六花抄

六花抄(冒頭のみ)

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六花と塵

空の色が変わる気配で目が覚めるんだと思います。
僕が言うと千鶴江さんはデタラメと決めつけた。あんたはすぐに嘘をつくからと、背中を叩いた。言われてみればその通りで、僕はよく嘘をついている。早く答えないと怒られると思ったときには考えなしに言葉が出てきてしまうからだ。
毎朝どうやってそんなに早く目が覚めるのと問われて、僕だってどうしてそんなことができるのかわからなかったので一生懸命に考えて答えたのに。でも、これ以上同じことを繰り返してもさらに怒らせるだけだとわかっているので、実は久賀爺(くがじい)に起こしてもらうのですと答えた。
ふーん、そうなんだ。と千鶴江さんは満足したようで僕はそれ以上怒られなかった。嘘なのに。
千鶴江さんが納得する答えぐらい、すぐに思いつく。

外が明るくなればすぐに目は覚める。それは僕にとって当たり前のことだ。夜の間も、風の音や気まぐれな鳥の鳴き声などの些細なことで起きてしまう。色々な生き物が目を覚ます朝の喧噪の中で寝ていられるわけがない。
隣で夜着にくるまっているガコウは、僕よりも物音には鈍い。夜に目を覚ますことも滅多にないという。少しうらやましい。そんな彼でも朝には僕と一緒に起きてくるので、やっぱり朝はとてもうるさいのだと思う。
目が覚めてから最初にすることは久賀爺(くがじい)を起こすことだ。僕等の居室と久賀爺の寝床は縁側を渡って行き来ができる。
久賀爺の部屋はなにか薬のような臭いがするとガコウや小間使いのオコショウは言っていたけど、僕はあまり鼻が利かないのでよくわからない。
しわくちゃで小柄な久賀爺は、起きると決まって布団の上で正座をして、首を左右に捻る。このとき、枝が折れたような音がときどきするのがおもしろい。それから枕元の水差しに手を伸ばして、直接水差しの口を咥えて水を飲む。僕も一度やってみたいと思っているのだけど、もちろん、固く禁じられている。
久賀爺は大きく伸びをしながら縁側に出る。たいていは天気のことなどを口にしながら屋敷の奥へと消えていく。その姿が見えなくなると僕は布団を畳んで衝立の後ろに片付ける。床の間に飾られている素焼きの小さな狛犬がちょっと怖い。
久賀爺が朝食を終えると、僕とガコウは習い事をする。
読み書きと算盤を習い始めたのは去年の冬からだ。久賀爺が僕達の部屋にやってきて教えてくれる。僕はそれなりにどちらもこなせるようにはなってきているけど、ガコウのひどさといったら、もう呆れるほどだ。
そもそも、ガコウの太い指で算盤の珠が弾けるわけがないから、久賀爺は大きな珠のついた特別なやつを作ってきた。うらやましかったけど、あいつときたらそれでも身が入らないようで、まったく上達する様子はない。そもそも何かを習うということが苦手なのだと思う。
ガコウは口癖のように算盤も読み書きも千鶴江さんを守ることと何の関係もないと言う。実は僕もそのことに関してはその通りじゃないかと思っているけど、久賀爺は賢くなければ千鶴江様を守れないだろうと言う。他ならぬ久賀爺の言葉なんだから、間違っているわけがない。ガコウは単に自分が苦手なものだから、言い訳をしているだけなのだ。
千鶴江さんのためならば、なんだってやらなければならない。当たり前だ。
僕はそう思って毎日を過ごしている。


その日もいつものように空の明るさで目が覚めた。
夜着から頭を出す。隣でガコウがごそごそと動いている。
布団から出ると寒さのためか関節が鳴る。久賀爺とは音が違う。僕等の部屋である三畳の間の隅に置いてある箪笥は古びているけど立派なもので、千鶴江さんが昔使っていたものらしい。いまはこの部屋に置いてあって、僕とガコウはとても大切に使っている。
着替えをして障子を開ける。まだガコウは布団から出てこない。
朝が山の向こうから押し寄せてくる。日の光が僕等の布団に降り注ぐ。山も木々も家も布団も、庭の日向に転がる全ての石にも、照らされたものにはすべて影ができる。僕は影が好きだ。千鶴江さんが影を好きだから。
