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小説【夏のストロボあるいは魔法】第5回(22282文字 無料 全6回)

第4回からの続きです。

事件と探偵

「ねえ」
突然、外部からの声。見ればいつの間にか香苗が一彰の背後にいた。
「永津子さんなかなか戻ってこないから様子を見に来たの。みんな集まってどうしたの?」
「そういや、掃除の途中だったな」
三蔵の言葉で皆は我に返ったようだった。
「とにかく、今日中に終わらせちまおう。こいつをやっつけなきゃバカンスはないぞ」
永津子が今の体験談を香苗に話しながら部屋に戻っていく。一彰はそれを見送りながら再び床の汚れと格闘しはじめた。
それから十五分ほどが経過した。遅い行軍もなんとか廊下の半ばまでさしかかった。立ちあがって強ばった体を伸ばす。腕も疲れていたが、腰の方にもかなり負担が大きい。
階下から二朗が「うわー、ムカデムカデ」と叫ぶのが聞こえた。三蔵は部屋のドアを開けはなして掃除を続けているようだ。古い歌謡曲の鼻歌が蝉の声に混ざって時折聞こえてくる。あまりうまくはない。
奥のドアが開いた。
「じゃあ、流しは任せて」永津子が出てきた。「すみません」香苗の声。「いいからゆっくり休んでよ。合宿の目的は楽しむことなんだから」腕をまくりながら歩いてくる。一彰を見て人差し指を立てる。
「おいしいビールのために」
その言葉の響きに思わずめまいを感じる。
「今の一言で僕の進むべき道に光が射してきました」
「よっしゃ。大した人生だ」
永津子は力強くうなずいて通り過ぎ、階段を下りていった。
廊下の奥、開かれた扉から香苗が顔を出して一彰を見ていた。
彼女が手を振った。一彰はそれに応じた。
いったん、その手が扉に隠れ、それからゆっくりと上げられる。そこには刃渡り二十センチぐらいのナイフが握られていた。
「なんだ、どうしたんだよ」
彼女は「フフフフ」と低い声で笑って変な表情をする。不気味な笑みというのを作っているつもりらしい。確かにそんなことをやっている姿は十分に不気味に、間抜けに見えた。
「へへへ。びっくりした?このナイフも駅の南でおじいさんから買ったの。ペーパーナイフだから危なくないよ」
「尖っているんだから危険だよ。金属に比べたら人なんて柔らかいから。十分凶器になり得る」
「はーい。気をつけます」
香苗は姿を消し、ドアが音をたてて閉まる。
彼はまた一人になった。
下から二朗の声が聞こえてきた。
「あ、永津子さん、その辺にムカデが逃げ込んだから気をつけて下さいよ。どこ行くんですか?」
「例の小屋。デッキブラシがあったと思うの」
「それと、さっき話していた不思議な現象の手がかり探しですか?」
「あの事件は本当にあったことよ」
「はいはい、そうでしょうね」
「信じてないなー」
「いえ、永津子さんの言うことなら無条件で信用しますよ」
「それもあんまり嬉しくないなあ」
そして声は途絶える。一彰は炊事場で雑巾を絞った。掃除をする前は真っ白だった雑巾がすっかり灰色になって、あっという間に年をとったように見えた。廊下に戻ってひたすらに磨く。蝉の声に合わせて手を動かす。いままでに磨き終えた場所と、これから磨くべき場所の面積を比べて作業にかかる時間を思うと気が滅入った。
廊下を磨く職人としての生き方を考えた。悪くはないが、良くもなさそうだ。苦労の割に儲からなさそうだし、仕事はどこから来るのかわからない。トイレ掃除や窓拭きなどやらずに、ただ廊下を磨くだけの職人。そうなると、大きな清掃会社に雇ってもらわなければならないだろう。そこでも彼のような職人はオートメーション化の煽(あお)りを食らってきっと寂しい思いをするに違いない。
などと下らないことで想像を膨らませて悦にいっているようでは廊下磨き職人よりも社会不適応かも、と気がついた。もちろん、だからといって掃除を続ける以外にどうすることもできない。
ふと、背後に気配を感じて振り返ると、デッキブラシを手に永津子が立っていた。器用にそれを振り回し、怪しげな拳法もどきで一彰に挑んできた。彼も負けじと雑巾をデタラメにかざして、応戦する。十秒ほど戦ってから双方は無言のうちに退く。両方が下手なので、まるで殺陣にならない。彼女はブラシを脇に納める。「いずれまた雌雄を決する時が来ようぞ」「そうであろうな。それまで死ぬなよ」「おぬしもな」「それはそうと、お主頭痛薬を持っておらぬか」「どうしたんですか、突然」「香苗がまた具合悪くなったみたい。わたしは普段から薬飲まない主義なんで持ち歩かないのよ」「僕もです」「困ったなあ。今は部屋で休んでるんだけど……」「デッキブラシ、あったんですね」「例の小屋にね。さっきの恐ろしげな事件の時に見たような気がしてたのよ。ちょっと怖かったけど、大急ぎで取ってきたの。香苗、部屋かな」「さあ、そうだと思いますよ」
途端に、騒々しい音とともに三蔵が部屋から飛び出てきた。永津子を指さしている。
「おいおいおおい」
彼女は一彰を見て、肩をすくめた。
「なに」
「なんでお前ここにいるんだ」
「あたしの勝手でしょ」
「お前ここを通って階段を降りていっただろ?」
「さっきね。小屋にデッキブラシを取りに」
「で、いつ戻ってきた?」
「たったいま。あなたが一人で慌てふためいて部屋からでてくる直前」
