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20230521学習ノート『三つのインタナショナルの歴史』第8章-2

20230521
『三つのインタナショナルの歴史』

[バーゼル大会でのマルクス主義者とバクーニン主義者]

戦闘的で有能なバクーニンは、大会でひときわ目立つ存在であった。社会は土地を共有財産にする権利を持つという問題について、マルクス主義者と同じ賛成票を投じた。
もう一つの重要な問題、労働組合についての議論は、労働組合とその国際的連帯は必要であることを満場一致で採択した。しかし採択されたものの、労働組合の国際的組織を作るということは、半世紀にわたりできなかった。
フランスの代議員パンディは、労働組合構想のあらましから新しい社会の構想を描いた。この構想が、のちに面倒な問題となる「アナルコ・サンディカリズム」というセクトがインタナショナルの内部に生まれる元となった。

大会でのマルクス主義者とバクーニン主義者の大きな衝突は、2つの論点があった。

1. 人民の手による直接立法について
これは、スイス代表がリープクネヒト等のドイツ代表の支持を得て、決議するよう提案したものである。人民の手による法案提出と国民投票は、バクーニン主義者にとっては根本原則の一つとぶつかるものであり、バクーニン主義者は激しく反対した。この問題は決着がつかず先送りされたが、次回以降再び取り上げられることはなかった。この事件は大会の中に大きな派閥的緊張を作り出しただけだった。

2. 相続権の問題について
バクーニンは相続権の撤廃を主張していた。相続権を撤廃することが革命そのものであるかのようにバクーニンは考えたのだ。
マルクス主義者としては、革命というのは、プロレタリアートが権力を獲得した後で、その政治的支配を利用してブルジョアジーから一切の資本を奪い、一切の生産手段を国有化しプロレタリアートの手に集中することでなされるのである。そのあとで「いっさいの相続権の廃止」が行われるべきなのである。相続権は資本主義体制の結果であり、原因ではない。だから相続権の廃止を資本主義崩壊の出発点とするのは反動的であるとみなしていた。
総評議会の決議案に対しては、賛成19、反対37、棄権6、欠席13。
バクーニンの決議案に対しては、賛成32、反対23、棄権13、欠席7。
バクーニン派の勝利により、これ以降バクーニンの「国際社会民主同盟」はインタナショナル内の反対分子結集の中心となった。

[アイルランド問題]

アイルランドの問題は、インタナショナルの歴史において重要な役割を果たしていた。植民地諸国という抑圧される国々と、これを抑圧する強国との関係についての方針は、世界の労働運動にとって最も重要な問題であった。アイルランド問題が、このきっかけとなったのである。

700年もの間、イギリスの支配階級に反対してアイルランドの人民は戦いを続けてきた。1641年、1798年、1848年、1867年、それぞれに起きた暴動が特に大きなものだった。また、1923年に独立を達成するのだが、それまで1916年、1921年も含めていくつかの暴動を経なければならなかった。

バーゼル大会の時、アイルランド問題は特に政治的な注目を浴びていた。そのきっかけは、フィアナ会(古代アイルランドで活躍した武士団になぞらえて、アイルランド独立を目指して在米アイルランド人が中心となり1856年にニューヨークで結成。別名フィニアン協会)がアイルランド人政治犯を助けようとしてマンチェスターでひとりの警察官を殺害した事件であった。

マルクスは、チャーティストの時代からアイルランドの独立に賛成していた。マルクスは総評議会から代表団を送り、アイルランド人への暴虐行為に抗議しようとしたり、アイルランド人政治犯の特赦請願運動に積極的に支援したりした。
「アイルランドはイギリスの地主貴族のとりでである」「アイルランドはイギリスの貴族にとって、イギリス自体の中での彼らの支配を維持するための重大な手段である」と、マルクスはイギリスの貴族がアイルランドをこのような位置に置いているのだと言った。

また、アイルランド問題は労働運動に致命的な弱さが生まれているとも言った。これは、イギリス人労働者とアイルランド人労働者が分裂しているためだった。これを説得するためにマルクスが言ったことは、イギリスの労働者にとっては、アイルランドの民族的解放は抽象的な正義や人情の問題ではない、彼ら(イギリスの労働者)自身の社会的解放の第一条件なのであると説いた。植民地、被植民地を問わず、労働者は団結しなければならない。

[フランス=プロイセン戦争はじまる]

バーゼル大会からフランス=プロイセン戦争が始まるまでの約10ヶ月間が、インタナショナルにとって最も希望に満ちた発展の時期であった。インタナショナルは、ヨーロッパの西部と中部のほとんどの国に組織を固めていた。労働者も激しい勢いで前進し、特にイギリス、ドイツ、またアメリカでも全国的組織を作ることができていた。

フランスとプロイセンの間に戦争の暗雲が立ち込めてくるのは、バーゼル大会の後だった。フランスのボナパルトも、ドイツのビスマルクも、それぞれ戦争の準備行動を整え、共に戦争を望んでいるように見えた。フランス第二帝国の地位がぐらついていることをボナパルトは感じており、第二帝国をもう一度甦らせるには自分の隣のドイツを侵略し勝利を収めることだと思った。
ビスマルクもまたフランスの領土を分捕ろうとした。フランスと戦争すればバラバラになっているドイツを統一することができるとビスマルクは信じていた。

統一ドイツをつくること。それは、進歩的ブルジョアジーの仕事だったはずだ。それは、1848年の革命の時に、ドイツの資本家がやろうと思えばできたことだった。しかし彼らはそれをやらずに放っておいたのである。そして戦争の責任をフランスのボナパルトに押し付ける。それがビスマルクの作戦だった。ビスマルクは、プロイセン王のウィルヘルム1世からボナパルト宛の和解的な電報を書き換えて、フランスを挑発し、フランスに宣戦布告をさせた。そうして1870年7月19日、戦争が勃発したのだ。
この戦争によってドイツは統一され、ヨーロッパの指導的な強国になり、工業生産の面でもイギリスを追い抜いていくことになる。さらに、ドイツ・プロレタリアートの力も強くなっていった。

この年に行われるはずだったインタナショナルの大会は開かれなかった。
それだけでなく、この戦争直後に起きた一連の事件はパリ・コンミュンと結びつき、ついにはインタナショナルの解体に進むこととなった。

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