今日は罪凶難の禊(みそぎ)の日なので、久賀爺を起こさなくてもいい。毎年、禊の準備は久賀爺が徹夜で行っているのだ。東庭のお堂の辺りからなにやら楽器の音が聞こえてくるのがそれなのだろう。
「あれ、今日が祭りだっけ」
布団から頭だけ出したガコウが寝ぼけた声で言った。
「祭りじゃないよ。禊」
僕が間違いを訂正してやるとガコウは「ふーん。じゃあ、何ももらえないな。別にいいけど」とまた布団を被ってしまった。
祭りの時は終わった後でお菓子がもらえることがある。昔から僕等はそれを楽しみにしていたけど、最近になってガコウは飽きたと言うようになった。僕はいまでも嬉しい。禊のときにはなにもない。
どっちにしろ、主役は千鶴江さんだし、僕等はこの屋敷でおとなしくしているしかないのだ。
ガコウが布団の中から顔を覗かせている。
「今日は早起きする必要もないだろ。久賀の爺さんも今日は忙しいだろうしな。ゆっくりしようぜ」
隙があれば休もうとするのはガコウの悪い癖だ。
「今日中にやっておけって言われた算盤の問題があるよ」
「俺の分をやってくれたらお菓子をやる」
「禊だからお菓子はないよ。さっきからそう言ってるだろ」
ガコウは大きく伸びをして「ばれたか」と欠伸混じりに言った。
「じゃあ、次の祭りの時にやるからさ」
「嫌だよ。ちゃんと自分でやれよ」
「あ、そうだ。久賀の爺さんが作ってくれた本があっただろ。あれちょっと読んでくれよ。俺、まだ少ししか読めねえからさ」
意外なことを言われたので驚いた。僕は文机(ふづくえ)の抽斗(ひきだし)を開けて一冊だけ入っている『久賀家覚書』と大きく書かれた紐閉じ本を取り出した。
僕等があまりにものを知らないから、ということで、この村のことや、久賀(くが)家の話などをまとめてあるらしい。読みにくい字で難しいことが書いてあるから僕も敬遠していたし、久賀爺もおまえ達には早いかな、と言っていたので抽斗に入れたままだった。
「僕も読めるかわからないよ」
「俺よりましだろ。禊について書いてあるはずだ」
僕は柔らかい表紙を撫でながらガコウに「何で中身を知ってるんだよ」と聞いた。
「爺さんに禊で何をやってるのか訊いたんだよ。そしたらこれを読めって言いやがった。俺がロクに読めないのを知ってるくせに」
表紙をめくった。
最初にこの本に書いてある内容が題目だけ並んでいる。
「村の決まり……禊について。確かにあるよ」
僕はその項目を探した。
「あった。読むよ。ええっと、『禊は冬至から十三日目に行われる。千鶴江様は冬至の日から浄めの式を子の刻に行い、これを三夜続ける。最後の浄めの式の夜に供物は蕗(ふき)沼に沈められる。この際に楽師は粛正の調べを演奏する』だってさ」
なんだか難しそうに書いてあるけど、やっていることはそれほどではない。
「千鶴江さんはすごいねえ。僕等が眠った後もこんなことをやっているんだ」
僕の言葉にガコウはぼんやりと「まあな」と言っただけだった。なんだ、人に読ませておいて、結局興味がないのか。
突然足音が聞こえた。その響きから久賀爺だとわかった。ガコウが慌てて寝床から抜け出して布団を畳みだす。すぐに障子が開いて久賀爺が顔を出した。
「お前等がちゃんと習い事しているか見にきたぞ」
「やってますよ」とガコウがしどろもどろに答える。取り繕っているのが手に取るようにわかる。怠けるのが好きだけど、ごまかすのは下手なのだ。これで久賀爺の雷が落ちるのを何度も見てきた。案の定、咎めるような口調で「何をやっとった。言ってみろ」と久賀爺。
「えーっと、ニコウに読み書きを習っていました。久賀爺の書いた本を読んでもらって字を覚えていました」
すると、久賀爺は意外にも「そうか」とうなずいた。叱責は何もなく、僕もほっとする。
「それでは褒美にこれをやろう」
久賀爺が差し出したのは三つの小さな独楽(こま)だった。
「一人一つずつだ。千鶴江様にもおまえ達から差し上げてくれ」
今までそんなものをもらったことがないから、僕はとても驚いた。