「いーや、そんなはずはない。俺はずっと見てたけど、誰も階段を上がってこなかった」
「なに言ってるのよ」
永津子は眉をひそめる。
「だって、俺がずっと見張ってたんだぜ。一彰は廊下で掃除してたんだろ?永津子はこの階段を上がって来なかったよな」
一彰に同意を求める。しかし、彼にはわからなかった。
「ええと、僕は後ろを向いていたので……永津子さんが上がってきたのに気がつきませんでした。見張ってたわけじゃないし、雑巾を絞りにそこの炊事場に行ったりしていたので」
「なんでまた肝心なときに雑巾をしぼるかなあ」
「肝心なときに限って絞りたくなるタチなんです」
と適当なことを言うと三蔵は「それもまた人生だなあ」などと輪をかけて適当な返事。
「はいはい、それはいいから。事件の概略を詳しく話して」
永津子が止める。
「うん。俺はそのときたまたま部屋のベッドに座ってビールを飲みながら休憩してたんだ」
「また休憩ですか」
「いや、それはこの際重要なことではないんだ。で、窓の外を漠然と見ていた。透き通った空の青さは灼熱のこの気温とは独立して涼しい存在だなあというような詩的なことを考えていたんだ。な、俺ってロマンチストだから。そしたら、誰かの足音だ。窓とは反対側にあるドアの外を髪の長い、白っぽい服の人が通りすぎるのを視界の隅でぼんやりと捕らえた。ああ、永津子が通ったんだな、と思った。別に気にも留めなかった。でも次の瞬間に今日俺が作るって約束した夕食のことを思い出したんだ。ニンニクを一袋買ってくるように頼んでおいたけど持ってきてくれたのか確認してなかったからさ。慌ててフォーカスをドアに戻すと、丁度降りていく永津子、いや、俺がそう思っているだけか。とにかく階段を下りていくその人の頭が視界から消えるところだった」
三蔵は階段を指した。大きな身振りで状況を語る彼を見ながら、一彰はともすれば笑みが浮かびそうになるのを堪えた。彼等は三蔵に部屋の前まで導かれて話の続きを聞いた。
「でさ、俺は戻ってくるまで待てばいいと思ったんだ。しょうがないので二本目のビールを開けて、ぼんやりとドアの外を見張っていた。これは実に慎重さを要求される仕事だったね。それこそ瞬きしている間に永津子が通りすぎてしまう危険もあるわけだからな。
一本目のビールがあっという間に空になって、あらかじめ用意してあった予備の缶に手を伸ばす間もドアから視線を外すことは許されない。なかなか戻ってこないなあ、おかしいなあ、と思いながらビールを飲んでいたら、突然永津子の声が廊下で響いて『デッキブラシを小屋まで取りに行ってきた』と説明しているのが聞こえたんだ。で、慌てて様子を見たら、一彰と永津子が立っていたってわけだ。誰も上がってこなかったのに、だぜ。こりゃ、いったいどういうことだ?」
永津子は腰に手を当ててうなずいている。
「話はよーくわかりました」
「なんとも不思議な話だろ?」
「ええ。本当に。でもおかげで細やかな謎は解けたわ。なんであなたの部屋の掃除がなかなか終わらないのか」
「なんだそりゃ」
「ビールの飲みすぎ。以上、証明終わり。メインの行動がビールで、休憩で掃除しているだけじゃない」
「いて、いや、これも心の汚れを落として、いてて、すみませんでした」
三蔵の頬をつねってから永津子が腕を組んで唸る。
「つまり、それがあなたの遭遇したミステリってわけね。ふーん」
「まあな。俺の場合はちゃんと通り過ぎた人を目撃しているからな。おまえのより難解な謎だろ」
「そうかしら。かえって可能性が限定されるんじゃないかな。ちなみに香苗は部屋にいるから、彼女と見間違えたという腰砕けな解答は選べないと思うけど」
「そりゃそうだ。間違いなく俺が見たのは永津子だからな。誰かが解明してくれると嬉しいねえ」
そこで話はお終いらしかった。
「じゃあ、夕食のときに検討しましょう」
「そうだな。あ、ニンニクどうした?」
「後で持っていく」
「サンキュー。じゃあ、とにかく掃除を終了させよう」
「それ、鏡に向かって十回言って」
「いつも見とれて言葉を失うから無理だな」
永津子が炊事場へ、三蔵が部屋へ姿を消した。一彰は一連の出来事を整理し、彼なりに納得のいく結論を出した。もう一つぐらいは何かがおきそうだと思った。
廊下をまた丹念に磨く。そもそも、ここを無理矢理借りた、ということからして真実ではないのかもしれないと考えた。もとよりここを目指していたのではないか。この研究施設を、今年は二朗が苦労して確保したと聞いていたが、それも怪しい。もしかすると、毎年ここで行われているのかもしれない。
香苗のいる部屋の前に来たとき、中から鼻歌が聞こえた。一瞬耳を澄ませたが、すぐに途絶えたので曲もよくわからなかった。そして、それ以上はなにも起こらなかった。事件を心待ちにしている自分に気がついて一彰は一人苦笑した。
それから三十分程で廊下磨きは終了した。
一彰は満足そうに廊下を見渡した。真っ黒になった雑巾をしみじみと広げる。少なくともこの汚れの分だけはきれいになったはずである。
三蔵が大きな袋を抱えて出てきた。
「さあ、うまいもん食わしてやるぞ」
