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中編小説【誰かが扉の鍵を~後編】(文字数13921 無料)

(前編からの続きです)

 僕は階段を降りていった。
 女性の笑い声が聞こえる。
 食堂の扉を静かに開ける。
 テーブルを挟んで座っていた探偵、そして助手が振り返る。
 ああ、どういう表情をしたらいいのだろうか。
 探偵は僕の様子を見て「さては記憶が戻ったのか」と訊ねてきた。それを否定し、助手だという女性の顔を見ながら「でも事件の謎は解けました」と答えた。
「ほうほう。それはそれは」
 探偵は僕に椅子をすすめ、助手に微笑んでみせた。
「実に興味深いじゃないか。ぜひご高説を窺いたいね」
「重複や、自明のことなどもありますが、最初から順序立てて話をさせてください。僕の記憶はまだはっきりしていないので、その辺りの整理もしながら話をしたいのです」
 探偵相手に自分の推理を語る。なんだかおかしな感じだったが、僕のたどり着いた考えが間違ってはいないという確信があった。
「それでは、まず最初です。僕はこの家の二階の部屋で目を覚ましました。その部屋には僕の他に探偵とその助手だと名乗る二人がいました。探偵が言うには、この館で三人が死ぬという恐ろしい事件があり、事件の解明をしている最中に僕が犯人だと名乗り出たそうです。そして、その直後に階段から落ちて意識を失ったということでした」
「まあ、大変慌てていたようだからね」
「僕は最初にこの前提を受け入れる必要がありました。つまり、あなたは本当に探偵であり、事件は本当に起こり、僕の友人達が死んでしまったということを。疑い始めれば切りがない。探偵を名乗る男こそ真犯人であり、僕は単に記憶を失っているのをいいことに、犯人の役を背負わされ、偽の記憶を『思い出す』ように誘導されているのではないかという可能性さえあり得る」
「僕もそう思われているんじゃないかと思ったよ。まあ、いずれ君の記憶が戻ればそうでないことはすぐにわかるのだけど、運が悪ければそのままかもしれないしね。それを否定するのはちょっと難しいな。しかし、もしそんなことを企んでいるのなら、もう少し状況を整えるけどね」
「そうです。僕もそう思いました。そんな計画があったのなら、密室は不要です。まあ、ここは一つあなたの言うように、事件が本当に起こったのだと信じることにしました」
「賢明だ」
 探偵が助手に笑いかけると助手が小さくうなずいた。その息の合った様子に小さな嫉妬を感じた。
「さて、僕を含む五人の男女が夏休みを楽しもうと、山奥にあるこの屋敷に集まりました。三人の男性と二人の女性です。そのうちの一人は僕です。彼等がたどり着いてから三日目の晩に最初の事件が起こりました。男性が鍵のかかった部屋で死体となって発見されたのです。さらに次の日には別の男性が殺されました。やはり鍵のかかった部屋で死んでいたということです。さらに、次の日には女性が、同様に鍵のかかった部屋で死んでいました」
 探偵が深くうなずく。
「もちろん、鍵は見過ごせない要素だ」
「事件自体もとても不思議なものですが、僕は鍵についての矛盾に疑問を抱きました。なぜ最初の二つの事件では部屋の鍵が壊されなかったのか。なぜ最後の部屋では壊されたのか」
「どうやら、君は気がついたようだね」
 探偵の言葉に、僕は自信を持って答えた。
「部屋の数です。僕が目を覚ました部屋は最初の殺人が行われたところでした。本来ならば避けるべき場所だと思うのですが、あなたはやむを得なく僕をあの部屋に運んだというようなことを言っていました。その具体的な理由というのは何ですか」
 探偵がテーブルを指で叩いた。楽しんでいるのだろうか。
「それは、他に適当な部屋がなかったからだ」
「一階にも食堂の他にもいくつか部屋があると思うのですが」
「鍵が掛かっているんだ」
 なるほど。それが理由だったか。
「もともとこの別荘はペンション用に作られたものだ。持ち主は早々に会社経営などを退いて、ペンションを営むという生活に憧れたようだ。結局未だに忙しいままで果たせずにいるらしいが。今回、甥である重田君がここを使わせてくれと頼んだときに、二階の客室と一階の食堂、そして風呂場の使用を許可され、他の部屋の鍵は渡されなかった」