「ありがとうございます」
と独楽を受け取る。紺と緑色。そして色を塗っていないもの。千鶴江さんには一番きれいに見える紺色をあげよう。そうなると、色を塗っていない木目のやつと緑色と、僕はどちらにしようか。やはり色がついている方がいい。
「じゃあ、俺はこれだ」と横からガコウの手が伸びて緑色の独楽がなくなった。
「これは紐で回すやつじゃないからな。指でこうやってつまんで回すんだ。今日は部屋の中でおとなしくしているんだぞ」
そう言って久賀爺は戻っていった。ガコウはさっそく文机の上で独楽を回している。僕もその横に座って木目の独楽を回した。
「こんなのくれるなんて、珍しいこともあるもんだなあ」
ガコウの言葉に僕はうなずいた。千鶴江様はたくさんいろんなものを持っているけど、僕等は今までこんな遊び道具をもらったことはなかった。
僕の独楽が先に倒れた。ガコウが手を叩く。
「俺の勝ちだ。ニコウが算盤の問題やってくれるんだろうな」
「勝手なこというなよ。そんなこと言ってないだろ」
僕は倒れている独楽を拾う。
「でも、一題だけ賭けてみようか」
僕が言うと、ガコウは目を輝かせた。
「そう来なくっちゃな」
慌てて回そうとするガコウを僕は止める。「ちょっと待てよ。最初に決まりを作っておこう。はっきり勝ち負けがわかるようにさ。勝負事はそういうことを厳しく決めておかないとおもしろくないだろ」
「ああ、そうか。それもそうだな」
先に独楽が止まったら負け。文机から落ちたら負け。それだけを決めた。全然厳しいものではないけど、雰囲気は盛り上がった。
「せいのっ」
僕は慎重に軸を捻った。文机の中央近くに落ちて静かに回り出す。
ガコウの手から離れた独楽は机の縁の方で回り始めた。ガコウがうめく。きっと力んでしまったのだろう。そうなることも容易に予想がついた。
ゆっくりとガコウの独楽は端へ移動して、あっさりと畳の上に落ちた。
ガコウが大きく落胆している。珍しいことなので笑ってしまった。
「えーっと、ってことはガコウが僕の問題をやってくれるんだ」
「もう一回」
「だめだよ。一題だけと最初に言っただろ。決めたことには従わないと。真剣勝負なんだろ」
きっと慣れてきたら力の強いガコウの方がうまくなるに違いない。
ガコウは悔しそうに独楽を拾い上げて何度も机の上で回していた。
「なあ、明日もう一回勝負しよう」
ガコウは諦めきれないといった口調だったけど、僕は断った。


夕方になるとどうやら禊も一段落したようで、お堂からの音楽も聞こえなくなった。
ガコウと算盤の問題を解く。最初の問題だけでもやらせるつもりだったけど、基礎ができていないので、結局僕が横に座り、一緒に問題を解く羽目になった。賭け事で相手ができないことを要求すると、勝っても得られるものがないということだ。
宿題が終わるとガコウは布団に潜り込んで寝てしまった。
僕は早く独楽を渡したいので、千鶴江さんを捜してお屋敷の中をうろついた。
縁側を渡ってお堂近くの十六畳を覗く。白い壁土、白い襖、天井にも白絹が貼られている。絹を押さえる格子は紅く、柱や壁にも必ず一部が紅くなっている。この部屋に日の光が直接入ることはないけど、いつも眩しく思える。風通しが良くなるように欄間は透かし彫りになっており、細かい菱形が並んでいる。
千鶴江さんのための部屋だ。禊の後ではよくここで紅い敷物を広げて休んでいるのだけど、いまはひっそりと静まりかえっていた。何もかも片付けられたのか、あるいは具合が悪くなって早々に帰ってしまったのか。今までもそういうことはあった。
僕はつっかけを履いて庭を回った。風が冷たい。もう帰ってしまったのかもしれない。だとしたら、会えるのは明日か明後日だ。
空は夕焼けの色に染まっていた。鳶が日の沈む方向へと静かに飛んでいく。雲の複雑な形の向こうにお日様が見え隠れしている。庭の楠を見上げる。以前、僕とガコウで千鶴江さんに木登りを教え、この木に三人で登ったことがある。少し見る場所が変わるだけでこうも景色が変わるかと思った。久賀爺にひどく怒られたけど、おもしろかった。またいつか登りたい。