彼は一彰を見て不敵な笑みを浮かべた。そのまま炊事場へ。しばらくして中から「ちょっと、この食材からどんなものができるのよ」などとにぎやかな永津子の声が響き始めると、二朗が階下から「終わった終わった」と言いながら雑巾を持って炊事場へ。「うわっ、これなんですか」一緒に大きな歓声を上げる。
永津子が手を拭きながら出てきて笑いながら一彰に声をかける。
「ちょっと、三蔵君が変なもの持ってきてるのよ。ニンニクとニガウリのカレーですって」
「ニガウリって沖縄の?」
「あ、知ってるんだ。わたし初めて見た。おいしいのかしら」
一彰は己の知っているニガウリに関する知識を総動員した。
「苦いです」
「うわ、苦いカレーって、想像できない」
永津子が笑いながら彼の横に立ち、ドアをノックする。
「香苗、入るわよ」
ノブをひねるが、鍵がかかっているようだ。
「おかしいわね」
一彰は落ち着いていた。念のため自分でノブを確かめる。確かにドアは開かない。
「鍵なんてありましたっけ?」
「うん。横にスライドさせて施錠するやつが取り付けてあったの。けど……どうしたのかしら。気分悪くなって寝ちゃったのかも」
何度かドアを叩く。次第に強く。
「香苗、開けて」
炊事場から二朗がニンニクを手に、三蔵がニガウリを手にして出てきた。
「どうした」
集まってきた彼等に永津子が説明する。
三蔵がドアを叩く。
「朝だぞー。学校に遅刻するぞ~」
しかし、何の返事もなかった。二朗もニンニクを持ったまま首をひねっていた。
「もしかして」と永津子が手を口元に当てた。
「すごく気分が悪くて返事をすることもできないんじゃないかしら」
「非常事態、かな」
三蔵の言葉に永津子がうなずいた。彼は意を決したのかニガウリを二朗に渡す。最後にもう一度ひときわ大きくドアを叩き「香苗、開けるぞ」と言ってから、一彰にノブを軽く掴んでひねっておくように言った。彼は脇へ避けて手だけを伸ばして言われた通りにした。
三蔵が空手のような構えをして呼吸を整えた。次の瞬間、彼は目にも留まらぬ早さで蹴りを放っていた。一彰は手に衝撃を覚えた。ノブは手から離れていた。

開いた反動でまた戻ってくるドア。ぶら下がった鍵の残骸。
三蔵が扉をゆっくりと押しやる。その巨体が邪魔をして、中の様子がよく見えなかった。永津子が最初に部屋の中に入る。しかし、すぐに立ち止まった。
一彰は彼女を押しのけるようにして中へ入った。
目に入ったのは部屋の正面の窓。その向こうに広がる緑の木々と青い空だった。
そして、床に横たわる香苗の体。伸ばされた右手。なにもない空間を掴むように歪んだ指。胸元へ曲げられた左手は、体から突き出ている何かを掴んでいた。
伏せられた顔。表情は見えない。
一彰はとっさに正面の窓を見た。さびついたクレセント錠が掛かっている。かがみ込んでベッドの下を覗く。もちろん、誰も隠れていない。香苗の方は見ないようにした。そうすることが彼女に対する礼儀であると思った。
ざっと部屋の様子を見る。机の上には広げられたノートと万年筆。そこには『部屋の中から悲鳴が聞こえた』という書き出しで始まる十数行に渡る文章が書かれている。彼はノートを手にした。
重要な手掛かり一号、と呟く。
香苗のすぐ横に電源の延長コードが落ちていた。三メートルほどのものか。床にだらしなく延びている。
一彰はうなずきながら「なるほど。密室ですね」と永津子に向かって言う。彼女は呆然としている。
「ほら、窓のところの鍵は錆び付いてるから、相当に力を入れなければ閉まらない。つまり外から糸を使って施錠する、なんてことは不可能でしょう」
「なにを言ってるの?」
半ばあきれた、非難するような口調。実に真に迫っていると一彰は感心した。それとも、彼女には知らされていない、ということも考えられた。
永津子が救いを求めるように三蔵を見た。三蔵は無表情のまま佇んでいる。
「先輩、落ち着いてください。さあ、あまりここにいてもなんですから、とりあえず三蔵さんの部屋に行きましょう」
一彰に先導されるように、皆はぞろぞろとついてきた。
三蔵の部屋に入ると一彰は「ビールを飲みますか」と尋ねた。うなずく者はいなかった。
「そうですか。では、失礼して」
彼は缶を開けて一人で飲み始めた。最初の一口の至福を味わってから缶を机の上に置いて皆を見渡した。
「さて」
彼は三蔵を見た。
「僕が探偵なのでしょう?」

身体を隙間なく包むような蝉の声。
一彰は唯一つの椅子を永津子に勧めた。三蔵が机に、二朗はベッドに腰かけた。
誰も口を開かない。
小さくうなずいてから大きく深呼吸をする。自分が落ち着いていることを確認してから一彰は口を開いた。
「さて、僕がこの島についてからいくつかの不思議な出来事を目撃しました。えー、まず、一つ目は僕だけが直面した三蔵先輩の不可解な消失と出現。二つ目は、これは非常に地味で、皆さんそこにいたにも関わらず、あまり突っ込んで取り上げられなかったのですが、昨日の飲み会のときに起こったビールの空き缶時間差落下事件があります。そして、三つ目が永津子さんが目撃したという人物の消失。四つ目が先程三蔵さんから語られた永津子先輩の廊下出現事件。五つめがついに密室での犯罪です」
言いながら皆の反応を確かめたが、なにもなかった。
しょうがないので、一彰は話を再会する。