 もちろん、そんな細かいところまではわからなかったが、一番重要なのは我々には二階しかなかったということだ。
「つまり、僕等が使えたのは二階の四つの部屋だけであるということですね」
「そうだ」
「ならば全ての謎は解けました。同時に、探偵であるあなたが鍵のかかった部屋での惨事にさほど重きをおかなかった、その理由も判明しました。この部屋を訪れたのは五人の男女です。部屋は四つ。どうしたって一つ足りません。ところが、実にたやすくこの状況を解決する考え方があるのです」
 探偵の横で黙って僕を見ている女性の表情が少しだけ変化したように思えた。
「つまり、五人というのは一組のカップルと三人の男女でした。こうすれば一つの部屋に二人が収まりますから、四部屋であってもなんの不都合もありません。さらに、僕にとっては一番重要であった謎もあっさりと解決してしまいます。つまり事件は二人の人間がいる部屋で起こったのです。そりゃ、犠牲者が殺されたとき、あるいは死体の発見時には中から鍵が掛かっていたかもしれません。しかし、もう一人、部屋には生きている人間がいたのです。断末魔なり、争いの声を聞いた人間が外からノックをしたところで、中の人間が鍵を外してドアを開ければ、鍵が壊れるはずもありません。詰まらない結論ですが、それがこの事件のすべてですね。二件目の事件も同じです。再びその女性が別の男性と同じ部屋にいて、一人が殺されたのです」
 僕はしゃべりながら探偵の様子を窺った。彼は小さくうなずきながら聞いているだけで、反論も質問もない。
「そして、唯一部屋の鍵が壊されたのが三件目です。これだけは様子が違っていた。部屋には犠牲者が一人だけで、鍵を破壊しなければ中へ入ることができなかったのです。その三人目の犠牲者こそが一件目と二件目の事件で部屋にいた女性であったと僕は考えます。なぜ三件目だけが密室に成り得たのか。それは、その女性が自ら命を絶ったからです。つまりこの惨劇は二つの殺人事件と一つの自殺から成るものだったのです」
 僕はしばらく彼等の反応を見た。
 女性の入れてくれた珈琲を飲む。既にぬるくなっていた。
「探偵から話を聞いているうちに、この事件の説明で一人姿を消していることに気がつきました。死体が三つと僕という生き残り。あきらかに足りないですよね。そこであることを思い出しました。目を覚ましたとき、最初に感じたのは懐かしさというか、ほっとする感情だったのです。その原因を考えると、どうやら助手のあなたが側にいたから、というのが理由のようです。記憶を失ってしまった僕は、あなたの顔を見ても特に何かを思い出すということはありませんでした。だから懐かしさもただの気のせいかと思っていたのですが、先ほど食堂に入ってきたときに、またしても同じ感情が湧いてきました。そこでおそまきながらようやくその正体に気がついたというわけです」
 なんだか照れくさいが、真実へたどり着くためにはそんなことも言っていられない。
「それはあなたのつけている香水なのです。その微かな香りが、なぜか僕にとって特別な感情をかき立てる元になっているのです。それがわかってしまえば、助手を名乗っているあなたこそが、この事件の五番目の人物であり、僕と同じ生き残り組であるという結論は同時に出てきます」
「それはちょっと」
 探偵が口を挟もうとするが、僕は手を挙げて制した。ここまで来たらとりあえず最後まで話をしてしまいたい。
「さあ、そうしたことがわかってみると、探偵であるあなたの狙いと、僕が記憶を失う前に考えていたことが何であるのかを想像することが可能になります。まず、探偵であるあなたは容易に『二つの殺人と一つの自殺』という事件の真相にたどり着き、生き残っていた二人に真相を話そうとした。二人というのはもちろん、僕と彼女のことです。それでこの事件は終息したはずだったのです。ところが、僕は勘違いをしていた。おそらく、最後の部屋の密室を、犯人が何らかのトリックを使ってそういう状態にしたと思ったのでしょう。そして、自分以外に生き残ったもう一人の女性こそがその犯罪を行ったのだと信じてしまっていた。そこで、咄嗟に自分が犯人であると名乗り出て、彼女を庇おうと思ったのです。その直後に階段から落ちてしまい、挙げ句の果てに記憶を失ってしまった。探偵であるあなたは驚きかつ呆れたことでしょう。自供が馬鹿げたものだということを悟らせるために、あなたは部屋に鍵が掛かっていたことを僕に教えた。それはつまり、そんな状態では同室の人間以外には犯行は行えないし、そうである以上、もう事件の発生と同時に犯人は特定されていたのだから、いまさら他の人間が事件後に犯人の名乗りを上げても無駄だという、そういう状況だったことを思い出せと、そういう狙いがあったのでしょう」
