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20230515学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第5章-2

20230515
[ラッサール主義]

フェルディナント・ラッサール(1825-1864)は、ブレスラウ(現在のポーランド・ブロツワフ)でユダヤ人の両親のもとに生まれ、ベルリン大学で教育を受けた。ヘーゲル主義者となり、ドイツの民族的独立と民主主義のための戦いに没頭するようになると、労働者階級の解放に関心を寄せるようになった。
ラッサールの考えは、協同組合を作り政府の補助を受け、これが拡大すれば(国家社会主義が)資本主義体制に取って代わる、というものであった。政府の補助を確実に実現させるために、労働者の普通選挙権を要求し、議会の議席の90%を労働者階級が占めることを目指した。1863年には「全ドイツ労働者協会」という政治団体を作り、ドイツ労働者階級の政治的組織者の先駆となった。マルクスとエンゲルスとともに、統一民主ドイツ共和国を作るために戦ったこともあった。マルクスは、ラッサールのこうした活動について、「ドイツの労働者運動を15年間の眠りから目覚めさせた」と賞賛している。しかし、ラッサールは一度も、本当のマルクス主義者にはならなかった。ラッサールも日和見主義的で、セクト主義的で、プルードンと同じように労働組合やストライキには反対した。そのうち、労働運動をくじこうとしているプロイセン首相のビスマルクと組むようになった。マルクスはこのことについて、「ラッサールは労働者の事業を裏切った」と非難している。

ラッサールは「賃金鉄則」に基づいて、労働組合反対の主張を正当化しようとした。
つまり、労働者はどうしてもぎりぎりの最低生活水準にとどまる運命があり、労働組合の力で賃金の引き上げを勝ち取っても生活費が増加するだけで自動的に帳消しになる、というのである。
これに対してマルクスは、労働者は、組織的な経済闘争と政治闘争によって、自分たちの生活水準を高めることができる、と考えた。「労働組合の活動は労働者の生活を最低生活水準以上に高めることができる。これは、雇主側の一致した行動または独占的な行動が賃金をこの水準以下に押し下げることができるのと全く同じである」
賃金増加の影響という問題について、マルクスはこれが労働者の解放への道ではないと言った。問題はもっと根本的なところにある。「労働者階級は、『公正な一日分の労働に対して公正な一日分の賃金!』という保守的なスローガンの代わりに、『賃金制度の廃止!』という革命的なスローガンを、彼らの旗に書き記すべきである」

ラッサールの死後はJ・B・シュワイツァーがラッサール主義の跡を継いだ。彼らは警察の迫害から身を隠すためにインタナショナルからは距離を置いたが、ドイツの労働運動の上では大きな勢力となった。さらに、アメリカに移住したドイツ人労働者にも大きな影響を与えた。

[バクーニン主義]

ミハイル・バクーニン(1814-1876)は、ロシアのトヴェーリの貴族の家に生まれた。ポーランドでロシア帝国の役人となったが、ツァーリの専制政治に抗議してクビになり、亡命した。その後革命家となり、1849年のドレスデン防衛では指導者のひとりとして参加した。
死刑判決を受けたバクーニンは1855年にシベリアに送られたが、1861年に脱走してヨーロッパに戻った。無政府主義者のサークルと出会い、プルードンの弟子として活発に働くようになった。
最初はプルードンの思想を受け入れていたが、そのうちに、国家は暴動で破壊すべきだと考えるようになった。ストライキにも賛成した。社会生活上の階級はどうでもよく、階級闘争についても理解がなかった。貧しい人、特に極貧の人々は暴動を願う気持ちをいつも持っていると、バクーニンは考えていたのだ。ベルンシュタインはバクーニンの考えについて「経済的条件ではなくて意志が、事態を永久に変えるうえで決定的である。この種の考え方は、一揆主義に直結する」と言った。労働組合の闘争に対しても後には暴動を目標とすべきとし、社会主義体制となれば労働組合は生産組織となると考えた。こうしてバクーニンは、アナルコ・サンディカリズム(無政府労働組合主義)の生みの親の一人となった。支持者はイタリア、スペイン、南フランス、フランス語系スイス、ロシア、そしてアメリカ国内の外国生まれの労働者の間に多かった。

1882年に『神と国家』という本が出版された。その中で、官憲主義的抑圧の根源として国家と宗教を結び付けている。そして、国家も宗教も、ともに暴力で破壊しなければならないと説いている。その主要な原則は次の通りだった。
1.無神論の宣伝
2.国家の破壊
3.一切の政治行動の拒否、財産相続権の廃止
特に3を力説した。

無政府主義者の大原則「資本主義国家は廃止しなければならない」ということにはマルクス主義者も賛成していた。しかし、マルクス主義者の資本主義打倒の方法(労働者階級の政治闘争、プロレタリア独裁、プロレタリア党)は、バクーニンといつも衝突した。特にマルクスは、バクーニンの陰謀的、テロリスト的な方針は許せなかった。バクーニンにとって少数の陰謀家によって引き起こされるストライキは、資本主義を全面的に終わらせることを促進するものであった。大衆が資本主義体制に死の打撃を加えれば国家は自動的になくなり、ただちに「諸個人、諸コンミュン、諸地域、諸民族の自由な連合体」が生まれる。資本主義が崩壊すれば一夜でそうなるのだとバクーニンは主張した。
しかし、そうしたバクーニンの考えは、マルクス主義者にとっては馬鹿げたもの以外のなにものでもなかった。労働者を解放するのはプロレタリア革命でしかない。資本主義が崩壊した後は、中間期、すなわちプロレタリアートの独裁があるのだ。これは労働者階級による階級的支配である。この期間を経て、究極の目的である「国家を持たない無階級の社会主義社会」が訪れるのである。
・革命がすぐにでも達成できると考えている点
・革命をあまりにも簡単なものと見ている点
・プロレタリア独裁の必要がわからない点
・当面の改良を求める労働者の緊急な行動の意気を甚だしく過小評価している点
・労働者階級の闘争の統一の条件として無神論を持ち出している点
・強力な政党が何としても必要なことを無視している点
こうした点で、マルクス主義とバクーニン主義は激しい争いを繰り広げた。バクーニン主義はマルクス主義にとって、根本的な間違いを犯しているとみなされていた。

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