「では、最初の事件の概要を説明します。現場となったのはこの部屋でした。廊下に座っていた僕が永津子さんに言われてビールを取りに入ったとき、確かにこの部屋には誰もいませんでした。その後、僕はずっと部屋のドアが見えるところにいました。ところが、ビールを飲み終えた永津子さんがドアをノックすると、さんぞう先輩が出てきたのです」
永津子と三蔵の顔を確認するように見る。三蔵が神妙な顔でうなずく。しかし、微妙にその口元が歪んでいるのを見て、一彰は自分の考えが間違っていないと確信した。
「僕が部屋の中に入ったとき、机あるいはベッドの下に先輩が隠れていたとは思えません。スペースが狭すぎます。そうなると、必然的に出入り口として残るは窓です」彼は窓から身を乗り出した。階下にある事務室の窓のために小さな庇が出ていた。そこに乗って少し横に移動すれば身を隠すことができる。足場は心許ないが、建物の角にあたる部分には上下にパイプが走っており、そこを掴めば楽に立っていることができそうだった。よく見ると、青く塗られた庇には砂埃がうっすらと積もっており、そこには足跡のようなものも残っていた。
「やはり、ここですね。さんぞうさんはこの部分に立っていたんですよ。最初は外から雨樋を伝って登ってくるなんて無理だと思ってましたけど、なんのことはない、もともとこの部屋にいて、ちょっと窓の外へ出て身を隠して、また戻ってくればこのトリックは成立するんです」
「何のために俺はそんなことをするんだ?」
初めて三蔵が口を開いた。もう既に頬はゆるんでいる。
「まあ、それは後で言います……えー、そして次の地味な事件もここで起こりました。昨日の飲み会のときに、先輩がこの窓から缶ビールを落としました。それから数分して、おもむろに外で空き缶が転がる音がしました。その時、さんぞう先輩は冷蔵庫の前で新しいビールを物色しており、窓際には二朗さんがいました。缶が時間をかけてゆっくりと落下したのか、あるいは途中でどこかに引っかかったのか。この庇に偶然に安定して落ちて、その後風で再び落下したということも考えられます。しかし、それにしては最初に『缶が落ちた』とさんぞう先輩が言ったときに何の音も聞こえなかったように記憶しています。それにその前に起こった『消失と出現事件』から考えて、これもまた人為的に生み出された謎ではないかと僕は思いました。だとしたら、答えは簡単です。最初に缶は落ちていなかった。ただ三蔵さんがそう言っただけです。で、次に僕の見ていないところで密かに缶が放り投げられたのです」
一彰は三人を見渡した。二朗が目を丸くしている。三蔵は小さくうなずいた。
永津子だけが何故か不安そうにしている。
「考えてみると、最初の三蔵さんの事件ではタイミングが重要です。僕がいきなり部屋に入っても三蔵さんに隠れる時間はありません。そして、僕が都合よく『出現』を目撃するためにも、これは欠かせない要素です。そこで、どうしても第三者の協力が必要になります」
一彰は永津子を見た。
「そうですよね、永津子さん。あらかじめあなたが打ちあわせておいたんでしょ。大きな声で僕にビールを取りに行かせる。三蔵さんはその声を聞いて窓の外に隠れる。僕がビールを取った後で三蔵さんは部屋に戻り、永津子さんがやってくるのを待つ。あのとき僕が廊下に居なくても、多分部屋にやってきて、うまく僕にビールを取りに行くように話をもっていったに違いありません」
三蔵が「なるほど」とうなずく。
「最初の事件で第三者の協力があったとなると、次の事件でも同様ではないかと考えることができました。つまり、三蔵さんがビールの缶を落とした、と言う。次に二朗さんがおそらくはズボンの後ろにでも挟んでおいたであろうつぶした缶ビールを、頃合いをみはからって後ろ向きのまま放り投げる。誰もことさら騒がないというのも巧みな演出ですよね」
二朗が窓の外を見る。否定とも肯定ともとれない行動だった。
「さあ、その辺りは今朝目が覚めたときにわかっていました。そして、この合宿の性質も理解できたように思います。つまり、これは自分達の思いついたトリックを演じてみせるという目的をもった集まりだったのですね」
「まあ、確かにそうだ」
ついに三蔵が認めた。一彰は内心で快哉を叫んだ。
「発案者が実際に人の前で披露して、そのトリックが実現可能なのか、実用に耐えるかどうかを確かめて、皆で議論し合うってのが始まりだったけどな、いつの間にか新人を脅かすのが一番の目的になっていたと、まあそういう感じだ」
「なるほど。で、次々に事件が起こっても、みんなは不思議がらずに一応の状況説明を聞くわけですね」
三蔵がうなずく。
「一彰は驚く側にいたはずなのに、見事に探偵役となったわけだ。じゃあ、永津子の話した事件はどうだ。実のところ、俺もあのとき初めて聞かされたんだ。あれは純粋に永津子の体験談として語られた事件だからな。『実は嘘でした』ってのも一つの解決だ」
「そんなつまんないことしないわよ」
一彰はうなずいた。
「多分……それはこういうことだと思います。現象を二つに分けると焦点がはっきりすると思います。この事件で一番問題となるのは扉を自動で閉める方法です。その一点だけを取り出せば、これはもうさして難しくもありません。密室ものでは極めて初期の頃からおなじみの『糸による操作』の登場です。犯人は二階の窓からつり糸でも引っ張ってタイミングよく扉を閉じたのでしょう。もちろん、糸はそのまま回収できるようにしておきます。そして、前半部の永津子さんが見たという謎の人影らしきものですが、これも後半がそういうトリックであることから、その人物に可能な方法を考えればいいと思います。つまり、帚のような棒状のものの先になにか丸いものをつけておいて、身を乗り出して建物の角からチラチラと見せてやればよいのです。まあ、それが唯一実行可能なのは、南側に窓を持っている永津子さんと香苗の宿泊している部屋ですけど」