 長い説明を終えて僕は大きく息を吐き出した。本当に大まかな記憶の断片から作り上げた仮説が、次第に所々で形を成し、一つにまとまったときに光を放つ。そんな瞬間を見たような気がしていた。
「何か質問などあればどうぞ」
「うーん……」
 探偵は腕を組んだ。なぜかその頬が緩んでいる。真相が明かされたという緊張感など微塵もない。
「かなりいい線いっているよ。真相はさほど遠くないが、いくつか細かい修正点はあるな。
 まあ、その理屈に君が同室の人間でなかったという保証はないという意地悪な指摘もあるけど、それはまあ、実際にそうでなかったようなので、よしとしよう。それよりも重要なことがあるからね。実際に各部屋で起こった事件というのは君のいう通りだ。最初の部屋に泊まっていたのは恋人同士だと思われていた男女。同じ部屋で寝ていた一人がもう一人を殺したに過ぎない。鍵云々と言ったのは、お察しの通り、君が犯人だと主張するからには、別の部屋に一人で泊まっていた君がどうしたらこの犯罪を成しえたかその方法を説明しなければならないと悟らせるためだ。幸い、君は無事に真相近くへ辿り着いた。ただ、さっきも言った通り、まだ細かいところに修正の余地はある」
 探偵が一息入れて珈琲を飲み干した。彼の珈琲も、やはり生ぬるくなっていることだろう。それにしても助手だという女性はおとなしい。僕が正体を見破ったからだろうか。
「君が言ったように、この事件では発見と同時に犯人が特定される。つまり、同室の女性はその場で犯人だと判明したはずだ。ところが、君の仮説では次の日になってまた彼女が同室の男性を殺したことになっている。そりゃいくらなんでも殺された男が間抜け過ぎやしないか?」
 言われてみればその通りだ。ただ、それが不自然でない可能性を考えることはできる。
「二番目の男性は最初から女性の殺意を知っていたんじゃないだろうか。何もかも計画通りだった。だから役目を果たした彼女を安心して泊めることができたんだ。ところが、彼女は二番目の男に対しても密かに殺意を持っていた」
「他の人間はそれを黙って見ていたというのか?」
「死体を発見したのはその男だけで、事件自体が他には知られていなかったのかもしれない……いや、待ってくれ」
 話しているうちに僕はそれが嘘だと気がついた。
 死体を発見したときの情景。部屋の中には死体の他に四人の人間がいた。
 そうか。驚愕とともにあった複雑な心境とは、僕達全員がその時点で犯人を知っていたという、その状況から生まれてくるものだったのだ。
 山奥のペンション。仲が良かったはずの五人は、すぐに一つの死体と一人の犯人、そしてその他の三人となった。
「……そうだ。僕等は状況を理解していた。そして困っていた。こんな恐ろしいことが現実になってしまったことに戸惑っていたんだ」
 探偵は満足げにうなずいた。
「いい調子だ。これでますます真相が分かるようになるだろう。さあ、そういう状況で最初の事件の犯人はどういう扱いを受けただろうか」
 探偵の言葉が僕の中にある無数のスイッチを押す。接触の悪い回路のようだ。その奥に明滅を繰り返す映像。
 窓の外に広がる闇。重苦しい空気。苦悩。
 この場所だ。
 食堂に僕達は集まっていた。
「……そうだ。僕等はそれを話し合った。もちろん、警察を呼ばなければならないことはわかっていた。でも、その決断を下すのはとても辛いことだったんだ。僕達は犯人である女性を死体の隣の部屋に閉じこめた。現場は保存しておく必要があると思われたからだ。彼女は暴れたりしなかった。ただ、なんというか、何もかも終えてしまったとでもいうように、ただ僕達に従っていた。一応、食堂のテーブルや椅子で即席のバリケードを作ったけど、それはほとんど僕等の気休めのためだった」
