ひとくち感想文:「食人族」4Kリマスター版

わかもののまち、渋谷で見てきました。
スケッチャーズのウォーキングシューズをおろしたので帰りは原宿まで歩いていったのですが、東京というのはじつにおしゃれな街なんですね。
主に生息しているのが北区だ足立区だ台東区だなのでね。

まず、おれはモンド映画というものも学生時代にヤコペッティのなんかは見ましたかねという程度だし、ファウンド・フッテージものというのも「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」と「クローバーフィールドHAKAISHA」くらいしか見ておらず、この二作もまるでだめだったのであまり好きなジャンルではない。
しかし「食人族」がそもそもファウンド・フッテージものだった、ということを見に行く段になってから知ったのだった。

今回はひとくち感想ということでさらっとまとめたいからあらすじなどは各自調べていただくとして、まず面白かったのはフッテージをファウンドするところから始まる、つまり「消息を絶った撮影隊が残したフィルムにやべーものが映っていたでござるの巻」というのがいわゆるファウンド・フッテージものなんだけど、だいたいそういう映画って冒頭にこれこれこういうフィルムが見つかりましたよ、というナレーションかテロップで処理するか、あるいは宣伝の時点で「これはいわくつきの禁断映像なのである!」バーン!みたいな感じで収めてしまうものだ。
ところが本作はファウンド・フッテージのオリジンなのでちゃんと「アマゾンで行方不明になった若者たちがいるから探しに行く」という件がある。
映画ライターの高橋ヨシキさんは本作とキングコングの類似性についてパンフレットに寄稿されていたが、つまりコングを探しに行くパートが前半あるんですね。

捜索隊(3人しかいないんだけど)に抜擢された文化人類学者の教授は最初こそなんかジャングルもナメてそうだし未開部族に対してもステレオタイプな見方してて頼りにならなそ~なんだけど、いざバチバチの人食い部族である木族(これ字幕見てハア?ってなったんだけど要するに樹上生活なんですね)と対峙するや覚悟完了して全裸になるわ人肉食うわの大活躍で見事に食人族の胸襟を開かせることに成功するわけよ。
この教授の郷に入っては郷に従え精神が実は後半のフッテージに映っていた白人青年たちの暴虐の数々との対比になっており、じつに優れた構造になっていた、ということには見終わってしばらくしてから気付いた。

というのも、本作「衝撃の問題作!!ショッキングシーン100連発!」みたいなとりだたされ方をしているわけで、そうなると見ているこっちもすわ、いつ来るんだショッキングは、右か?左か?ここか?むこうか?と構えて見ざるを得ない。
実際、映画全体で言えば起承にすぎない教授のパートでさえそれなりにショッキング、ゴアな描写は出てくるのだが、それはいわば見世物、エクスプロイテーションなものを期待して見に来たこちらとしては少々に肩透かしではあるのだ。
なので人食い人種と遭遇してあろうことか無事にアメリカまで帰ってきてしまう教授パートは「えっ!?何も起きねーの!?」となってしまうのだ。あの若い現地人の兵隊くらいは食べられちゃうと思ったのに。

だが、そうして教授が持ち帰ったフィルムを見る段になってようやくおれもこの映画がファウンド・フッテージものだということに気がつき、その中身への期待が高まっていくのである。

実際のところ、本作における「残酷表現」ゴア描写については1980年公開の映画ということで、現在のエクストリーム化したスラッシャーホラーの数々に比べれば実に大人しい。
こと「ゴア」という一点においてはデッドスペースシリーズやら最近のバイオハザードなどゲームのほうが先鋭化しているまであり、残念ながら(?)人体破壊の描写については作りものくさくリアリティはまるでない。
食人族が振るう暴力描写も俳優が怪我をしないようにやっているのがまるわかりで、優しくペチペチ木の棒で撫でるように見え、迫力は皆無である。
食人族は全く文明化されていないので持っている武器も石器なのだが、やはり石をくくった棒で特殊メイクの肉をなででいるようにしか見えず、総毛よだつほどの「暴力」は感じられなかった。