物置小屋の戸が開いていた。中を覗く。千鶴江さんがいるわけはないけど、細々したものがたくさん転がっているので見ていて飽きない。立てかけられた鍬や犂(すき)。壁には釘が打ち付けられ、熊手や十能(じゅうのう)、鋸、鉋、鎌、鑿(のみ)、名前の知らない何かがぶら下がっている。久賀爺が使うものだ。よく自分で椅子や机を直している。僕等の部屋にある文机も久賀爺が作ったものらしい。
小屋の下には板きれが積み重ねられ、その上に空の植木鉢がいくつも置いてある。藁茣蓙(わらござ)にくるまれた炭。何枚かの瓦。奥の方には束ねた細い鉄の棒が油紙に巻かれて転がっている。僕はその棒が何かと久賀爺に尋ねたことがある。鍛冶屋に頼んで刃金でわざわざ造らせた物だそうだ。それがいかに丈夫で錆びにくいかということをやや得意げに話していたけど、結局何に使うのか教えてはもらえなかった。
庭の南側へ。この辺りも雑草が随分と伸びた。そろそろ僕とガコウが草むしりをする時期だ。ガコウがすぐに怠けるので、それを叱りながらやることになる。一人でやった方が楽じゃないかと思うけど、それだとひと月はかかってしまうだろう。力はガコウの方がある。
千鶴江さんの姿はどこにもない。引き返そうかと思ったとき、チオウが自分の小屋に戻っていくのが見えて思わず立ち止まった。
チオウは久賀爺が頼りにしている若い使用人だ。他の使用人のように村から通っているわけではなく、庭の古い小屋で寝泊まりしている。見た目が薄汚く、無口で、怖い目をしている。話しかけるのも難しいのだけど、時折僕に千鶴江さんのことを訊ねてきたりする。僕は相手をするのが少し苦手だ。自分で千鶴江さんに話しかければいいのにと言うと、千鶴江さんと口をきくことを禁じられているのだと寂しそうに言った。それを聞いて僕は満足だった。僕とガコウは特別だからだ。
人にはつっけんどんなガコウだけど、なぜかチオウには愛想がいい。僕にはわからないけど、チオウの体は独特の臭いがするらしい、それは絶対にたくさんの血を浴びているからだとガコウは主張する。そういう謎めいたところに憧れているのかもしれない。
四阿(あずまや)の側を通りかかったとき、竹垣の向こうに何か白いものが見えた。四阿の裏には澱(よど)んだ水をたたえた小さな池がある。鮒(ふな)だか鯰(なまず)だかがいるらしいけど、時々何かが跳ねる音がするだけで、その姿を見たことはない。
竹垣の裏へ回り込むと、千鶴江さんが池の縁に座って水面を見ていた。真っ白な着物が、まるで光っているように見える。帯はとてもきれいな赤。僕はこの格好の千鶴江さんが一番きれいだと思う。
千鶴江さんは祭りや禊、先ぶれの時など色々と着替える必要があるけど、僕とガコウはいつも麻の甚平を着ている。生地が硬いけど、丈夫なやつだ。
千鶴江さんはいくつなのだろうかとガコウに訊ねたことがある。ガコウは『俺達よりは年上だろうな。ユノノミは自分の年を十二って言ってたから、千鶴江さんなら十五ぐらいじゃないの』と言っていた。僕等はあまり他の人を知らないけど、比べるのはうまいやり方だと僕は感心したものだ。でも、人と違う不思議な力を持っているのだから、年にそれほどの意味は無い。普通の人はいくつになってもそんな力を得ることなどできないだろうから、やっぱり一番特別だ。
僕は小石を拾うと池の真ん中に放り投げた。波紋が広がり、千鶴江さんのところまで届く。
千鶴江さんが顔を上げて僕を見た。肌がいつもより白く、紅を差しているのは化粧を落としていないのだろう。目が赤いのが不思議だったけど、すぐに泣いていたのだと気がついた。そんなときに何を言えばいいのか僕にはわからない。
僕は黙ってそこに立っていた。頭上を行く鴉(からす)が間抜けな声で鳴いた。僕は空を見た。僕も悲しくなった。
「池の水に」
千鶴江さんは着物の袖で目を拭った。
「水の滴が落ちるのを見ていたの」
僕はうなずいた。そして「それはいいことです」と口走ってしまった。
千鶴江さんは意外そうな顔をした。
「どうして?」
