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20230601学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第10章-2

20230601
『三つのインタナショナルの歴史』

[ハーグ大会]

国際労働者協会第5回大会が、1872年9月2日からオランダのハーグで開かれた。
この時初めて、マルクスとエンゲルスが揃って出席した。バクーニンは欠席したが、バクーニン派は多数押しかけていた。マルクスはこの大会を、インタナショナルにとって生死の問題になると思うという手紙をドイツの同志に送っている。

この大会は、開催直後から困難に見舞われた。信任状の確認作業に3日もかかった。3日目に認められたのは56人の代議員で、約40名が総評議会の主要方針を支持し、約25名が反対した。マルクス主義派の支持者は各国合わせて41名。バクーニンの支持者は23名。イタリアのバクーニン主義の代議員は大会をボイコットした。
各党派には必ずしもはっきりとしたイデオロギーはなかったが、イギリスの代議員は特徴的であった。彼らは主に「純粋・単純な労働組合運動家」で、バクーニンの無政府主義的意見には与しなかったが、マルクス主義者にも反対の投票をした。

[ハーグ大会での重要な討論]

大会ではいくつかの議題が出されたが、そのうち重要なものは4つあった。全て、マルクス主義者とバクーニン主義者の対決であった。

1.総評議会の権限
・バクーニン主義者の提案
「総評議会は通信連絡の事務所かつ統計的資料の収集者以上のものであってはならない」
・マルクス主義者の主張
「相当程度の国際的な中央集権の政策と規律が必要である」
・評決
マルクス主義者支持……40票
バクーニン主義者支持…4票
棄権11票
総評議会はもっと効果的に大会の決定を実行し、かつ、規律を確立できると認められた。これにより、インタナショナルの分会、支部、連合評議会、委員会、連合会を、次期大会まで一時的に除名することができるようになった。

総評議会は独裁だというバクーニン主義者は非難したが、総評議会は、政治や組織上の中心としてというよりも、理論上の中心として働いていたのである。各支部の綱領に、協会規約の規定と精神に反するものがないか監視するのが主な任務だった。また、各国のストライキや特定の政治運動のイニシアティブを取ったこともなく、それらの活動が起こった場合にそれを支持しただけであった。しかし、これらの総評議会の主張は、無政府主義のバクーニン派には「行き過ぎ」と思われることであった。インタナショナルが強い中央集権をとったのは、その存亡の危機に立ち至ったときだけだった。

2.政治活動の問題
・マルクス主義者の提案
「プロレタリアートは、有産階級の集合的勢力との闘争において、自分の勢力を独立の政党に組織し、有産階級によってつくられたあらゆる旧政党と対抗することにより、はじめて一階級として行動することができる。このような政党としてのプロレタリアートの組織は、社会革命の勝利を達成するために、とりわけその究極目標たる階級の廃止をなしとげるために、なくてはならぬものである。」(1871年のロンドン協議会と同じ内容)
・ブランキ主義者の主張
「ストライキは革命闘争の一つの武器であり、バリケードは一番強力な武器である」という趣旨に決議案を修正するよう要求。
・バクーニン主義者の主張
『共産党宣言』をブルジョア政治と同じだとして決議案に反対。
・評決
マルクス主義者支持……29票
バクーニン主義者支持…5票
棄権………………………9票

ブランキ主義者は、武装蜂起を政策の基礎とし、経済上政治上の改良を忌み嫌っていた。また、バクーニン主義者は、国家は暴動によって破壊すべきだと考えており『共産党宣言』を「多数派は政治権力の奪取を目的とし、少数派は政治権力破壊を目的とする」と主張した。
マルクス主義者の「政治権力を獲得する」ということの主張とは全く逆であった。