 重苦しい雰囲気の中、言葉もなく作業を終えたのだ。
「その作業をしているときに電話が通じなくなっているということに気がついた。レンタカーのキーも無くなっていた。とにかく次の日の朝になったら、なんとかしようと、その日は眠ったんだ……一人で部屋に戻った時にやりきれなさを感じていた。それでも疲れていたし、もう何も考えたくない状態だった。ベッドに横になるとぐっすりと眠れたよ」
 もう大丈夫だ。こうして順を追って話していくと、次々にその時の情景が蘇ってくる。この話を最後まで終えれば、事件の謎は解けるのだろう。
「目が覚めると窓の外は近づいているという台風のせいで、風が強く木々が激しく揺れていた。雨が降る前に気晴らしに外を散歩してみようかと思ったけど、次の瞬間に昨日の惨劇の光景が蘇ってきた。ただの悪夢であればとは思ったけど、そうでないこともはっきりと意識していた。そして僕は隣の部屋へ行き、扉をノックした。何の返事もなかった。しばらくして中から僕の名前が呼ばれた。僕がそうだと言うと、鍵を外す音がして、彼女が姿を現した……そうだ、その手は血に染まっていた」
 言葉に詰まる。
「さあ、そこだ」
 探偵が静かに、しかし力強く言った。
「いまの話で重要なことがわかるだろ。君の言葉を元に考えればはっきりする。やはり部屋の数を考えればいいんだ。犯人の女性を死体がある部屋の隣に閉じ込めたと言ったね。それは西側の二つの部屋が埋まっていたということに他ならない。そして、君達は残った東側の部屋を使っていたんだ」
「それはそうだ」
「つまり、ここから単純なことがわかる。東側には二つしか部屋がない。三人で二つの部屋。いいかい、この旅行にやってきた五人のメンバーは君の言うように一組のカップルと三人の男女ではない。二組の男女のカップルに君という男がついてきたんだ。最初から部屋は三つしか使われていなかった。そして、それぞれのカップルの女性が、部屋にいた自分のパートナーを刺し殺した。これはそういう事件なんだ」
 その言葉に、僕は打ちのめされた。
 そうだ。
 それがごまかしようのない事実だ。
 なんだってそんなふうにしなければならなかったんだろうか。
 僕は彼女のことが心配だったのだ。
 そうか。
 だからこそ、のこのこと運転手をかって出て、この旅行に参加したのだった。
「そして君は西の棟へ向かったのだろう。二番目の事件の犯人である女性も一緒だったかもしれない」
 僕はうなずいた。あの時の情景を思い出していた。
 短い廊下。三十段ばかりの階段。時間をかけて歩いた。
 二人が死んでしまった。
 朝はまだ始まったばかりだった。
 部屋の前へ辿り着くと、僕達は扉の前に積んである机を片づけた。
 そして扉を叩いた。
「返事はなかった。二度三度と叩くうちに僕は悟った。思いを遂げた後の行動を予測できた。僕の隣では彼女が扉にすがりついて泣いていた。僕は彼女に替わってノブを蹴りつけ、扉に体当たりした。幸い掛かっていたのは掛け金だけで、さしたる苦労もなく扉は開いた。中へ入った僕は壁のコート掛けに引っかかっている女性を発見した。細く切ったシーツをフックに結んで首を吊っていたんだ」
 そうだ。それを見た瞬間に、この事件をうまく説明できる筋書きが生まれた。
「なるほど。つまり最初の事件の犯人だという女性が自殺をしたんだね。さあ、遅ればせながらここで僕の登場だ。僕がこの別荘に辿り着いたときには君ともう一人の女性が食堂でぼんやりと座っていた。君の話はあまり要領を得なかったけど、各部屋の様子を見れば何が起こったのか、およその察しはついた。この食堂でその話を始めたところ、君が突然立ち上がって犯人は自分だというようなことを叫んで部屋から出ていった。そして階段から落ちたというわけだ」
「そうか……」
 ということは、最初から僕の言っていることは滅茶苦茶ということか。
 ふと、そこでずっと気になっていた問題を思い出した。
「そういえば、根本的な疑問なんだが、そもそもどうして君はここへ来たんだ。別荘の電話は通じなかったんじゃないのか。そもそも誰が君を呼んだんだ?」
 探偵が助手と顔を見合わせた。そして、少し声のトーンを落とした。