一彰は永津子を見た。彼女は少し笑みを浮かべた。
「そうね。それならあり得るかもしれない」
「で、いま香苗が調子悪いですよね。まあ、僕のせいでもあるんですけど、だとすると、これって、実際には実行されたわけではなくて『目撃された』という証言と『実現可能だろう』というトリックの可能性のみで提示された事件ではないかと思うのですけど……」
それを詳しく説明する前に、三蔵がうなり声を上げる。
「ふーん。すごいなあ。つまり、そこにいない人間を消すということか。なるほど。機械的だが本格的な感じだな。もう少し演出に工夫を入れれば来年使えるな」
早くもそんなことを言っている。
「そういえば、忘れそうになってましたが、三蔵さんが見たという女性の人影の問題があります。これも「それが可能か」という問題にだけ着目すれば「可能である」という結論にたどり着けます。つまり、本当にそれを誰がやったかということではなく、こうすればできる、というだけですけど。まあ、とにかく、その件ですが、まずこの場合は女性らしい人影が目撃されているので、永津子さんが三蔵さんを驚かした『犯人』であるとしましょう。もちろん永津子さんはこのトリックも自分が犯人にされたことも知りません。すべては三蔵さんの頭の中に作り出されたシナリオなのです。
えー、まず探偵である僕は自分しか知らない手掛かりをもっています。三蔵さんが先程小屋の近くの草叢で梯子を見つけて一人でニヤニヤしていた、というのがそれです。そのときに彼はこの事件の着想を得たと思われます。つまり、起こったとされる事柄の経過はこうです。
永津子さんはその姿を三蔵さんに目撃されるように階段を下ります。次に急いで建物の西側に回り込んで、用意しておいた梯子を使って二階の窓から僕と二朗さんの部屋に戻ります。いや、本当は永津子さんの部屋でもいいのですが、あの時は僕がその辺りにいましたから、もし利用したとなると、無人の真中の部屋になるわけです。そして、なにくわぬ顔で僕の背後に立てばいいのです。まあ、実に単純ですが、実際にこれが目の前で行われたら、その衝撃はかなりのものでしょうね」
しかし、永津子は苦笑した。
「なんだか都合のいいトリックよね。わたしが三蔵君の前を通りかかった時に彼が見ているかどうか確信が持てないし、窓から部屋に入ろうとしているところを見られるかもしれないし、一彰君と二朗君の部屋にだって誰かがいる可能性が高いし。第一、本当のミステリでそんなネタをやられたらさぞかし読者は憤慨するでしょうね。少なくともわたしは納得しかねるわね」
その手厳しい、というかあきれ顔の感想に三蔵が肩をすくめる。
「いや、まあ、なんだ。実はな、本当に見たんだよ。永津子を。ほら、考えてもみろよ、この事件の犯人がすなわち単独実行犯である可能性もあるだろ。つまり、しょうもないトリックを彼女が思いついて、実演して、俺がたまたまそれを目撃した、ということも考えられる。だから俺は見たままのことを言っているにすぎない、ということもあり得るわけだ。な?そうでないという証拠はどこにもない。つまり、俺こそが真の被害者だってこと。あー、つまらんトリックに騙された。実に悔しい。口惜しい」
「なに言っているのよ。あたしがそんな間抜けなことするわけないじゃない」
「いーや、わからんぞ。おかしな人間消失を目撃するくらいだからな」
「どこがおかしいのよ。あんたがそういうのなら、わたしの証言した事件だって本当に目撃したことかもしれないじゃない。しょうもないトリックを思いついては実行しなければ気がすまないおかしな人がいるかもしれませんからね。現に一彰君をびっくりさせようとして窓の外にへばりついていたんじゃない」「いや、俺はそんなことをしていないぞ」「じゃあ、どうして部屋の中から消えたのよ」「言っただろ。証言が本当かどうか証明はできないって。そんな事件はなかった。ありゃ、そもそも一彰のしょうもない作り話だ」
思わず一彰は苦笑した。
もちろん、半ばふざけあっての諍(いさか)いではあるのだが、三蔵はついに憤慨したように鼻の穴を膨らませて「いーや、俺は本当に降りていく永津子を見た。目撃した。たばかられた。もてあそばれた」と断言した。一瞬永津子が吹き出しそうになって「じゃあ、あたしだって小屋に行くときに人影を見ましたー。実のところ、ちゃんと歩いている後ろ姿を見たわ。あれは間違いなく人間よ。ホウキの先になにかつけて振りまわしたんじゃなくてね。で、後を追いかけていったら小屋に入って姿を消したの。あの背格好はどう考えても二朗君だったわ。そうなんでしょ」