3.インタナショナルのニューヨークへの移転
・エンゲルスの提案
「1872~73年のあいだ、総評議会の所在地をニューヨークにうつすこと、総評議会の構成を北アメリカ連合評議会、キャヴァナ、セント・クレア、ゲッティ、カール、ローレル、F・L・バートランド、F・ボルテ、C・カールとすることを提案する。これらの委員はほかに委員を選任する権利をもつが、委員総数は15名をこえてはならない。」(マルクス他10名の署名)
・バクーニン主義者、ブランキ主義者は反対
・評決
エンゲルス支持…………30票
バクーニン主義者支持…14票
棄権………………………13票

インタナショナルはニューヨークに移転することが決まった。委員は必ずアメリカに住むという原則に従い、新しい総評議会の委員が選出された。
インタナショナルの移転理由は、もうヨーロッパでは効果的な活動ができないということであった。インタナショナルはバクーニン派無政府主義者に乗っ取られてしまった。そして、彼らのセクト的な仕事に利用されるところだった。そのため、まだ若いアメリカ労働運動の中にインタナショナルの本部を置くことで、強力な基盤を築くことができると考えた。

4.バクーニン主義者の除名

ハーグ大会が開かれていた時でさえも、インタナショナルは分裂していた。ソンヴィリエの無政府主義者大会が開かれていたり、この反対派がラテン系諸国で分派的な運動を行っていたりした。バクーニン派は、なんとしても支配権を握りたかった。

大会は、最初5名の委員会を任命した。マルクス、エンゲルスほか、両派の指導者たちがこの委員会に入った。この委員会の任務は、インタナショナル内部の社会民主同盟の調査や、各地のバクーニン派連合会が総評議会に対して行っていた非難について調べることだった。
この委員会の多数派(4対1)の報告に従い、バクーニン主義者の除名が可決された。
1872年5月5日、マルクスは『インタナショナルのいわゆる分裂』という報告書で、バクーニン派との闘争経過を論じているが、この報告書と今回の調査によって、「民主同盟はインタナショナルに反する規約と目的を持ち、インタナショナル内部で広範な分派となっている」と断じた。バクーニン派の各連合は「国民的兄弟」(ナショナル・ブラザーズ)という秘密グループで支配され、この同盟は約100人の「国際的兄弟」(インタナショナル・ブラザーズ)に支配されていた。
こうして委員会は、バクーニン、ギヨーム、シュウィッツギューベル、マロン、ブーケ、マルシャンの除名を勧告した。

[分裂の結果……解散へ]

ハーグ大会の後、アムステルダムで公開集会が開かれた。ここで、マルクスとエンゲルスが演説した。
マルクスは、大会の結果としてインタナショナルの先行きは明るいと述べた。大会が無政府主義者を追放したことは、労働者階級が旧社会を攻撃する必要がある証拠だと強調した。しかし、ただむやみやたらな攻撃はしないようにと警告した。攻撃する場合には、それぞれの国の制度、習慣や伝統に対して特別に配慮しなければならない。例えばアメリカやイギリスのように、平和的手段で革命を達成できると思われる国があることを忘れてならない。だが、ヨーロッパのたいていの国々でさえ、実力が革命のテコになることも認識すべきである。

インタナショナルのニューヨーク移転について多くの人が喜んでいないことに対して、マルクスは、大事なことを忘れていると述べた。
アメリカは、他に抜きん出て労働者の国になりつつある。毎年50万人もの労働者が、この新しい世界に移住しているのだ。インタナショナルは、労働者の優勢なこのアメリカという地に、深い根を張らなければならない!

ニューヨークに移転した後、インタナショナルは再びヨーロッパへ戻ることはなかった。1877年のジュネーヴでの第6回大会は失敗に終わった。出席者は数名の代議員で、彼らは解散運動の代表者たちだった。事実上、ハーグ大会が、インタナショナルの国際大会としての最後の大会となった。アメリカにおけるインタナショナルの4年間は、国際的組織というよりも国民的組織といったようなものだった。もう、世界的な組織としてのインタナショナルは、解散したも同然だった。

ヨーロッパでは、無政府主義者の勢力が国際的な組織としての働きを続けていた。しかし、インタナショナルと彼らの考えとは合わず、結局うまくいかなかった。

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