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20240107学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第24章-1 たちこめる戦雲——バーゼル会議

20240107

『三つのインタナショナルの歴史』


第24章 たちこめる戦雲——バーゼル大会(1912年)


1910年のコペンハーゲン大会(第2インタナショナル第8回大会)は、次の第9回大会をウィーンで開くことに決めた。1914年8月に開催予定とした。この第9回大会は、第2インタナショナル創立25周年の記念ということで、特別な行事となるはずだった。ところが、国際情勢がますます危なくなってきたこともあり、大会は前倒しで開かれることとなった。国際社会党事務局は、1912年11月にバーゼルで臨時大会を開催することとした。この臨時大会の目的は、労働者と世界平和の利益を守るために必要な手段を講じることにあった。


このころのヨーロッパの情勢は、1911年7月のモロッコをめぐるドイツとフランスの衝突の危機(この時ドイツ皇帝はドイツ帝国主義の利益を守るためにアガディルへ巡洋艦1隻を派遣したが、暫定的な取り決めで危機は回避できた)、次いで、トリポリをめぐるイタリア=トルコ戦争、1912年10月のバルカン戦争、1913年6月の第2バルカン戦争があった。


[バーゼル宣言]


1912年11月、バーゼル臨時会議は、10月の初めに起きていたバルカン戦争の拡大を阻み、ヨーロッパの全面的な紛争の勃発を避けることを目的として、一つの宣言を発した。


ドイツ、フランス、イギリスの労働者階級にはバルカン諸国の党に対して特別な任務があるのだとして、次のような宣言を述べた。

「インタナショナルの行動中、最も重要な任務を担当するものは、ドイツ、フランス、イギリスの労働者階級である。当面これら諸国の労働者の任務は、自国政府に向かって、オーストリア=ハンガリアに対してもロシアに対しても、一切の支援を拒み、バルカン紛争へのどんな介入も差し控え、絶対に中立を保つよう、要求することである。セルビアとオーストリアとの港湾争いのために、指導的三大文化国民の間に戦争が起こったら、それは犯罪的な狂気沙汰であろう。……ドイツもフランスの労働者は、秘密協定によってもたらされた、バルカン紛争に介入する義務があるというようなことを、認めることはできない」


さらに、全世界の労働者には、資本主義的帝国主義に対してプロレタリアートの国際的連帯の力が必要であるとして、次のように述べた。

「現にみるようなヨーロッパの現状と労働者階級の気持からして、戦争を始めたら必ず自分自身に危険が及ばずにはいない事実を、各国政府にとくと考えさせよう。フランス=プロイセン戦争にはコンミュンの革命的な蜂起が続き、日露戦争はロシア国内諸民族の革命的な力を動かし、陸海軍備の競争はイギリスおよび大陸諸国で階級対立を今までに例のないほどに強め、大ストライキを引き起こしたことを、彼らによく思い出させよう。世界戦争という兇行を思い描くこと自体が、すでに労働者階級の怒りと反抗を呼び起こさないでは済まないのであって、このことを各国政府が理解しないとするならば、それはまったくの狂気沙汰というべきであろう。プロレタリアは、資本家の利潤や、王朝の野望のために、また秘密外交条約の面目にかけて、互いに撃ち合うことを、犯罪と感じている」


[ことばと行動]


バーゼル宣言は、戦争を引きこおすあらゆる事象に勇敢に反対し、帝国主義戦争に反対し、革命的態度を取るよう世界の労働者に要求したのである。これが、ことばを超えて実践に移されていたならば、恐るべき第一次世界大戦の開始にあたってヨーロッパ全土に革命的な戦いが起こっていたであろう。

右翼は、バーゼル宣言に全員一致で、しかも「熱烈に」賛成投票した。投票は、発声による満場一致で可決されたのだ。反対の意見は何一つなかった。このような忌まわしい例外が、なぜ起きたのか。


その理由の一つに、そのころ全資本主義世界の労働者の間にどこでも現れていた、巨大な戦闘力と反戦精神の中に見出すことができる。例えば、ロシアにおける革命の高まり(1912年のレナ金鉱のストライキはツァーリの軍隊によって約500人の労働者が殺傷された)、ドイツ社会民主党の陣列に生じた危機、イギリスの炭鉱や一般運輸・鉄道労働者の間に発展した巨大な三者同盟の運動、イタリア労働者の戦闘精神の盛り上がり(これは1914年6月のゼネラル・ストライキとなる)、フランスの労働総同盟が進めていた多くの戦闘的なストライキ、アメリカの世界産業労働組合などのストライキ(ローレンス、パタースン、西ヴァージニア、カルメット、ハリマン鉄道など)、がある。

また、社会主義諸政党は、過去10年にわたって繰り返された戦争の危機に立派に対処してきた。たとえ帝国主義列強が世界戦争に乗り出そうとも、社会主義諸政党の対応は続くだろうと、左翼と中央派は感じていた。1904年から1905年の日露戦争でもロシアと日本の党が戦争に反対する素晴らしい模範を示していた。スペインの党とサンディカリスト組合も、1909年のモロッコ戦争でプロレタリア的な国際主義の立場を守った。イタリアとバルカンの諸党は、バルカン戦争でマルクス主義的な反戦の態度を示しつつあった。フランス社会党は1912年11月に労働者階級に対して「議会での干渉、公然たる扇動・宣言はいうまでもなく、さらにゼネラル・ストライキと反乱まで含むあらゆる手段で戦争を阻止する」と呼びかけた。


このような一連の強い反戦精神を見て、右翼はバーゼル会議では自分たちの主張を遠慮して、逆に自分たちの政策を実行するためにもっと有利な機会が来るのを待つ方が良いという判断を下したのだ。


レーニンは、この右翼の思惑に騙されなかった。「彼らは膨大な約束手形をくれた。どんなぐあいに彼らが支払うか見とどけよう」と、バーゼル宣言を読んで言った。


各国の社会主義諸政党の素晴らしい働きの一方で、忌まわしい傾向を示す事件がいくつも起きた。これは、第2インタナショナルの基礎を成すドイツ社会民主党の内部にであった。

1912年9月のヘムニッツ党大会には、労働組合や党の官僚主義者から大勢の代議員が参加したが、植民地問題に関する評決でこっぴどく打ち破られた。1913年には国会議員団が軍事公債に賛成票を投じた。1913年8月、ベーベルが死んだ。ベーベルは、42年間にわたりドイツ社会民主党の首領であり、初期には数々の大きな功績を残していた(1869年の党結成、1872年のフランス=プロイセン戦争に反対しての投獄、社会主義者取締法が敷かれていた12年間における党の指導など)。


ところが、ベーベルの晩年には、ドイツ社会民主党は中央主義的な立場に落ち込み、彼が死んだことによって党はついに右翼の手に握られたのである。


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