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断念を文章化する、『惨憺たる光』に救われる(+『きょうの肴なに食べよう?』)

ロシアのウクライナ侵攻にショックを受けた私は、またしても韓国文学に助けられた。
 
チョン・セラン流に言うと、「絶望した時は遠くを見るといい(それがSFだ)」、それって読書だよね。
この世に本がなかったら、本を通して遠くの人の言葉に触れることがなかったら、私はもっともっとこの世が嫌いだっただろうな。
 
 
ちょうどその時に借りていたのが、クォン・ヨソンのエッセイ、『きょうの肴なに食べよう?』。
 
これがただ面白くて、笑えて、力づけられた。
自分のチョイスに感謝しちゃった。「ナイスあの時の私!!(助かった〜〜…)」
真顔で冗談を言い出す人のようにギョウザを力説し、巻物の食べ方に人生を思う。
その語り口。とにかく面白かった!
 
同時に借りていた、同著者のサスペンス小説『レモン』は、そこまでじゃなかったのはなぜだろ〜〜〜。
でもまた読みたい作家です!
 
 
その後に借りたのが、ペク・スリンの短編集、『惨憺たる光』。

これはもう、「戦争ニュースですさんだ気分に合いそう」と。このタイトル、帯、パラ見した雰囲気。
はたして大当たり! 実に陰鬱に、現実的な重さを文章化してくれてる1冊だった…
 
最初、「合うかな〜、どうかな〜…」、そのうち、「…好きかも」、何本めかで、「好きィ!!」。
少しずつ読んで、少しずつそうなりました。
  
 
この断念。乾いた絶望。
こういうものを文章化できる書き手はすごい。
"言葉にならない"ものなのに。
 作中で、主人公が、言葉にできていないのに。
その"言葉にできなさ"を、どう言葉にできないのか、こうまで書けるとは。

本来なら表現されなかった、誰にも知られず消えるだけ、個人の中に溜め込まれるだけだっただろう、これらのようなものを。
人類ってすごいね。
"表現できないようなこと"も表現できちゃうんだ。
 
それでも、絶対に、何かはこぼれ落ちて、全ては拾えないんだと思うけど。
↑そこにさえ思い馳せれるほど、文章化されてる。
 
もう、「できなかった」「言わなかった」ばかりなのね。
 とにかく、主人公たちは、思ったことさえ、"しない"。
「そんなの、わざわざフィクションでまで読みたくない!」と、「わかる…」の間は、タイミングや相性しだい?
 
 
「夏の正午」の、回想の、このへんとか↓
 
ーーーー 私はそのとき見たおぼろげな光について話したかったのだろうか。
落ちそうで落ちずに宙を舞っていた花びらや、生ぬるい春風に運ばれてきた花の香りについて?

ともかくも私は足元の、危うげな闇の中で砂糖の粉をまいたようにゆらめいていた光の束を長いあいだ見つめていた。 ーーーー
 
↑ここですでに「言わなかった」があって。

 
 ラスト、カフェで窓の外を見ているシーン…↓
 
ーーーー それで充分、私は小さくつぶやいた。でも、本当にそう? 口の中が苦かった。

私たちの脇を、死に装束を着たデモの一行が、弔問に並ぶ人のように列をなして通り過ぎた。
夕闇に包まれた通りを見ながら、私は口の中に残るコーヒーの異物感を忘れないように、もう一度唇をなめた。 ーーーー
 
結局、何もしていない。何かできるようなことでもない。
何かを思ってはいるのに。
それが行動や言葉になるほど、はっきりした形を取らずに、ただどよんと苦い。
その苦さを文章化しているこのラストが……
 ……好き!

 
↑これは共感でしたが。
全然共感しないまま、ラストだけ好きだったのが、表題作、「惨憺たる光」。
 
こっちは、主人公がヤな奴だから、"胸クソ"なんだけど…
やっぱり最後まで、「何もできない/しない」主人公の、その様が。

ーーーー 突如、飢えた猛獣の口内のような闇の中に、得体の知れない何かが立っているかもしれないという疑念に捉われた。
 
暗い深淵の向こうに沈んでいく何かが見えた。船の帆のように、錆びた十字架のように。 ーーーー
 
 
もう一本、「氾濫のとき」もそんな。これは、風景描写が好き。
 
ーーーー やみそうでやまない雨のせいで、街中が濁っていた。原色の建物は毎年繰り返される浸水によって色あせている。
いつかはヴェネツィアという街全体が、海の底へ消えてしまったという伝説の大陸のごとく沈んでしまうかもしれない。

向かい合うオレンジとブルーの建物のあいだ、物干しロープにかけられた大きなシーツの上を、四方が水だらけで着陸場所を見つけられないでいるハトの群れが、力をふりしぼって飛んでいく。
ペットボトルが死んだ魚のように浮いている。つなぎとめられたゴンドラが老いた騾馬のように雨に濡れそぼっていた。 ーーーー
 
