライック・パースとジェームズ・コノリーなど指導者たちは、5月12日に処刑された。

 レーニンは、アイルランドのこの反乱に対して、真に大衆的な運動であり単なる冒険主義的な暴動ではなかったと言っているが、失敗したことについては次のように評価している。「アイルランドの不幸は、まだヨーロッパ・プロレタリアートの反乱の機が熟していなかったのに、彼らが早まって立ち上がったことであった」


 アイルランドの反乱を率いたのは、ジェームズ・コノリーという人物であった。彼は以前、アメリカの世界産業労働組合(IWW)、社会主義労働党(SLP)、社会党(SP)の活動的労働者であった。素晴らしいマルクス主義者で、アイルランドにおける社会主義のための闘争と民族独立のためにたたかった。レーニンはコノリーを非常に尊敬し、アイルランドの労働組合がロシアを訪問した時、コノリーの「アイルランド史上の労働者」だと言ってコノリーを褒め称えた。


[レーニンの偉大な理論闘争]


 20世紀に入ってから、レーニンは革命的政治綱領を確立するために素晴らしい努力を続けていた。特に、1914年8月の戦争の勃発から1917年3月のロシア・ブルジョア革命までの期間に激しい論争をおこなった。その基礎的な仕事は、すでに10年前のシュトゥットガルト、コペンハーゲン、バーゼルの大会の決議の中に書いていたことである。すなわち、資本主義を倒し社会主義を打ち立てることこそが戦争から逃れるただ一つの建設的な道であり、これを社会主義運動と労働者階級全体に広めることである。

 戦争中にレーニンが成し遂げた仕事がどれほど大きなものであったかは、ツィンメルワルドとキンタールの会議から見ることができる。しかし、インタナショナルの最も進んだ革命的闘士たちが出席したここの2つの会議だったにもかかわらず、彼らはレーニンの説く革命による危機脱出の道を一向に認めようとしなかった。社会主義諸政党の右翼と中間派に対して、レーニンの支持者は少数派だったのである。それに加えて、ロシアの党の中でも様々な種類の分派や偏向があった。そのため、レーニンは左翼の欠点や未熟さに対して戦い続けなければならず、多くの時間を使いトロツキーとも論争した。そしてこの時、民族自決権の問題と人民の武装という2つの問題についての激しい党内闘争もあった。


 この時期、レーニンがおこなった最も重要な論争は、ローザ・ルクセンブルグとカール・カウツキーに対するものであった。

 ローザ・ルクセンブルグは、獄中で「ユニウス」という名前でパンフレットを書いた。その内容は、党地下組織の必要性、ドイツにおける共和制の擁護、帝国主義の民族戦争の可能性などであり、レーニンはこれらについてローザの主張は誤りだと指摘した。


 カール・カウツキーは、マルクス主義の理論家であった。が、レーニンはカウツキーについて、マルクス主義の正統派を装い革命的な文句を好んで使うくせに、実践の面では保守的な日和見主義者でありプロレタリアにとって特に有害であると指摘した。カウツキーの態度は労働者階級の戦闘性を弱め、右翼の裏切りと支配階級の手中に大衆を売り渡す傾向を持つものであった。レーニンはカウツキー主義を「偽装した臆病な甘ったるい偽善的な日和見主義」と呼んだ。そして、次のように言った。

「カウツキーは、革命的な大衆と、共通なものは何も持っていない日和見主義者の幹部たちと、この革命的大衆とを和解させようとする。だがなににもとづいているのか? この言葉に基づいてだ。ドイツ国会内の「左翼」少数党の「左翼」的な言葉に基づいてだ! カウツキーと同じく少数党は、革命的行動を冒険主義と呼んで非難するがいい。大衆に左翼的な言葉をあてがうがいい。そうすれば、党内の平和は保たれ、ジュデクームやレギエンやダヴィッドやモニトールなどの輩との平和が保たれるだろう」

 またレーニンは、1916年春に書いた『資本主義の最高段階としての帝国主義』の中で、帝国主義時代は自由競争資本主義に比べてはるかに突発的で、飛躍的で、破局的で、軋轢に満ちた新しい時代だと述べている。そこで特にレーニンが攻撃したのは、カウツキーの「超帝国主義」の理論、組織され安定した資本主義世界(おそらく社会主義に向かってゆく)という理論であった。それについて次のように書いている。

「純経済的現地からすれば、資本主義が、なお一つの新しい段階を、すなわちカルテル政策が、対外政策へ移されるということを、すなわち超帝国主義の段階を通過することは、ありえないことではない。この段階は、すなわち全世界の帝国主義の闘争の段階ではなく、その合同の段階、資本主義のもとでの戦争の廃止の段階、国際的に結合された金融資本による世界の共同搾取の段階である」

 さらにレーニンは、ブハーリンの『世界経済と帝国主義』の序章を書いているが、その中でカウツキーの超帝国主義論、その他全ての「組織された資本主義」の主唱者たちに対して次のように書いている。

「帝国主義ののちに来る資本主義の新しい段階、すなわち超帝国主義が抽象的には考えられ得るということを、反駁することができるだろうか? いな。抽象的にこのような段階を考えることはできる。ただ、実践においては、それは日和見主義者になることを意味するだけであって、未来の穏やかな任務を夢想することを名として、現在の激しい任務を否定するものである。理論的には、それは現実に進行している発展に立脚するのではなく、これらの空想を名として勝手に発展から離れることを意味している。発展が例外なくあらゆる企業と例外なくあらゆる国家とを併呑しつつある単一の全世界的トラストへの方向へ進んでいることは、疑いない。しかしながら発展は、このような情勢のもとで、このような速度で、このような矛盾、紛争、激動——決して経済的なものだけでなく、政治的、民族的、その他の——を伴いつつこの方向へ進んでいるので、必ずや、事態が一つの全世界的トラスト、すなわち国民的金融資本が全界的に統一された「超帝国主義」に達する以前に、帝国主義は不可逆に破裂せずにはいないであろう。資本主義はその対立物に転化するであろう」

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