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20230819学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第17章-2 「労働組合インタナショナルの創立を目指す」

20230819
『三つのインタナショナルの歴史』

[アナルコ・サンディカリズム]

「偉大な日々を待ち望みながら細かい活動は拒み、偉大な事件を作り出す勢力を結集する能力を持たない」というのは、アナルコ・サンディカリズムに対するレーニンの批判である。

アナルコ・サンディカリズムは1900年頃には労働運動の中で明確な一潮流を成していた。背景となっていたのはプルードン主義、バクーニン主義だった。
フランス、イタリア、スペイン、ポルトガルなどの国々ではマルクス主義労働組合もかなりの勢力を持ってはいたが、労働組合運動の支配的な形式はアナルコ・サンディカリスト組合であり、ラテンアメリカもこれに続いた。アメリカやイギリス、オーストラリア、カナダでは、1905年以降は主に世界産業労働組合(IWW)の内部にサンディカリスト的傾向がみられた。世界の各地で強力なサンディカリスト労働組合ができた主な原動力は、無政府主義を発展させた原動力とだいたい同じものであった。すなわち、工業の後進性、小規模手工業、選挙権の制限、政府の極端な政治的腐敗、社会民主党の日和見主義、そして、カトリックの権威主義などである。

当時のアナルコ・サンディカリスト組合は、革命的な見通しを持ち、労働組合が社会を運営することを望んでいた。革命の武器は、武装蜂起をもってするゼネストである。ストライキの時は職場において怠業運動の形でのサボタージュを行った。また、攻撃的で反政治的であり、選挙活動や組織的な議会活動への参加は一切認めなかった。組織としては地方分権であり、各組織が自主制を保っていた。統一行動のためには大衆の自発性と戦闘的少数分子の組織的な活動力に頼っていた。こうした組織としての方針に対して、レーニンは批判したのだ。

フランスでは1871年のパリ・コミューンの少し後に、最初のアナルコ・サンディカリスト組合の成長がみられた。1884年には、労働者に対して労働組合を組織する法律が、制限付きではあるが制定された。しかし、法律ができるよりもはるか前に、フランスでは労働者が組合をつくっていたし、全国的な連合体が5つも存在していた。フランスの労働組合運動における組織路線は2つあり、ひとつは地方別の組合会議(労働紹介所)、もうひとつは産業別ないし職業別の全国連合体である。1895年に労働総同盟ができて、この運動を一つに統一した。
フランスの革命的労働組合運動の基礎を据えた人物は、フェルナン・ペルティエという共産主義的無政府主義者であった。彼はサンディカリズムの一般的な原則を定めた。
フランスのサンディカリスト運動の綱領は、1906年12月の労働総同盟アミアン大会においてまとめられた。大会では「アミアン憲章」というものができ、これには次のように記されていた。「労働総同盟はゼネストを行動の手段として、完全な解放を準備する。そして、現在は抵抗のグループである労働組合(サンディカ)が、将来は生産と分配のグループとなり、社会再編成の基礎となるであろうと考える」。その後、イタリアとスペインのサンディカリストもこれに倣った。

[労働組合インタナショナルをめざして]

1864年に第1インタナショナルを創立したのはイギリスとフランスの労働組合員だった。第1インタナショナルは労働組合の闘争の諸問題に多くの力を注ぎ、この活動がアメリカの全国労働同盟を惹き付けた。労働組合の数が増えるのに伴い、第1インタナショナルは政治的な問題に多く携わるようになった。すると、労働組合だけからなるインタナショナルをつくろうという気運が育っていった。この問題は、第1インタナショナルの諸会議で検討され、1877年9月のガン大会で承認されたものの、具体的なことは何一つ生まれず、第1インタナショナルはその歴史を通じてずっと労働組合の加盟を受け入れた。
第2インタナショナルもそれに続いたが、1893年のチューリヒ大会と1896年のロンドン大会では、労働組合インタナショナル創立の問題が討議されていた。しかし、職業別の労働組合では国際的な労働組合組織を求めており、職業組合の国際協議会と書記局をつくるということが具体化していった。1872年には葉巻製造工、1889年には印刷工、1890年には炭鉱夫といった職業組合がこれに進み始めた。1900年には書記局は17を数え、主要な職業と産業をほぼ包含した。こうした各国の職業組合の協力は、労働者が必要としていたことであった。

その一方で、労働組合インタナショナルを作ろうという動きも強まっていった。イギリスとフランスの労働組合員は、第2インタナショナルが社会党に支配されていることに憤慨し、アメリカ労働総同盟も社会民主党には従わなかった。労働組合の国際的協力の強化に賛成し、1893年のシカゴでの世界博覧会に合わせて労働組合の世界大会を開くことを目指した。しかしこれは、1892年の第2インタナショナルブリュッセル大会が承認せず、実現には至らなかった。

ドイツの労働運動を主導していたのは保守的な社会民主主義者(レギエン機構)であり、労働組合インタナショナルに反対していた。彼らは、イギリス、フランス、アメリカの労働組合運動が、自分たちの統制から外れてしまうことを恐れていた。
1901年8月21日、コペンハーゲンに広範囲な労働組合会議が召集され、世界労働組合会議を定期的に開催することを提案したが、ドイツの幹部は先頭に立って労働組合インタナショナルの創立に反対した。
ところが、1902年のシュトゥットガルト、さらに1903年のダブリンにおける会議では労働組合インタナショナルの創立を求める声が大きくなり、ここで妥協案が生まれた。「各国労働組合中央組織国際書記局」というものを創立することであった。翌年の1904年には、237万8955人の組合員を持つ14の全国中央組織がこの団体に加盟していた。

この書記局は、各全国中央組織がそれぞれ2名の代表からなり、2年に一度の会議を開催することとなった。これは、第一次世界大戦後まで、広範な国際的組織の結成を阻むのに役立った。

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