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20230520学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第8章-1

20230520
『三つのインタナショナルの歴史』

【第8章 バクーニン主義 ―バーゼル大会(1869年)】

国際労働者協会第4回大会
1869年9月6日から12日
バーゼル(スイス)

ストライキの波はとどまることなく、ウェールズ、ノルマンディ、リヨン、ジュネーヴなどで相次いで起こり、イギリスでもフランスでもオランダでも、スイスやアメリカでも、多くの団体を巻き込んでいった。これらのストライキに対してインタナショナルは大きな指導的地位占め、大きく発展していった。会員数も増え続け、多くの地方で労働者新聞が急速に発展した。1870年のヨーロッパ大陸では、インタナショナルを支持する新聞が29もあった。

大会出席者は76名でフランスが一番多く26名来ていた。総評議会委員は7名だった。この時もマルクスは出席していない。
アメリカからは1名の参加であった。全国労働同盟(NLU)の代表W・C・キャメロンである。キャメロンは80万人の会員を代表して来た、と言った。もちろん大袈裟な数字だったが。キャメロンが特に興味を示したのは、アメリカにスキャップ(ストライキ破り)を入れるのを阻止するためのインタナショナルの活動であった。そして彼は、インタナショナルに「移民対策本部」を作らせた。大した働きはしなかったが。
NLUの内部には、インタナショナル加盟を支持する声があった。しかし、1869年7月に、有力な国際主義者であるシルヴィスが亡くなっており、加盟には至らなかった。シルヴィスの死を知って、インタナショナルはシルヴィスを労働者のための闘士であったと称え、死を悼む手紙を送った。マルクスの署名もあった。
アメリカでは1869年2月に新しく「全国黒人労働同盟」が結成された。この同盟は1870年の大会に代表を送ることを決めたが、この大会は、フランス=プロイセン戦争のため開かれなかった。

[アイゼナッハ派]

バーゼル大会には、10名の有力なドイツ代表団が出席していた。彼らは、社会主義政党や社会民主労働者党の代表で、インタナショナルに最初に加盟した党であった。これらの党は、1869年8月(バーゼル大会の1か月前)にドイツのアイゼナッハで創立された。
主な指導者は、リープクネヒトとベーベルだった。

ウィルヘルム・リープクネヒト(1826-1900)
ドイツのギーセンで生まれの教員。カール・リープクネヒトの父。共和主義者で、1848年のドイツ革命に積極的に参加。数回にわたり投獄、国外追放される。ロンドンでマルクスと一緒に13年間働き、共産主義者となった。1861年にドイツに戻ると同意の労働者階級の優れた指導者となった。ラッサールと協働していた。

アウグスト・ベーベル(1840-1913)
ドイツのケルン近くの生まれ。プロイセン陸軍の下士官の息子。ろくろ工となりラッサールの組織に参加。リープクネヒトと進行するうちにマルクス主義者となり、1866年のオーストリア=プロイセン戦闘に激しく反対した。ドイツ社会民主党の先駆けとなったアイゼナッハの労働者団体統合に大きな働きをした。

こうした優れた指導者がいたにもかかわらず、アイゼナッハでの社会民主労働者党の発足からドイツの労働者階級を統一することはできなかった。全ドイツ労働者協会は、ラッサールの跡を継いだシュワイツァーがいつまでも協同組合で国家の援助を得ながら生き残っていた。マルクスはシュワイツァーを「セクト主義者」と罵っていたが、ラッサールは一向に気にせず、インタナショナルへの加盟には全然興味がなかった。

[バクーニン、国際労働者協会にはいる]

バーゼル大会には、バクーニンが代議員の一人としてやってきた。

ミハイル・バクーニン(1814-1876)は、ロシアのトヴェーリの貴族の家に生まれた。ポーランドでロシア帝国の役人となったが、ツァーリの専制政治に抗議してクビになり、亡命した。その後革命家となり、1849年のドレスデン防衛では指導者のひとりとして参加した。
死刑判決を受けたバクーニンは1855年にシベリアに送られたが、1861年に脱走してヨーロッパに戻った。無政府主義者のサークルと出会い、プルードンの弟子として活発に働くようになった。
最初はプルードンの思想を受け入れていたが、そのうちに、国家は暴動で破壊すべきだと考えるようになった。ストライキにも賛成した。社会生活上の階級はどうでもよく、階級闘争についても理解がなかった。

バクーニンは1864年にマルクスと初めて会い、このときはインタナショナルを支持することを約束した。しかしその約束を破り、イタリアで別の組織を作った。スイスに行くと、ブルジョア的な「平和自由同盟」に参加し、中央執行委員に選ばれた。1868年には同盟から抜けたが、インタナショナルに入るのではなく「国際社会民主同盟」という組織を仲間と作った。
この同盟で、バクーニンは過激革命的な綱領を作り上げた。神と国家に対して戦うと宣言し、宗教的な儀式はすべて廃止せよと要求した。
マルクスはこの綱領に極めて激しく攻撃した。「彼の綱領は右から左から皮相的にかきあつめてできた雑炊であった」雑炊というか、ごった煮と言った方がわかりやすいか。
国際社会民主同盟は、イタリアやスペイン、フランス系スイスなど、産業の遅れた国々で勢力を伸ばしていった。ヨーロッパの政治情勢はこのころ極めて不安定で、こうした状況はバクーニンのような運動に好都合だったのだ。また、ロシアとアメリカの中にも支部ができた。

大衆のあいだではインタナショナルが急激に成長していた。するとバクーニンと仲間たちは、インタナショナルを利用しようと考えた。インタナショナルの急激な成長とともに自分たちの運動も育つのではないか。そうして1868年12月、バクーニンは自分たちの同盟のインタナショナル加盟を申し入れた。しかしこれに対して総評議会は承認を拒絶した。バクーニンはあきらめず、自分の同盟の会員は経済労働者協会に支部として入ることとし、同盟は解散することにした。こうしてインタナショナルに加盟を許されたのだが、バクーニンの同盟は実際にはその後もなくならず、各国で活動を続けた。

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