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20240223学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第25章-1 第一次世界大戦

20240223

『三つのインタナショナルの歴史』

第25章 重大な裏切り ── 第一次世界大戦


エンゲルスが予言していたこと。

「1500万ないし2000万もの武装した人間が互いに殺し合う」

これは、第一次世界大戦のことである。


第一次世界大戦は、大資本主義列強の間に積み上げられてきた、帝国主義的諸対立の爆発であった。戦争は、資本主義にとっての本質的なものである。

戦争への直接の引き金となったのは、1914年6月28日、セルビアのサラエヴォで、狂信的なセルビア民族主義者のひとりがオーストリア大公フランツ・フェルディナンドを暗殺した事件であった。それまで帝国主義諸国間に積み重なっていた緊張状態は極めて激しいものであった。

戦争になると、これに参加した全ての政府は偽善的な道徳的立場を装った。自分たちは民族自衛のために戦っているのだと。しかし、どのような偽善的な言葉を並べても、戦争は戦争である。植民地や市場や戦略的な地位、そういうものをめぐる列強の間の醜い帝国主義的抗争に他ならない。1000万人の兵士が戦場で殺され、2000万人の負傷者が出た。さらに幾百、幾千万の数えきれない人々が窮乏の底に落ち込んだ。それが現実である。ただし、この事実も、世界始まって以来最もむごたらしい大虐殺の手綱を引いている冷酷な資本家にとっては、ただの統計上の数字にすぎない。この戦争は、世界を再分割するための、帝国主義的戦争だったのである。


国ごとに速度に開きのある工業の発展は、各国間の経済的・政治的な不均衡をもたらした。こうした不均衡は帝国主義列強間の紛争をますます鋭いものにし、現代の戦争の根本的な原因となるのだと、レーニンは言っている。


イギリスは、1860年当時、世界の石炭と銑鉄の半分以上、世界の綿製品の約半分を生産していた。これが1913年になると、イギリスのこれらの商品の世界生産における割合は、石炭が22%、銑鉄が13%、綿製品は23%に落ちてしまった。

代わりに、1899年から1913年の間に、ドイツとアメリカではこの新しい産業は3倍に増加し、イギリスと競争するまでになった。イギリスはかつて世界の産業の覇者だったが、競争からはすっかり遅れてしまった。1913年には、アメリカは十分指導的な産業国となったのである。


戦争は人殺し行為である。そして戦争は、世界の諸国間の政治的関係を、経済関係が変わるのに応じて変えていく資本家の手段である。ドイツ、オーストリア=ハンガリア、ブルガリア、トルコの三国同盟、イギリス、ロシア、フランス、イタリア、アメリカ、日本などの三国協商。これらは何年間にもわたり意識的に戦争を準備してきた。列強の全てに戦争責任があった。


『ソ同盟共産党(ボ)小史』には次のようにある。

《帝国主義戦争を準備するにあたって、ドイツは、イギリスとフランスからその植民地を、ロシアからはウクライナ、ポーランド、バルト沿岸を、それぞれうばいとろうと意図した。……ツァーリのロシアは、トルコの分割を意図し、黒海から地中海にいたる海峡(ダーダネルス)の獲得、コンスタンティノープルの強奪を夢みた。イギリスは、危険な競争者であるドイツを戦争によって撃破しようと意図していたが、そのドイツの商品は、戦前に世界市場でイギリス商品をますます確実に追い出しつつあった。フランスの資本家は、ドイツからザール盆地とエルザス=ロートリンゲン(フランス名はアルサス=ロレーヌ)を強奪しようと意図した。それは石炭と鉄に恵まれた二つの宝庫であり、そのうち、エルザス=ロートリンゲンは1870〜71年の戦争でドイツがフランスから奪ったものであった。》

これらの背景にあったのは最大の帝国主義国家であるアメリアであり、戦争を利用して世界を支配しようという資本家的目標に歩みを進めようとしていた。


第一次世界大戦は1914年7月28日、セルビアに対するオーストリアの攻撃から始まった。ロシアは動員を開始し、8月1日にドイツが参戦。8月3日にフランスが参戦。4日にイギリスが参戦。そのほかの列強も次々と参戦した。アメリカも抜け目なく、彼らの「同盟国」側に軍需品を売りつけて金儲けをしていたが、やがて協商国側が負けそうになるのを心配し、1917年4月6日、ついに参戦した。この時のアメリカの口実は、「自国防衛」であった。


この戦争によって、第2インタナショナルは、平和のための確固とした立場をとることの責任に直面した。反戦は労働者の利益であり、インタナショナルがこれまでの諸大会で繰り返し宣言してきたことである。それは、単なる戦争反対ではない。人とカネを戦争のために差し出すことへの反対であり、もっと重要なのは、戦争によって招来された経済上政治上の危機と資本主義的支配を、排除することであった。それなのに、戦争が始まると、第2インタナショナル諸党の多くが自国のブルジョアジーに尻尾を振り、「祖国防衛」というスローガンの下、それぞれの自国の国民を帝国主義者の大虐殺に追い込んだのだ。そんな中、断固として戦争反対の立場を守ったのは、ロシアとセルビアの党だけであった。この二つの国ではボリシェヴィキの勢力が強かった。


この不幸の大きな原因は、「社会排外主義」である。すなわち、自国の資本家階級のブルジョア民族主義にくっつき、労働者階級の利益を、戦争製造の張本人である帝国主義者の利益と一致させようとする企てである。この裏切りの主要な層は、比較的賃金の良い熟練労働者や官僚的労働役員、そして日和見主義的な小ブルジョア・インテリゲンツィアであった。

レーニンは言っている。《19世紀の終わりの客観的情勢は、日和見主義を特に強めるものであった。すなわちブルジョア的な合法性を利用するのだといいながら、合法主義の奴隷に成り下がってしまったり、労働者階級の中に労働官僚、労働貴族の一握りの層を発生させたり、社会民主主義政党の隊列に多数の小ブルジョア『同伴者』を吸収したりすることによって、そうなったのである。》

第2インタナショナルの創立以来、日和見主義の諸傾向を容認してきてしまった結果がこれである。戦争は、さらに日和見主義の発展を促してしまった。日和見主義は社会排外主義となり、日和見主義者とブルジョアジーとの秘密の同盟は表立った同盟に変わってしまった。戦争によって第2インタナショナルの国際主義は薄っぺらいものとなり、たちまちブルジョア民族主義の泥沼の中に崩れてしまった。



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