20230516学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第6章-1
20230516
『三つのインタナショナルの歴史』
【第6章 地がため ——ジュネーヴ会議(1866年)】
国際労働者協会の最初の大会は、もともと1865年にブリュッセルで開催する予定だった。しかし、創立後間もないため時間が足りず、また、ベルギー政府も乗り気ではなかったため翌年に持ち越された。ロンドンで準備会議を開いたのち、1866年9月3日、ついにジュネーブで大会を開催することに決まった。
この大会は、世界で初めての労働者会議であり、初めてというのは何かと多くの問題にぶつかるものである。国際労働者協会が直面した根本的な問題は、協会内にセクトがたくさんあるということだった。さらに、加盟各国のそれぞれに労働者階級の運動が欠けていたことも大きな問題だった。
この最初の大会に参加したのは、労働組合、政治団体、相互扶助組合、消費組合、教育団体等の代表者であり、各国とも全国的な労働者政党や社会主義政党はなかった(ラッサールの組合を除く)。
大会に一番大きな反響があったのはイギリスの組合労働者だった。イギリスから送られた労働組合は15、組合員数は25,173名。シェフィールド労働組合を筆頭に各地の組合も続々と協会に加盟した。しかし、ロンドン労働組合評議会は加盟しなかった。
フランスとベルギーのプルードン派互助主義諸団体も、積極的に大会に参加した。このうち活動的な労働者は、ドイツ、オーストリア、イタリア、スペイン、スイスに点在していたあらゆる労働者団体をまとめることに熱心に取り掛かった。これらの様々な団体の運動はインタナショナルの内部に入り込んだため、マルクス、エンゲルス、その他の進んだ共産主義者たちは、これらのすべてと戦わなければならなかった。例えば、小ブルジョア的なくだらない論議、子供じみた幻想、教会的な夢、セクト的な無能さ、民族的な偏見などと・・・。
アメリカでは、ジュネーヴ大会の2週間前の1866年8月20日、「アメリカ全国労働同盟」(NLU:約6万人の労働者を代表していた)が、ボルティモアで創立大会を開いていた。国際労働者協会の支持は強かったが、ジュネーヴ大会に代表団を送るのはまだ早いということでこれは見送られた。NLUの労働者が掲げた要求が、マルクスがジュネーヴ大会に提案した要求と酷似していることにマルクスは大変驚いていた。なお、この日、シカゴの労働者大会は国際労働者協会への加盟を決定している。
[国際労働者協会の政治活動]
国際労働者協会の政治的な性格は、創立から最初の大会までの2年間でだいたいはっきりしてきた。国際問題というのは、それまでは支配階級の独壇場であったが、この2年の間に、国際労働者協会の指導の下にプロレタリアートが重要な発言力を持つようになってきた。目覚ましかったのは、ポーランド、イギリス、そしてアメリカであった。
ポーランドでは、民族解放闘争が進行中であり、ポーランドの闘士たちのために労働者階級や一般大衆の支持を広げようと、様々な都市で大衆的な集会や会議が開かれ、国際労働者協会総評議会がこれに援助した。
イギリスでは労働者階級の選挙権獲得闘争が起きており、総評議会はこれにも援助した。イギリスはそれまで30年にわたって選挙権獲得のために戦ってきたが、1867年、やっと選挙権を獲得したのである。ずっと拒否してきた資本家が労働者階級に譲歩しなければならなくなった理由は、総評議会の援助の他にもあった。イギリスの資本家たちは、フランスの選挙権制度を皇帝ボナパルトが自分の都合のいいように操っていたのを見て、選挙をそれほど怖がらなくなっていたのだ。労働者に選挙権が与えられても、フランスと同じように自分たちの都合のいいように操ればよいのだと。
アメリカでは南北戦争が勃発していた。総評議会は、奴隷制度反対の気運を動員し、イギリス政府とフランス政府に介入し、これらの親南部的動きを邪魔しようとした。
1864年、リンカーンが大統領に再選されると、11月24日に総評議会はリンカーンに手紙を送った。マルクスからのお祝いと感謝の「あいさつ」である。この手紙はリンカーンを「労働者階級の誠実な息子」と称え、「ヨーロッパの労働者は星条旗が彼らの階級の運命をになうものであることを本能的に感じていました」と述べている。リンカーン暗殺に伴い副大統領であったジョンスンが大統領に就任すると、総評議会はマルクスの「あいさつ」の手紙をジョンスン大統領にも送っている。この手紙でマルクスは、「政治的再建と社会的再生」というジョンスン大統領の政策に注意するよう求めている。リンカーンの奴隷制度反対の方針を貫くように。
イギリス政府の親奴隷制度に反対する闘争は、労働組合や奴隷制度廃止論者から始まり、国際労働者協会の手で続けられた。イギリスは早くに奴隷制度を廃止し、労働者は力をつけていった。これは結果的に、世界労働者の大闘争の一つである「戦争反対のための戦いの基礎」を築くこととなった。
イギリス政府は南部から綿花などを輸入していたから、南部に味方して南北戦争に参戦したかもしれなかった。もしそうなれば、北部にとっては致命的となったであろう。そうならずに済んだのは、イギリス労働者階級が英雄的に参戦に抵抗したからだった。
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