「まだ全てを思い出したわけではないのだからしょうがないか。あれは昨日の夜中だ。ぐっすり眠っていた僕は時間をわきまえない不快な電話によって叩き起こされることになった。電話の主はこの館で殺人事件が起こったと言った。そして、手遅れにならないうちに来てくれと。最初の事件は既に起こってしまったから、続きが発生しないようにしてほしいと言った。しょうがないので僕は直ちに助手と連絡をとって車を飛ばして五時間かけてやってきたわけだが、残念ながら間に合わなかったようだ。その後の惨劇が君の言う『手遅れ』だったのだろう」
 そうか。
 思い出した。
 最初の事件が起こり、食堂で話し合いをして、その後、皆が寝静まったと思われる頃に、僕はこっそりと戻ってきたのだ。車に積んである簡易工具セットからペンチを持ってくると、断ち切られていただけの電話線の被覆を剥いて導線をよじって繋げ直した。多少心配はしていたがあっさりと電話は通話可能となった。そして、唯一こんな状況を打開できそうな知人である彼に電話したのだ。
「依頼人は僕だったのか」
「その通り」
「で、君はいったい誰なんだ?」
「おいおい、思い出していないのなら説明しても無意味だろう。この調子なら記憶を取り戻すのも時間の問題だと思うけどね」
 そんな気はする。しかし、まだ僕は自分の名前も思い出せていないのだ。
 それにしても、彼がそもそも僕の知人であったとは……ということは……
「では、君は本当に探偵の助手なのか?」
 黙って座っている女性に僕は訊ねた。
「僕等と一緒にここへ来たという、五番目の女性じゃないのか? 僕が目を覚ましたときに感じた安堵や懐かしさの正体は」
 女性が探偵に腕を差し出した。「わたしも気になっていたの。あの子に触れたときに移ったのね」サマーセーターの腕に手を添え、探偵は顔を近づけてうなずく。
「匂いか」
 それで合点がいく。目を覚ます前から、僕は嗅覚によってその女性が間近にいると感じていたのだ。
 しかし、実際にはただの勘違いだったらしい。
「じゃあ、やっぱり一人足りないじゃないか。五番目の女性はどこにいるんだ?」
「うん、そろそろ話をした方がよさそうだ。それこそが、一番やっかいな問題でね。実のところ、僕にとってはこれだけが興味の対象だった。この館で起こったであろう出来事を僕が語っていたときに、君が突然犯人は自分だと言いながら走り出した。一緒にいた女性も君の後を追った。そして、君が足を滑らせ階段から落ちたとき、彼女を巻き添えにしたのだ」
 ああ、そうだった。回転する世界。体中の痛み。
 床に横たわる僕。目の前には目を閉じた彼女が、同じように床に倒れている。
 その額、頬と幾筋もの赤黒い血が這っていた。だけど顔だけが思い出せない。
 すべてが終わったのだと、気を失う瞬間に僕は思ったのだ。
 そうか。
 死体が並べられている東側の部屋。探偵が僕に見せた、床に横たわる二つの死体。
 そして二つのベッド。
 どちらもシーツで覆われていた。
 そういうことか。
 殺された二人の男性。
 自殺した一人の女性。
 階段から転落した一人の女性。
 あの部屋に、四つの死体があったのだ。
「何もかも失われたのか」
 探偵はうなずいた。
 ここになんのためにやってきたのか。
 ごめんね。あなたの好意を利用するだけで。
 彼女がそう言ったときのことが不意に蘇る。
 わたしと彼女で、あの二人を殺すことにしたの。
 僕は彼女に憧れていた。
 こうなることを最初から知っていたのだ。
 その情景に触発され、感情がおぼろげに蘇る。
 そうだ。僕は迷っていた。
 自分の恋人を殺すという彼女達が、どこまで本気なのかわからなかった。考えることと実行に移すこととの間の距離はずいぶんとあるに違いないとたかをくくっていた。そんなことより、彼女が僕に重大な秘密を打ち明けたことを嬉しいとさえ感じていたのだ。
「僕は最初の事件が起こって彼女達の決意の固さを知らされたんだ。そして、随分と取り乱した覚えがある。僕のおぼろげな記憶の中では、もう一人の女性のことはどうでもいいと思っている。ただ、一人だけを心配しているんだ。殺された二人に関しても、知り合いだけど、殺されるのはしょうがないと思っていた節がある。人にはひっそりと生きる権利があるだけだ。他を傷つけた者にそれは適用されない。そして、現実に殺人が実行されてしまった。最初の事件を実行したのは彼女ではなかった。ここで思い留まらせることができればよかった。でも例え彼女に多少の迷いがあったところで、約束をした相手が実行したのでは、後に続かざるを得ない。そう僕は考えたのだと思う。だから……」