むしろ嫌悪感はレコンキスタのごとく征服者として振る舞う撮影クルーの側にあり、彼らがヤクモ族の家を焼き払うシーンや木族の少女をレイプするシーンこそ残虐無道そのものである。
彼らは軍人でも殺しのプロでもないので当然木族の逆襲にあい、凄惨な死を迎えるが、それ以前に彼らが振るっていた銃撃こそ木族のプリミティブなそれに比べれて実にリアルな暴力であり、文明人たるわれわれに「どっちが残酷なんですかねえ?」と問いかけるに足る。

しかしまあ~、この撮影隊の連中の最悪さの描写がまあスゲーんだわ。
火を見て興奮してセックスしはじめるわ、レイプした女の子が部族の掟で殺されて晒されてるのを「スッゲー、グロ~w」とか言ってニヤニヤしてるんだけど「おい撮ってんだからもっと神妙な顔しろ」って言われて「なんてひどいことするんだ!」って白々しい芝居を始めるんだけど、その白々しい芝居をする芝居の上手いこと!悲痛な顔をしてみせながら今にも吹き出しそうになっているのがありありとわかるすごい演技だった。

かくして蛮行VS蛮行、地球最大野蛮トーナメントは我らが食人族の勝利をもって決し、このフィルムをTVのゴールデンタイムに放送してウッハウハやで!とやっていた局のお偉いさん方もドン引きし、フィルムを焼き捨てろ、と言い放つ。
怒りを抱えながらTV局を出た教授はマンハッタンの高層ビル街を眺め、ふと「食人族は誰だ」と呟き、リズ・オルトラーニの美しいテーマ曲が流れ映画は終わる。
見た瞬間こそこの教授のセリフはいかにもとってつけたような「上手いセリフ」に感じてしまい、なんだよそれどうなんだと思ってしまったのだが、振り返ってみれば確かにこのセリフほど「食人族」という映画を象徴し、統括するものはない。
つまり物理的に人間を食肉として捕食することと、他者への無理解と偏見を以て文字通り「食い物にする」ことと、果たしてどちらか「野蛮」な行為なのか。
そして偏見と無理解を抱えたまま好奇の視線を隠そうともせず、映画を通じて無自覚的にエクスプロイテーション(搾取)の構造に参加する我々観客もまた、「食人族」である。
なんかデビルマンのきさまらこそ悪魔だみたいな話になってきたが、ルッジェロ・デオダート監督もそういう事言いたかったんじゃないかとおもう。

殺された撮影隊というのは要するに迷惑系ユーチューバーみたいな連中で、過激な映像を取るためにはヤラセも辞さない、それが仇になって死んだわけだが、彼らの過去作「地獄への道」という映像には独裁政権下での銃殺刑シーンがある。それを見たTV局の役員は「これもヤラセ」と言い放つわけだが、このシーンは実際のニュース映像であり、本物であるらしい。
さらにフッテージで撮影隊たちは亀を解体して食い、ヤクモ族の家畜の豚を撃ち殺し、ヤクモ族(木族だったかも)は猿の頭を割って脳を啜る。
これらの小動物殺害シーンも全て本物だ。
動物虐待によって「食人族」はいくつかの国で上映中止となり、今でも虐待行為の是非を巡って論争が絶えない。
おれは果たして映画(芸術)のために生き物を殺してよいのかに対しては答えを持たないし、単純な良い/悪いに終始せず討論を繰り返して意見を深めるべきだと思う。
この映画においてこれらのシーンが残虐な見世物である以上の効果を生むとすれば、作り物の「死」と本物の「死」がない混ぜにされて混濁し、結果としてフィクションとリアルの境界線を極めて曖昧にする。
これは偶然では決して起こり得ない。デオダート監督が非常に理性的な計算でもってこうした異化効果ー見慣れた映画のゴア表現を作り物という根底から揺さぶろうとしたーを狙ったことは明白である。
それがつまり「食人族」という映画が持つストレンジなリアリティであり、映画が持つパワーである。

以上、「食人族」の感想でした。とてもおもしろい!オススメ!とは言えませんが、ゴア大好き!で興味があれば損はしないと思います。
それじゃおれは「グリーン・インフェルノ」見てくるんで。

また次回。

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