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20230525学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第10章-1

20230525
『三つのインタナショナルの歴史』

【第10章 ハーグ大会での分裂(1872年)】

パリ・コンミュンの存続はたったの72日間だったが、その行動は支配階級を心から縮み上がらせた。支配階級は、もうこんなことは二度と起こらないようにしようと決心した。ヨーロッパの各地で、支配階級は矛先をインタナショナルに向けて攻撃し始めた。

・フランス
1871年に、インタナショナル加入を禁止する法律を作った。これ以降、インタナショナルに加盟するものは犯罪人となった。コンミュン戦士亡命者もフランスに引き渡されることとなった。
・オランダ
国内に共産主義が広がるのを抑えるために、300万グルデンの予算を計上し、対策に充てた。
・ドイツ
ベーベルとリープクネヒト(2人はアルサス・ローレンの併合に抗議してコンミュントの連隊を声明した)が逮捕され、2年間の禁固刑を言い渡された。
その他、スペイン、イタリア、ベルギーでも、インタナショナルは気が狂ったような攻撃を次々とされた。更にローマ法皇も復讐の要求に賛成し、1873年にはロシア、ドイツ、オーストリア=ハンガリアが、インタナショナルとの闘いの相互協定を結んだ。
イギリスも仲間にしようとしたが、イギリスはこれに加わらなかった。

[内部の危機]

インタナショナルは確かに外部から激しい攻撃を受けたが、それよりももっと危険だったのは内部の危機であった。
この危機の中心は、マルクス主義者(総評議会系の勢力)と、バクーニン主義者(社会民主同盟)との対立の激化だった。
マルクス主義者としては、コンミュンは自分たちの一般的政治方針の正しさを証明したと主張した。
これに対してバクーニン主義者は、パリその他のフランスの都市の労働者が自然発生的に決起したのはバクーニンが宣伝した自然発生性の哲学を証明したものだと主張した。

バクーニン主義者は勢力を強め、この分派活動を積極的に推し進め、ヨーロッパの多くの国で賛同者を獲得していった。そして、彼らの本拠地であるジュネーヴに、インタナショナルの本部を移させようと策動した。
コンミュンはプルードン主義やブランキ主義は葬られたが、バクーニン主義は息を吹き返したのだ。

インタナショナルの勢力の衰えは深刻なものになってきた。フランスではコンミュン以降労働運動は全く起こらなくなった。ドイツでは、マルクス主義者とラッサール主義者が対立し、労働運動を混乱に陥れた。アメリカでは、友好団体である全国労働同盟が急速に力を失った。マルクス支持の中心であったイギリスでは、労働組合の指導者たちはこぞって総評議会から脱退してしまった。そのほかの日和見主義者たちは、自分達と労働組合のつながりを独自で持とうと、国際労働者協会のイギリス連合を作るまでに至った。

[ロンドン協議会]

1871年9月17日から23日、インタナショナルはロンドンで臨時会議を開いた。フランス代表を守るために協議会は秘密裏に行われた。出席者は23名。マルクスはドイツ、エンゲルスはイタリア、N・ユティンはロシア、エッカリウスはアメリカを、それぞれ代表した。

ロンドン協議会の目的は、インタナショナルの内部分裂を解決することだった。スイスでは二つの組織が敵対しあい、スペインではたいていの都市に民主同盟の支部とインタナショナルの支部両方ができた。このような深刻な事態をどう解決すればよいのか。コンミュンの大きな教訓の中から強調したのは、「各国の労働者は政党を組織して、政治活動を行う必要がある」ということであった。これについては、ドイツ社会民主主義労働者党が最近の選挙で勝利したことを祝った。これは、バクーニン主義者にとっては「死の毒薬」に他ならなかった。
会議は、次の国際労働者協会の大会を翌年開催することを決めた。しかし、バクーニン主義者はこれを守ろうとしなかった。彼らは、1871年11月12日、スイスのリンヴィリエで勝手に大会を開いた。この大会には、バクーニンの民主同盟系分子だけが出席しており、総評議会は腐敗していて独裁的であり政治活動綱領は認められないとして、来年ではなくただちに大会を開くよう要求した。

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