説明することに意味なんかあるんだろうか。何か千鶴江さんが納得できるようなもっともらしい答えを考えようとしたけど、駄目だった。
千鶴江さんと話すときは大きな声ではっきりと言わなければならない。
「あの、それは涙だからです」
案の定、納得はしてもらえなかった。頑張って大きな声を出したのに。
僕は咄嗟に庭の砂を掴んで池にさらさらと落とした。砂は水に沈んでいくだけだ。僕は千鶴江さんの顔を見た。意味はまったく伝わっていないようだった。どうやって説明をすればいいかと迷っているうちに千鶴江さんが呆れたように「もう少し考えてから喋りなさいよ」と言った。
僕は謝った。でも、千鶴江さんが少し元気になったのでよかった。
そうだ。
僕は懐から紺色の独楽を差し出した。
「これ、久賀爺が僕等に独楽をくれました。三つあって、千鶴江さんにもって言ってました」
千鶴江さんの目が輝いた。
「紅いのはないの?」
「すみません。ガコウが緑色で、僕が色を塗っていないやつをもらいました。それしかありません」
独楽を千鶴江さんがつまんだ。僕の手のひらに触れた指先が冷たかった。
飛び石の上にしゃがみ込むと、千鶴江さんは独楽を回した。あまりうまく回せず、すぐに倒れてしまった。何度か試すと、少しはましになった。
「ニコウも回して」
僕は言われるままに千鶴江さんの横にしゃがみ、独楽を回した。
紺色の独楽の横で色を塗っていない僕の独楽が回る。
なんだかそれはとても良い感じに思えた。
とても楽しい気がした。
やがて、千鶴江さんの独楽が倒れて弧を描きながら転がり、止まる。
僕の独楽だけが回っていた。
なんだかそれはとても悲しい感じがした。

千鶴江さんに連れられて、僕は隣の家へ行った。
生け垣に囲まれた、古びてはいるけど手入れのよくなされた一軒家。千鶴江さんが住んでいる。門の両脇に狐の石像があってちょっと怖い。こいつが千鶴江さんの家に出入りする者を見張っているって話をこの間聞かされた。確か飯炊きが言っていたと思う。そんなことができるのかと僕は驚いた。飯炊きは噂だと何度も繰り返していたけど、この家に入っていく者があれば狐が久賀爺に知らせるらしい。確かに久賀爺ならそんなことをしていても不思議じゃない。
でもいまは千鶴江さんが一緒にいるから平気だろう。今までにだって何度か千鶴江さんの家には呼ばれているのだから。
玄関の三和土(たたき)が独楽を回すのに丁度よいというので僕等はしばらくそこで遊んだ。
最初のうちはおもしろがっていたが、何度やっても僕が勝つので、次第に千鶴江さんの機嫌が悪くなっていった。もちろん、ここで僕が手を抜いたりすればより不機嫌になるのはわかっているので、僕は千鶴江さんの顔色を窺いながらも勝ち続けなければならなかった。
途中で「やっぱりそっちの独楽がいい」と言い出した。僕としては色が塗ってある方が重そうだし、よく回るんじゃないかと思っていたのでこの申し出には驚いたけど、替わりに僕の手元に紺色の独楽が残るのは良いことのように思えたので交換した。
やがて久賀爺の家からオコショウがやってきた。
お盆を持っている。もう夕飯の時間だ。
「あ、ニコウ。ガコウは一緒じゃないの?」
「部屋で寝てる」
「そう。千鶴江様はお夕餉(ゆうげ)だから」
僕は立ち上がってもう帰ると言った。千鶴江さんはうなずいてオコショウと一緒に奥へと姿を消した。
僕は久賀の家に戻った。

童女の楽しそうな笑い声が聞こえた。
部屋に入る。遊んでいるのは見るまでもなくユノノミだ。この家で料理を作っている女の娘で、久賀爺に連れてきてもよいと言われたらしい。母が働いている間、よく屋敷の中をうろついて、そのうち僕等のところへ来るようになった。
最初の頃は屋敷の奥まで来ているのが誰かに見つかると久賀爺に報告されて、僕等まで一緒になって怒られた。なので初めは隠れて遊んでいたけど、それでも何度も見つかった。ついには久賀爺が「子供だからしょうがないか」と諦めたように言い、それからは誰も口やかましいことは言わなくなった。
障子を開けるとガコウとユノノミが文机の上の独楽を見ていた。