突然名を呼ばれた二朗は驚いて自分を指差す。もはやどこに論争の焦点があるのかも定かではなくなっていたが、三蔵が手を上げて一彰を見た。「いまの証人の発言に異議があります。一番重要な部分をいきなり変更してしまうような目撃証言は到底信用できません」「いま思い出したんだもん」「証人は答えられたことにだけ答えるように」「あんた検察側の弁護士か判事か役を固定しなさいよ」「田舎のおふくろさんと連絡ついたぞ。カツ丼でも食うか?」などとしばらく不毛な争いが続く。一彰は肩をすくめて二朗を見た。あまりに息のあった二人の呼吸に、彼は複雑な表情を浮かべていたが、しぶしぶといった感じで口を挟んだ。
「まあ、まあ、二人とも落ち着いてくださいよ」
一彰にしか見せ場がないためか、少々不満そうにニンニクをボールのようにもてあそんでいた二朗であるが、場をなんとかまとめようとしているらしい。
「まあ、それらの事件はよしとしましょう。いまの名探偵一彰の解明で一通り説明がついたということで。それよりもいま見たばかりの香苗のトリックはどうです?はっきり言って俺には皆目見当がつかない。窓は完全に閉まっていたし、ドアの鍵もしっかり閉まってた」
考えるべき新しい強固な謎があることを思い出したのか、永津子と三蔵はあっさりと黙った。
一彰はその様子を見てうなずいた。
「部屋の様子は僕も確認しました。まあ、ドアの鍵はちょっと疑問ですが、糸を使って鍵をかけたというのはないでしょう。先ほどのドアはともかく、鍵をかけるのにいまさら糸はダメだと思います。たとえ可能でもダメです。まあ、これは個人的なアレなんで、それほど主張はしませんが……とにかく、他に隠れるような場所も見当たらない。彼女の横にこれ見よがしに電源コードが落ちていましたが、どうも嘘っぽいですし。いまのところちょっと見当もつかない状態です。ただ、彼女が殺された役であるなら、誰かが犯人役だと思うので、その人が手掛かりを示してくれるのではないかと思っているのですが……」
一彰は皆を見たが、名乗りを上げる人はいないようだった。
「彼女は僕と同じく新人なのに、どうしてまた謎を提示する方に回ったんですかね」
その問いにも反応がなかったらどうしようかと一瞬思ったが、三蔵が口を開いた。
「もちろん、我々は彼女も驚かされる側に予定したんだが、出発する一週間ぐらい前に俺に言ってきたんだよ『密室のトリックを思いついたけど、実際問題こんなことで人がだませるものか、全然自信がない』って。そこでこの合宿でたくらんでいることを話したら、乗ってきた。自分が密室の謎を演じるので、みんなが解いてみないかと。だから一彰はもちろん、永津子にも二朗にも知らせてなかった。これは彼女が我々全員に対して提出したミステリだ。ただ……」
言い淀む。
「俺が最初に相談を受けたときに聞いていたのとは状況が違っているようだ。改良したのだと思うけど。俺も純粋に謎解きがしたかったのでトリックまでは聞かなかったんだが、いまの時点ではまったくわからない」
皆はしばらく黙り込んだ。一彰は扉を何度か見た。そろそろ香苗が被害者の役を終えて顔を出すのではないかと思った。悩んでいる部員を見て得意気な笑みを浮かべるだろうと。
永津子が力を抜いたように足を伸ばした。
「なんだ。三蔵君は知ってたんだ。わたし、あの扉に鍵が掛かっていた瞬間から最悪の事態を想像しちゃった。だってさ、ミステリだったら絶対に中の人は無事ではないってパターンじゃない」
三蔵が苦笑する。
「一彰はともかく、お前までそんなふうに思うなんて変じゃないか。この合宿で『密室らしいぞ』なんてことになったら香苗がなにかのトリックを仕掛けたと思うだろ」
「まあね。ここについてすぐに香苗があの錠前をねじ回しでつけたのよ。わざわざそんなものを持ってくるなんて、用心深い子だなあ、って思ってたんだけど、彼女は『理由は後でわかります』としか言わなかったの。だから、わたしも最初はそういう類のことだと思ったわよ。でも、そのシチュエイションでなおかつ本当に香苗の身に何かが起こるってのがミステリのお約束じゃない。ほら、ミステリツアーでの殺人事件ね。だから、部屋の状況を見たときは本当に恐かった。だって香苗の体がぜんぜん動かないんだもの」
「確かに、かなり真に迫っていた」
「でしょ」
「けど」二朗が腕を組む。「血はそんなに出てなかったようですな。少なくとも床に広がったりはしていなかった。えーと、彼女の右の胸元に多分ナイフのようなものが刺さってて、その柄を左手で握りしめていました。まあ、うつぶせに近い姿勢だったので、あまり観察はできませんでしたが」
その名探偵然とした口調に永津子が歓声をあげる。二朗は右手でそれを制する仕草をする。
「まあ、我が輩も二度目の参加ですからな。驚いた振りをしつつ、あちこち見ていたわけでござる。ありゃ、名探偵をやろうとしたけど口調が変だな。えー、であるからして、まあ、刃渡りはわかりませんが、自力ではナイフを根元まで刺せないだろう、という状況なのだと思います。つまり自殺ではないというメッセージがあの死体には込められているのではないかと思います。そして、ライバル探偵の一彰も指摘した通り、窓からの出入りもまず不可能。となると、やはり残るは我々が打ち破ったドアしか考えられない。あの鍵を外から糸で施錠した、というのが一番現実的な答えだと思うけど、まさかそんなつまらない手は使わないだろうし……いや、でもその可能性が否定されない限りはそれが真相でも構わないわけだ」
場はにわかに二朗の独壇場となった。