この、暗い色の風景画みたいな描写が続くのがね。色が見えて好きなんですよ。
全体がビッシャビシャだし。

 
主人公の人生がうまくいってない、そこだけなら、「わざわざフィクションでまで読みたくない」寄り。
最後まで主人公のことを好きではないのに、この風景に惹き込まれ、ラストに共鳴する。
 
ーーーー 腐敗の匂いが鼻をつく水の真ん中に横たわり、ジェは自分の熱い心臓を感じた。
棺の中のように真っ暗な空の下、彼はまったく久しぶりに生きていることを実感した。
彼は生きていた。そして生きたかった。
 
ジェは水の跡でまだらになっていく都市のど真ん中で、どこへ向かうべきかわからないまま立ち尽くしていた。
そして水に濡れてまるでネズミに見える一匹のハトが、渇きに耐えきれず頭を突っ込んで、せわしげに塩水を飲む姿をいつまでも見つめていた。 ーーーー
 
こういう、"生き汚さ"?に撃たれるな…

 
少しカラーが違った、「国境の夜」。
"なかなか生まれてこない子供"という部分はファンタジーだけど…
 
ーーーー 「それでも世界は、だんだん生きやすくなってるのよね?」
「もちろんだよ」
嘘。
もしママとパパの言葉が本当なら、国境検問所が近づくにつれてママの鼓動が早くなるはずはないのだから。 ーーーー
 
戦争ニュースの後に読んでるんですよ。リアルだよ。
 
 
↓そしてラストあたり…

ーーーー えっ。国境を越えた?
こんなふうに普通に、何事もなく、一瞬で越えちゃうなんて。
 
それなら、これは本当に平和な世界のようだから、私はついに、ママの懐を抜け出して外の世界へ出てみたい気持ちになった。
そ、と、へ、で、て、み、よ、う、か?
 
おめでとう?
私が生まれることが私と世界にとっておめでたいことなのかはわからなかったが、私は成長し続けた。
 
またまた誰かが誰かを攻撃し、テロをし、虐殺して、世界中を不安に貶める経済危機の中で、数年後、そのときの私より少しばかり年上の子供たちが海の底に葬られるとはつゆとも知らずに。
 
もう引き返すには遅すぎたため、なるようになれという気持ちで「生」へと「出」ていくために思いきり体を伸ばした。
 
突然降り注ぐ、決して私のものではないように思える慣れない光に、思いきり顔をしかめながら。 ーーーー
 
 
この最後の一編だけ、また違うエネルギーがあって。
 
ニュースに怯える私が、他国の人の文章を、翻訳のおかげで読んでいる。
韓国が停戦し、外国へカルチャーを売ることに積極的になったから、読めるので。
日本が、どこの国へも、それでもミサイルを向けてはいないから、輸入できるので。
 
…それ自体がさ。危ういバランスの奇跡みたいな? 何かが違えばあり得なかったわけで。
このラストを、こんなタイミングで読んでしまえば… 
単なるフィクションとは言いがたい。
生きて刺さる言葉。
 
実際、私に、こんなふうに伝わってる。
そんなことって本当にあるんだな? …と、時々、大真面目に思います。
 
なので、ここも好き↓
 
ーーーー それまで「ことば」を持たなかった私は、いつか自分にことばが生まれたら、迫り来る夜を埋め尽くす音と香りについて誰かに伝えられたら、と思った。 ーーーー

 
私が1冊の本に感動したからって、戦争は終わってくれないどころか…
このように互いの国に本を売買しながら、どうしても、日本は韓国と対立している。
なのにカルチャーは入ってくる。手にすることができる。
 
こんな未来を、私は、想像もしていなかった。
子供の頃は、アジアって中国しか知らなかったし。韓国、という国も知らなかった。
それが、韓国文学をせっせと読もうとしてるんだから。
 いったい何なんだろうな。
 
この世界はろくなもんじゃないから滅んだ方がいいのでは? って気分は、何才になっても消えない。
こんな、感染症蔓延下の世界で。日々、目をそらしながら。
なんで、「氾濫のとき」の主人公みたいに、薄汚く生きようとしちゃうんだろうな~~~。
 
「もう引き返すには遅すぎたため、なるようになれという気持ちで」って感じなのかもね、いつも…

 
この2冊、とても気に入ったんだけど。
図書館のものを気に入るのも困っちゃうんですよね。
チョン・セランだって、買ったものより借りたものの方が結局好きで、それを中古で買ったりしてさ…
…「借りる/買う」が、まだそんなにうまくいっていない!
 
ペク・スリンの新刊がほしくなったりして…
K本ライフは続くよ。

 
最後に、「時差」に引用されていた、ゴッホの言葉を。

「芸術よ、我々を救っておくれ。お前の限りない祝福なしに、我々が苦しみに耐え抜くことはできない。」
「励むべき闘いの多いことよ、耐えるべき苦しみの多いことよ、捧げるべき祈りの多いことよ、さすればついには平和が訪れるだろう。」

↑そんなふうに、私も、読み続けたいと思う。
 

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