やがて独楽が力を失い倒れると、天板の上を転がり畳の上に落ちた。
「やった、あたしの勝ちだ」
手を叩くユノノミ。ガコウが膝を叩いて悔しがった。と、いきなりユノノミの手が伸びてガコウの頬をはたいた。僕が驚いて見ていると二人とも笑っている。どうやら独楽がどちらへ落ちるのか賭けをしたらしい。それに負けたガコウが叩かれたということのようだ。
「もしかして、ガコウって賭け事に向いてないんじゃないか」
僕はユノノミに僕達の賭けの話をした。またユノノミが笑い出した。

その夜、布団の中で横になっているとガコウが「俺ってやっぱり勝負に弱いのかな」と言ったので僕はまた吹き出しそうになった。
「あんなの運だって。何度もやってれば半分は勝てるよ」
「そうかな」
ふと、僕は気になった。
「ユノノミに勝ったら、あの子を叩くのか?」
「違う」
少し間が空いた。
「ほっぺたを触らせてもらうんだ」
ガコウが照れ隠しのように笑った。
僕は言葉を返さなかった。自分の頬に触れてみた。ざらざらした手触りだった。千鶴江さんの頬はどうだろう。
文机の中に入れてある紺色の独楽を思い出した。千鶴江さんが使った後に交換したから、千鶴江さんのものをもらったような気分になって嬉しかった。
庭で虫が鳴いている。
風も少しきついようだ。今夜は眠れるだろうか。
でも、別に眠れなくてもそれほど辛くはない。
僕は千鶴江さんの唇の紅の色を思い出した。

次の日、久賀爺を起こしに行くと、今日は忙しいので算盤も読み書きもないという。ガコウは大喜びだ。
水飴を食べてから僕は村に行くことにした。ガコウを誘ったけど、断られた。
庭を回って裏の門へ。途中で四阿の裏の池を見たけど、千鶴江さんはいなかった。もちろんまだ眠っているのだろう。そうだ。昼からは昨日みたいに千鶴江さんと独楽を回して遊ぼう。
外へ出て山の方へ向かう。すぐに道が二手に別れる。一方は塚のある山頂へ向かう。僕達がそちらへ向かうことは禁止されている。千鶴江さんも決して行こうとはしない。もう一方の道は山中の古い井戸を経て村の外れの神社へと向かう。木々の間、斜面を下る道が右へ左へ折り返しながら続いている。
使われなくなった井戸の上には木の蓋がしてあり、大きな石が乗っている。以前、チオウと裏庭で話をしていた時、彼が何を思ったか突然この井戸にはたくさんの死体が放り込まれていると言って僕を驚かせた。一人で井戸の側を通ると、死体が出てきて井戸に引き込もうとすると脅されたので、以来ここは怖い場所になってしまった。からかわれたのだとわかっていても井戸の方を見ないようにして通り過ぎるようになった。
井戸を過ぎてまだしばらく道を下ると、村の外れの古い無人の神社へたどり着く。そこからは緩やかな下り坂になって山沿いにいくつもの棚田が広がっている。
もう稲は刈られ、泥だらけの表面に水たまりが残っていた。田に落ちないように、気をつけて畦を歩く。
細い道を辿り、小さな峠を越えると一軒の小さな家がある。軒下にいた鶏が首を伸ばして顔の片側で僕を見た。僕が手を広げて脅かすと家の裏へと逃げていく。
腐りかけた戸に手をかける。
「ゴザメ、僕だよ。ニコウが来たよ」
返事を待たずに開ける。最初に目に付くのは敷き詰められた編みかけの竹だ。土間から始まって奥の方へと続く。竃の上にも積んである。
たいていのものはまだ完成していない竹駕籠で、これはやたらと場所をとる。
部屋の隅には既にできあがった駕籠が高く積み上げられている。同じ形のものは綺麗に重ねることができるのがおもしろい。
ゴザメは囲炉裏端に座って竹を広げていた。編みかけの、だらしなく四方に広がった竹を回しながら一目ずつ編んでいる。入ってきた僕を見向きもしない。
ゴザメはこの村で生まれて育ったのだそうだ。子供の頃に働きに出て、大きくなって戻ってきた。年は知らない。若い大人だ。いまはこうして駕籠を作って一人で暮らしている。あと、それだけだと食べていけないのか、時々山でカタクリの根っこを掘ってきて売っているという。
「ねえねえ、独楽をもらったよ」