「もし、俺ならその下らないトリックの可能性を排除するために、例えばその鍵を接着剤で動かないようにしておくとかするけどな。まあ、接着剤ってのもスマートとは言えないけど、より素晴らしい真相のためなら全然構わないだろ。そもそも……」
いきなり、二朗は黙り込んだ。目は虚空を見ている。
「どうしたんだ?」
三蔵が不思議そうに尋ねる。二朗は我に返る。
「いや、もしかして、本当に鍵がそんな状態になっていたらどうしようかと思って。誰も壊れたあの部屋の鍵がそんな状態かどうか調べてない。ほら、鍵がかかっていると見せかけて、別の手段でドアを固定していたのかもしれないじゃないですか。これは重要なことですよね。確認しなきゃなあ。まあ、早い話が香苗自身に聞けばいいんですけどね。外から鍵を掛けられるのかどうかって」
「おお、そうか。もういつまでも死んでいる必要はないと彼女に言ってやらないと」
三蔵の言葉を聞きながら一彰はふと思い当たった。
「もしかして、被害者自身に重要な手掛かりが残っているんじゃないですか?だから彼女としてはそれを発見してもらうまでは動けないと」
三蔵が笑う。
「そうか。中国のオレンジの例もあるしな。ろくに調べもせずにこっちの部屋に来てしまったのはよくなかったかも」
先ほどは一彰が進んで皆を退出させた。
それは香苗が事件を演じていると思ったからだった。いつまでも死体の役を演じているのは辛いだろうと案じてのことだった。その気遣いも、後で笑い話のネタになると思っていた。

一彰を先頭に、皆がぞろぞろと廊下へ出た。
「また鍵が閉まってたりして」
二朗がふざけた口調で言うと永津子が「どういうトリック?」と尋ねる。「もちろん死体が休みたいから、自分で閉めたんですよ」一彰はそのやりとりを聞きながら、こういう企画のためにこの旅行が行われたということが、実に爽快に思えてきた。
扉を開ける前に三蔵がドアを叩く。
「現場検証に来ました。準備してください。死んでいる人はちゃんと持ち場に戻って」
その台詞に、永津子が笑う。十秒ほど待って扉は開けられた。

同じような光景が広がる。
切り取られた光景が貼りついた窓。
床に横たわる香苗。
床の上に伸びている電源コード。
蝉の声。
しばらく、誰もが口を開かなかった。
一彰の視線は床に横たわる彼女を捕らえる。そして、ふと心に浮かんだ疑念を忌避(きひ)するようにさまよい、二朗が問題とした鍵へと向けられた。
その状態を調べる。接着剤もなにもついていない、ネジも鍵本体も確かに真新しい。二朗が隣で唸っている。「これなら外から操作できそうだな」とつぶやく。
「ねえ」
ためらい。躊躇。逡巡。入り混じる感情。怖れ。
「なんかおかしくない?」
永津子が言うまでもなく、おそらくは全員が思っていたであろうこと。ただ、それを口にするのを避けていたのだ。
所在なく放置された電源コード。
当てもなく脈動する蝉の声。
言葉を発せず床に横たわる香苗。
そのどれもが、ずっと変わらない。
状況に変化は訪れない。
不自然な姿勢で伸ばされた腕もその指先も。
凍りついたように止まったままだった。
永津子がゆっくりと香苗に近寄る。まるで映画の回想シーンだと一彰は思った。世界の音が遠くなり、目の前の奇妙な光景が現実になる。肩に伸ばされる永津子の手。込められる力。
バランスを崩してゆっくりと転がる香苗。
開いたままの目。
一彰に向けられた、どこも見ていない視線。
永津子が悲鳴を上げる。何か違う世界が始まったことを告げる合図。
蝉の声。
顔を覆う永津子。その肩を守るように抱く三蔵。ニンニクを持ったまま後退(あとずさ)る二朗。
一彰は何が起こったのかよくわからなかった。
香苗が動けなくなっていると、漠然と思った。
右の胸に刺さっているのは、先ほど嬉しそうに見せたペーパーナイフなのだろう。彼女によく似合っていた桃色のTシャツがその周りだけわずかに赤い。そんなに少ない出血なのだから、やはりこれは演技なのだろうと思った。だとすると、瞬きをすっかり止めているのは驚くべきことだった。あんなに目を大きく見開いたままでは眼球が乾いてしょうがないだろう。
「すっかりだまされるところだった」
彼はつぶやいて香苗に近寄る。ゆっくりと手を伸ばす。用心する必要があった。いつ彼女が飛び起きて「ひっかかった!」と言うかわからないからだ。
不自然に曲げられた指。
頬に触れた。
彼女は飛び起きなかった。
床のように冷たかった。温度を奪われそうだった。
疑問が膨らんでいく。
どうしたら、こんな演技ができるのか。
「これじゃあ、まるで……」
死人だ。その言葉が口にのぼる前に彼は理解した。
これは演技ではないと。

三蔵の部屋で、皆は黙り込んでいた。
「ビール……飲むか?」
三蔵の言葉に、誰もうなずかなかった。
彼は一人で缶を開けると「何が起こったのかまるでわからないが、香苗の冥福を祈って」と手を合わせるような仕草をした。
静かに飲み始める。その喉元を、一彰は見ていた。
彼が飲んでいる間、誰も言葉を発することはなかった。
三蔵が缶を机の上に置いた。その音からすると、空になったようだ。
「さて」
彼は皆を見渡した。
「彼女がなぜあんなことになったのか、考えよう。もしここに犯人がいるなら、それを俺達が突き止めなきゃならない」

「まず、考えられるのは自殺だということだ」