 それだけは避けたい。そう思って、探偵に電話をしたのだろう。
 しかし、そんな感情もいまとなっては全て無意味だ。結局叶わなかったのだ。
「できれば防ぎたかった」
 僕は力無く言った。
 探偵の表情は変わらない。
「この館で起った事柄が、表面的にはいままでの説明と同じだとして、そもそも君が事前に知っていたのかどうかということが疑問だったんだが……どうもそうではなかったようだね。実は、君が一連の犯罪における実行犯ではないだろうというのは、まあ君自身からの電話を受けていたし、ここへ来て事件の様子を聞いたときにわかった。だけど、犯人だという名乗りを上げた君の動機がいまひとつ理解できなかったんだ。どうやら、二番目の女性をかばうためであったということらしいのだけどね。まあ、そうだとしても、ある可能性は残る。最後の最後で君が階段から落ちるときに、その後を追った女性が巻き添えにされたのは、単なる事故だったのかどうか、という問題だ。それを確かめるためにここに残っていた」
「どういうことだ?」
「目の前で起こったその落下事件だけが解決できていなかったということだ。君の憧れていた女性が他の女性と結託して殺人を企てている。半信半疑であった君も、彼女の相棒が実際に殺人を実行したためにその決意を知る。その時に君がとるべき行動はなんだろう」
「だからそれを阻止しようとすることだろう。つまり、僕が守ろうとしている女性が実際に殺人という行為を実行してしまうのを防ごうとしたんだ」
「その通りだ。実際に君は僕に電話をかけてきた。まあ、警察に連絡をしてもよかったのかもしれないが、それでは二人とも逮捕されることになってしまうかもしれないからね」
 僕はうなずいた。
「しかし、ついに二番目の事件が起こる。彼女も殺人を実行してしまった。最悪の事態だ」
 絶望的な混乱。そんな嫌な手触りの記憶。
「君には気分の休まる暇もない。次に起こったのは最初に殺人を実行した女性の死という痛ましい出来事だ。こうしてこの館には君ともう一人の女性が残ることになり、僕という探偵がそこへのこのこと現れた。君にとってはもう手遅れだし、いまさら事件の解決などおよそどうでもよいことだったろう」
「そうかもしれないな。いや、本当なら探偵の君に頼るのではなく、僕が思いとどまるよう彼女を説得するべきだったんだ」
「まあ、君の言葉に耳を貸したかどうかはわからないよ。同じ道を進もうという共犯者がいたわけだから。例え中途半端でも歪んでいるとわかっていても決意を固めざるを得なかったのかもしれない。さて、僕は君ともう一人の女性から別々に話を聞いて事件のあらましをつかんだ。そして真相と思われる単純な結論に辿り着いた。それはつまり二人の女性がそれぞれの恋人を殺したということなのだけどね。それを説明しているうちに君が飛び出し、残った女性が君の後を追いかけていった。慌てて僕と助手も後を追ったけど、すぐに君と女性が転がり落ちてきたんだ」
 探偵は両手を広げ、僕の顔を見て、少し間を置いた。
「さあ、ここで大きな問題が一つある。君はやみくもに犯人の名乗りを上げてもうだめだと口走りながら走っていった。そのとき、女性が後を追いかけたのは君にとって意外なできごとだったのだろうか」
「どういうことだ」
「つまり、君はある程度その展開を予想していたのじゃないだろうか。女性が慌てて追いかけてくると」
「だとしたらどうなるんだ」
「取り乱した君が足を滑らせて階段から落ち、女性はその事故に巻き込まれたという構図は成り立たなくなる。するともう一つの絵が浮かぶじゃないか。君は取り乱した振りをしながら十分な高さまで上がっていく。そこで追いかけてきた女性に向き直り、思いきり突き飛ばす。その後で自分も足を滑らせたふうを装い落ちていく。不意を付かれた場合と自ら落ちていくのとでは危険度もまるで異なる。君が咄嗟に思いついた計画だ」
「何故、そんなことをする必要があるんだ?」
