見出し画像

20230803学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第17章-1

20230803
『三つのインタナショナルの歴史』

【第17章 国際労働組合運動】

労働組合は、以下の理由から労働者階級の基本的な大衆組織であり、また、ある国で労働者階級がつくる組織の最初の型である。
・労働者のみで構成されている
・生産と搾取の中心点である職場に直接組織されている
・労働者大衆の大多数を含んでいる
・勤労大衆にとっての切実な問題(賃金、労働時間、労働条件など)に取り組むことを第一の仕事としている

労働組合の政治活動は、議会委員会や労働者党など特別の政治組織をつくり、またはそうした組織を支持して政治活動を行うこととなる。労働組合そのものに政治闘争を成功させるだけの力はない。アメリカでは徐々に成長していった労働組合が数十の闘争の末、正式な組織として認められたが、経営者側からは相変わらず激しく争われていた。また、ロシアや東ヨーロッパでは労働組合はトロリズムの弾圧化に置かれ、合法的な存在を許されていなかった。どちらも1900年までのことである。
資本主義が最初に大きく前進したイギリスは、労働組合運動の誕生の地である。労働組合は18世紀の半ばには生まれ、他の国々の労働者はイギリスの労働者階級から多くのことを学び労働者組織をつくった。そうしてつくられた労働組合は、おおまかに3つの部類に分かれた。純粋・単純な労働組合、社会民主主義的な組合、アナルコ・サンディカリズムの組合である。

[純粋・単純な労働組合運動]

純粋・単純な型の労働組合運動は、レーニンの名付けた「経済主義」である。その特徴は、資本主義を受け入れ、階級意識の度合いが低く、国際主義の精神が弱いというものであった。熟練労働者によって組織されていたので、活動の原則としては、労働者階級の広範な大衆を犠牲にして熟練労働者を守ることに重点が置かれていた。これは、労働貴族と労働組合官僚を癒着させて腐敗させようとする、経営者たちの考えに合致するものだった。活動の分野としては、たいていは初歩的な経済問題であり、政治的な問題ではブルジョアジーの自由主義的分子につき従っていた。その指導者たちのスローガンは「組合に政治はいらない」であった。

純粋・単純な労働組合運動は、ブルジョア経済学を受け入れ、マルクス主義理論は馬鹿にしていた。組合としての具体的な見通しはたてず、その日その日をただ過ごしていた。彼らの望みは、もっと良いものを着たい、もっと気持ちよく住みたい、もっと良い市民になりたい、という普通のことだった。

イギリスでは、1881年に「社会民主連盟」が、1882年には「社会主義連盟」がそれぞれ結成された。これらはいずれもマルクス主義である。また、1883年には無政府主義的社会主義の「独立労働党」が発足、1899年には労働代表委員会が労働組合によってつくられた。この労働代表委員会は、その5年後には労働党となった。こうした背景からイギリスでは経済的困難が深まるにつれ、労働運動の政治家が進んでいき、1900年までには労働者階級は純粋・単純な労働組合運動からは距離を置いていった。

アメリカはイギリスとは違い、純粋・単純な労働組合運動の進み具合はずっと遅かった。その根本的な原因は、資本主義世界経済におけるアメリカ帝国主義の立場が比較的強かったことにある。
1900年、サミュエル・ゴンパースがアメリカ労働総同盟の会長に就任した。ゴンパースは自らを「社会主義の敵」と名乗っていた。そのゴンパースがアメリカ労働総同盟の会長になると、多くの労働組合幹部が民主党や共和党に公然と加入していった。そして彼らは組合からカネを盗み出し、経営者と癒着するようになった。「ストライキをしない保障」を経営者に売りつけ、黒人や夫人を組合および産業から閉め出した。それだけでなく、未熟練労働者を未組織のままにしておく協定を会社と結ぶことまでした。彼らにとっては「階級協調が原則」であり「社会主義は大敵」であった。「組合協約は神聖にしておかすべからず」が彼らのスローガンであった。
彼らのやったことは、職業別組合のスト破りを使って数々のストライキを破り、労働運動を政治的に骨抜きにすることだった。また、様々な不正利得で腐敗し、金持ちになった。
1900年から翌年にかけて、アメリカの社会主義者は社会主義労働党から分離し、社会党を結成した。しかし社会党も、腐敗したゴンパース一派から労働運動の政治的権力を勝ち取ることはできなかった。
アメリカの労働組合の多くは政治活動を行っており、もはや純粋・単純な労働組合運動とみなすことはできない。しかし労働組合の最高幹部たちはあくまでも反マルクス主義者であり、概して労働者階級の独自の政治活動の敵であり、アメリカ資本主義をあからさまに熱心に擁護している。

[マルクス主義的労働組合運動]

1900年当時のヨーロッパは、ほとんどの国で社会民主主義的労働組合運動が盛んであったが、国によって多少の違いはあった。特にロシアが特徴的で、西ヨーロッパの社会民主主義的労働者組織よりもはるかに革命的傾向が強かった。

ヨーロッパの社会民主主義的労働組合運動の特徴としては、社会主義への見通しを支持し、公式にあるいは非公式に社会見主主義諸政党の政治的指導を受け入れていた。組織形態は産業別。創成は中央集権制。考え方ははっきりと政治的であった。組合は、一般的に社会主義政党の指導下につくられた。
労働組合運動の政治化が進んだ理由は、ひとつにはマルクス主義政党の影響、もうひとつには、ヨーロッパ各国では封建制が根強く残っており、労働者は基本的な政治的権利としての投票権・組織権・罷業権などを勝ち取るために戦わなければならなかったからである。

ドイツの社会民主主義的労働組合は、世界の模範だった。オーストリアの組合もその後に続いた。1848年の革命で、ドイツでは組合の草分けともいうべき職業別の組織が生まれたが、革命の反動によって潰されてしまった。1860年代の中頃には再び同じような組織が生まれたが、進展は遅いものがあった。また、1878年の社会主義者取締法が施行されると、組合組織は解散に追い込まれ、出版物は一掃されるなどして大打撃を受けた。しかし、社会民主党も労働組合も次第に立ち直り始め、1890年にこの弾圧法が廃止されるとその勢力は以前よりも強大なものになった。この時点で組合員は約28万人、全国組合は58となっていた。労働組合総同盟が結成され、カール・レジエンが書記長となった。ドイツの労働組合員は1900年には約68万人となった。

1893年のチューリヒ大会で、メーデー・デモを骨抜きにする提案がドイツから出されたことがあった。これは5月1日をメーデーと定めるのではなく、5月の第一日曜日に変更しようではないか、というものであった。世界の労働者にとって極めて重大なメーデーを骨抜きにする提案がドイツから出されたことからもわかるように、ドイツ労働組合の最高指導部は早いうちから日和見主義的傾向を強めていた。幹部たちは、組合の中に中央集権化された厳格な統制を打ち立てた。そうして、労働組合民主主義を弱体化させようとした。組合幹部は、党への忠誠を表明しながらも実際には組合の中立性の原則を守り、組合を自分たちの官僚的統制のもとに作り上げようとした。このような傾向は、のちにドイツ労働運動の破壊を招くことになった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?