僕は手のひらに紺色の独楽を乗せて差し出した。
「そうか。よかったな」
「見てないじゃないか」
「べつに俺にくれるわけじゃないんだろ。だったら見ても無駄だ。それにそもそも独楽なんて欲しくない」
彼はそう言いながら編んだ竹を持ち上げ眇(すが)め見た。満足したらしく、隅に置くと新たな竹材を手に取った。
「六目だね」
僕が言うとゴザメはうなずいた。たくさんの六角の穴が並ぶ編み方だ。それは僕もできる。でも駕籠を作れるほどうまくはない。せいぜい六角が三つ並ぶぐらいで力尽きてしまう。
部屋の隅には輪っかになった竹がたくさん縛られている。こうして癖をつけておいて、駕籠の縁に使うらしい。僕は真っすぐな竹がそんなふうに丸くなるのがとても不思議だった。側にはたくさんのイトツルマキが束ねてある。竹を縛るときに便利なのだそうだ。
「昨日は禊をやってた」
「そうか」
ゴザメは新しい竹を編み始めている。僕はゴザメの横に座った。
「それで、久賀爺が独楽をくれたんだ」
「そうか」
床に敷き詰められた竹の、わずかな隙間に古びた敷き板が顔を出している。
僕は独楽を回した。二度失敗したが、三度目でうまく板の上に乗って回り始めた。そうだ、適当な大きさの板切れがあれば、どこでも独楽回しの勝負ができる。久賀爺に言えばもらえるかもしれない。僕は自分の思いつきに嬉しくなった。
と、いきなりゴザメが手を伸ばして回っている独楽を取り上げた。
「なんだよ」
彼は独楽を手のひらに乗せて見ていた。僕にそれをよこしながら「俺の作った独楽だな」と言った。
「そうなの?久賀爺にあげたの?」
「いや。村の大工に頼まれて作った雛人形の飾りだ」
「だったらその大工さんが久賀爺にあげたんだね」
と僕が言うと、ゴザメは黙ったまま僕を見た。
ゴザメは僕と話をしていると不意に黙り込むことが多い。何を考えているのか教えてくれない。
だから僕も聞かない。何度聞いても無駄だからだ。
だいたい、最初に会ったときからおかしなことばかり言っていた。僕があまりわからないと思って馬鹿にしているのかもしれない。千鶴江さんもよくそういうことを言う。
だったら、それはしょうがない。
しばらくゴザメのところで独楽を回して遊んだ。

「もうすぐ日が暮れるぞ」
ゴザメに言われて慌てて起きた。いつの間にか眠ってしまったらしい。
「その独楽はな」
僕が出ようとするとゴザメが言った。
「多分、村人からの貢ぎ物だよ。禊の時に集められるやつさ」
「じゃあ、本当は千鶴江さんのものなんだね」
「まあ、そうかもしれん」
絶対にそうだと思うけど、ゴザメはなんだかはっきりしない。
外に出る。山の一部はもう暗くなっている。
「気をつけて帰るんだぞ」
とゴザメが鶏小屋に餌をまきながら言う。鶏が集まってきて鶏小屋に入るのを僕は見ていた。
その時、村へと続く山道を誰かが登ってきた。大きな体を揺するような妙な歩き方で誰だかすぐにわかった。
「チオウだ」
ゴザメに言うと「おっ」と顔を上げた。
いつも僕の話で聞いているだけなので、きっと珍しいと思ったのだろう。だけど、近頃のチオウはぼんやりしているので、ちょっと心配だった。
チオウは前だけ見て歩いているので、僕等に気がつかないかもしれない。
こんな遅くまでどこに行っていたのだろう。いつも久賀の家にいるだけだと思っていた。
目の前を通り過ぎる。案の定、こちらを見もしない。
すると、ゴザメが「こんばんわ」と声をかけた。
チオウは立ち止まり、ゆっくりとゴザメを見て、僕を見た。
「久しぶり」
とゴザメが言う。僕は驚いた。
チオウがしばらくゴザメを見つめる。そして、言った。
「脚、治ったな」
「脚?ああ、そうか。そうだよ。おかげさまで」
「良かったな」
チオウは表情を変えずに言って、また歩き始めた。
その背を見送りながら僕は「知り合いだったの?」と訊ねた。ゴザメは笑って「ちょっとだけな」と答え、それ以上は教えてくれなかった。

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