「彼女を憎んでいたからだよ」
「おいおい、話がまるでおかしいじゃないか。僕は彼女を救おうとして君を呼んだんだ。それが果たせなかったから今度は身代わりになろうと犯人の名乗りを上げたということじゃないのか」
「最初はそういうつもりだったのかもしれない。だから僕が呼ばれたのだと考えられる。一つ目の事件が起こり、その次の悲劇を防ぐためにね。ところで、ここで君が恐れた次の悲劇がなんであったのかということが問題になる」
「だから、それは彼女自身が手を下さなければならない次の犯罪が起こるということだろ」
「それも一つの可能性だ。しかし、もう一つ答えがあるだろ。それによってその後の君の行動はまったく違った意味をもつことになる」
「なんだよ」
「もし最初に起こった事件こそが、君の想っている女性による犯行だとしたらどうだろうか」
 耳鳴りがする。あるいは、その可能性に僕は気がついていたのかもしれない。そして、それが顕在化する前に、僕の意識がその可能性を排除しようとしたのか。
「すなわち君が恐れていた次の悲劇というのは、殺人を実行してしまった彼女が次に自らの死を選ぶということだった、と考えられる。彼女が部屋に閉じこもって鍵を掛けたのがすべて自発的な行為だとしたらどうだろうか。君は何とか収拾をつけようと思い、大慌てで僕を呼んだ。しかし、君が思っていたよりも早く彼女は自らの命を絶ってしまったんだ」
「そうなのか?」
 思わず僕の声が大きくなる。探偵は小さく首を横に振る。無表情なまま。
「これも可能性だ。僕は君の心の中など知りようがないのだからね。もし自殺してしまったのが君の救おうとしていた女性だとしたら、もうこの時点で君は全てを失ってしまったことになる。もちろん、とても悔やんだことだろう。さあ、その時に君が新たに抱くことになった感情はなんだろうか」
 ようやく探偵が言わんとしていることがわかった。
「つまりあの階段で起こったことが、そうした経緯から生じた殺意によるものだったというのか」
「そうだ、君にしてみれば、生き残った女性こそが彼女をこの破滅的な計画に巻き込んだ張本人だ。一方的にその女性が悪いのか判断するのは難しいだろうが、君がそう思いこむことはたやすい。そこでまだ生き残っている女性への怒りが君の中で急激に膨れ上がった。遅ればせながら辿り着いた僕が得意げに事件の解明をしているときに、君は咄嗟の行動に出た。それは生き残った彼女があとからついてくると計算した上でのことだ。もちろん、それがうまくいかなかったらまた次の手だてを考えただろうけどね」
「だとしたら、僕はわざと階段から落ちたことになる」
「ああ、その可能性があるから、僕は君が本当に記憶を失っているのかどうか、確信が持てなかった。そこで君を試そうとしたんだ。例えば、君が吸わないのを知っていながら、煙草を出してみた」
「なんだ、やっぱり僕は吸わないんだ。道理で、あの箱を見たときになんとなく嫌悪感があったんだ」
「僕も吸わない。この部屋に置いてあったんだ。おそらく最初の被害者のものだろうな。それにね、僕が名乗らなかったのも、本来君は僕の名前を知っているわけだから、うっかり呼ぶんじゃないかと思ってのことだったんだ。助手に関しても同様だ」
「あいにく未だに思い出せないよ」
「それから、死体が並べてある部屋に君を通しただろ。そのとき、シーツのかけられた二つのベッドを見て君がどういう反応をするのか確かめたくてね。死体が四つあって君が安堵するか、あるいは残念そうな表情をするのか」
 まさか探偵がそこまで考えていたとは。しかし、確か僕は、あの部屋では……
「そう。結局わからなかった。君は転がった男性の死体に目を奪われたのか、まるで女性の死体がベッドにあることなど気がつかないように見えた。女性の死体にはシーツをかけてある、という僕の言葉にもほとんど上の空で確かめようともしなかったしね。君がまったく完璧に演技をこなしているのか、あるいは、いよいよ記憶喪失が本物であるということなのか、結局わからないままだ。でもね、やっかいなことに記憶喪失が本物だとしても転落事故についての疑問が解けるわけではないんだ。君は彼女を突き飛ばし、落ちた振りをしたのだけど、打ち所が悪かったということになるだけだからね」
「だとしたら間抜けな話だ」
「そもそもここへ君がのこのことついてきて、この事件を未然に防げなかったことこそが間抜けだよ。まあ、とにかく、君の記憶喪失に関してはまだ疑問が残ったままだ。そこでもう一つ試してみようかと思うんだ」
 探偵が僕の顔をまっすぐに見た。どんな表情をすればいいのかわからない。戸惑いと、その先の言葉に対する恐怖。
「実のところ、君と一緒に転がり落ちた女性は生きているんだ。あの部屋にあった死体は結局三体だけだ。もう一つのベッドの下には布団が丸めてあるだけさ。今頃彼女は町の病院で手当を受けているだろう」
 僕はそうだったのかと言ったきり言葉もなかった。探偵が僕のその様子を見て深くうなずいた。
「もし君が彼女のことを救おうと思っていたのなら、ここで大いに喜ぶところだ。もし君が彼女を憎んで殺したのなら、それを隠すためにはやはりここで大いに喜ぶところだろう。しかし、君が記憶を失っているのなら、自分自身でも肝心なことがわからないだろうからね。どういう態度をとるのか迷うところだ」
 彼は立ち上がった。
「というのは嘘で、実際には死体は四つあった。君が気を失っていたのはほんのわずかな時間だ。麓の町に女性を運んでいる時間なんてあるわけがないだろ」
 なんだなんだ。もう混乱するばかりだ。
「とまあ、嘘を重ねて君の反応を見ているわけだが、やはり君の表情からわかるのは君が本当に記憶を失っている可能性が高いということばかりだな。まあいいや。もしそうでなかったら苦しむのは君自身だし、そうであるのなら僕が心配するまでもないことだ。もう僕等は帰るよ」
 彼は立ち上がって食堂を出ていく。
 助手の女性がその後に続く。
 探偵が鍵を僕に渡した。
「君達が借りていたレンタカーの鍵は東側の建物の奥の部屋だ。僕が使っていると言った部屋に置いてあるよ。これはその鍵だ。燃料も僕の車のを分けた。山を下りるぐらいは十分にもつだろう。今後の判断は君に任せよう。最良の道を選ぶことを期待している」
 半ば呆然としたまま、玄関で探偵とその助手を見送った。
 意識を取り戻してから初めて見る外の景色だったが、確かに見覚えがあるような気がする。もうすでに薄暗い。
 二人の乗った車が遠ざかる。
 僕は一人取り残された。
 食堂に戻る。
 静寂ばかりだ。
 壁の安っぽい時計が、一秒ごとにやかましい。
 立ち上がる。
 何が真実なのか、もうわからない。
 ゆっくりと休もう。
 階段から落ちたとき、いったい何を考えていたのか。
 それを考えよう。もう少し時間があれば、すべてを思い出すだろう。
 西側の部屋へ行こうとして、ふと車の鍵を取りにいかなければと思った。
 日が暮れてしまっては、東側へ行くのが怖くなるかもしれない。いや、いまだってかなりの恐怖を感じる。
 階段を上り、死体が入れられた最初の部屋のドアを見ないようにして奥へ。探偵に渡された鍵を鍵穴に差し込んで回す。
 把手に手をかける。
 その瞬間、恐怖に駆られた。
 ドアが開かない。
 思わず視界が暗くなる。
 中から鍵が、掛け金がかかっているのだ。
 探偵か。
 まだ彼は僕を試そうとしているのか。
 しかし、彼はもう立ち去ったはずだ。それを僕は見ていた。
 こっそり戻ってきて、どこかに隠れて僕の様子を窺っているのだろうか。
 思わず後ずさる。
 狭い廊下。
 階段。
 窓の外。
 この屋敷。
 小さな金属音がする。誰かが扉の掛け金を外したのだ。
 部屋の中から。
 そしてノブが回る。
 ゆっくりとドアが開く。
 純粋な恐怖。重い泥の中から浮かび上がる記憶の泡。
 扉の向こうに女性が立っていた。
 僕を安堵させたあの匂い。
 それが引き金になる。
 僕の頭の中でいくつもの細い光が走る。
 無意味に重ねられた情景。言葉。感情。
 一瞬目を閉じて、そしてもう一度見るその光景はまるで異なっていた。
 嵐が過ぎ去った後のようだ。
 何もかも思い出した。
 彼女が僕を見ている。
 僕はその名前を呼んだ。
 歩み寄る。
 頭には包帯が巻かれている。
 大きな瞳が僕を不思議そうに見る。
 そして彼女は口を開いた。
「あなたは、誰?」

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