感情を抑えたような、奇妙に低い三蔵の声が皆の耳に届く。
「見たところ二つの窓は閉まっていて、錆び付いた鍵もきっちりかかっていた。おまけに二階だ。外から糸や紐を使って、というような鍵の掛け方もまず無理だろう。そして、あのドアにも鍵がかかっていた。必然的に導かれる論理は、あの部屋からは誰も出ていない、ということだ。だとすると、自殺という可能性が残る」
皆はうなずく。それが一番妥当な結論。安心できる帰結。それ以外の解答は、あり得なかった。
許されなかった。
「誰か、なにか手掛かりになりそうなことを知らないか?」
一彰は口を開いた。
「あれはペーパーナイフです。香苗に見せてもらいました」
部屋の空気が変わる。一彰はぼんやりと天井を見上げた。
「刃渡りは?」
「これぐらいです」
問われるままに一彰は左右の手を十五センチぐらいに広げた。
「そうか……」
三蔵の口調は苦しそうだった。
「だとしたら、自殺の線は薄くなる。二朗も言っていたが、つまり、それだけ長い刃を自分で刺せるかということだ。しかもペーパーナイフだ。切れ味は鋭くないだろう。当然、それを根元まで刺すとなるとかなりの力が必要となる」
「それって、どういうこと」
「誰かが、刺したのではないか、という考えになる」
その言葉を一彰は遠くで聞いていた。香苗といっしょに昨晩ここで話した事柄を思い出していた。その姿も声もはっきりと覚えている。
「でも、それは無理よ。だって、部屋に鍵が掛かっていたじゃない」
「そこになんらかのトリックがあったんだ」
「どんな?」
「それはわからないが……もともと俺が聞いていた話ではまるで違うシチュエイションだった。いいか、ここに彼女の残した筋書きがある」
彼はその短い文章を読んで聞かせた。それは一彰が証拠その一として集めたもので、密室の発見時の状況を書いたものだった。
「つまり、彼女は手を縛られた状態で発見されるはずだったんだ。もちろん、殺されてもいない。ただ単にどうやって彼女を縛った犯人は部屋から姿を消したか、という問題になる予定だった」
「……それって、あたしが一番怪しいわね。同室だし、鍵をかけた部屋から出るトリックだって誰よりも長い時間をかけて準備できるもの。彼女がやろうとしていることを相談されて、それを利用して殺害を企てる。ちょっと遅れてナイフが飛び出すような罠を仕掛けておいて、一彰君が見ている前で部屋を出ればアリバイ成立だし」
言ってから彼女は口を押さえた。思っていた以上に、自分が危うい立場にいると気がついたのか。
二朗がやや焦った口調で割り込んでくる。
「ちょっと待ってくださいよ。ナイフがそんな勢いで飛び出してくるような都合のいい仕掛けがあの部屋にあったとは思えない。そもそも最後に生きている香苗を見たのは誰なんだ?」
一彰は手を挙げた。
「永津子さんがデッキブラシを取りに小屋に行くとき、部屋から彼女が顔を出しているのを見ました。その後はずっと僕があの廊下にいました。誰も出てこなかったし、誰も入りませんでした」
「なんてこった……」
三蔵はそういったまま絶句した。
二朗は腕を組む。
「となると、まあ、純粋に状況だけを見ると怪しいのは一彰だけど、わざわざそんな自分を追いつめるようなシチュエイションでそんなことをするとは思えない」
その語尾が震えて、声がうわずっていた。一彰は二朗を見た。二朗は泣いていた。なんだ、普通にいい人なのかもしれない、とぼんやり思った。
「だいたいこんなことがあっていいはずがないだろ。ミステリが好きな奴ならわかってるはずだ。純粋なエンターテイメントであるからこそ、その世界は美しいんだ」
しばらくの沈黙。
「まてよ」
三蔵が顔を上げた。
「シナリオと現実との違いが大きすぎると思わないか?本来なら、まず、部屋から悲鳴が聞こえる。ドアには鍵が掛かっており、かけつけた人々は部屋の中で机などが倒れる音を聞く。ドアを打ち破ると、彼女は鍵の掛かった部屋で柱かベッドにしばりつけられている。おまけに両手をコードで縛られているというありさまで発見される」
永津子が「確かにぜんぜん違うけど」とつぶやいた。
「そうなんだ。彼女の筋書きは大きく変更され、なぜだか知らないが、結果としてあんなことになってしまった」
「きっともっと優れたトリックを思いついたのね」
「そうとは限らないんじゃないですかね」
二朗が口を挟む。普段のにぎやかな口調とうって変わった静かな態度は、何か毅然としたものを感じさせた。
「どういう意味?」
「彼女が三蔵さんに話して聞かせた台本はそのままだったとも考えられます。そして、そのトリックが解明できれば、彼女の行動の意味がわかるのではないでしょうか」
「台本はそのままだとするその根拠は?」
今度は三蔵が質問する。二朗は間断なく答えた。
「電源コードです。元々のシチュエイションなら、彼女は紐で縛られて固定されており、なおかつ手をコードで括られている状態で発見されるはずだった。これはつまり、外部にいる人間が聞いたはずの『争うようなもの音』をたてていたのが被害者ではないという状況を作り出します。犯人は密閉された空間から姿を消したという不思議な現象は、縛られている彼女が身動きできたはずはないという一点にかかっているのです」
「そうか、つまり、中で暴れている、という第三者の存在を作り出すための演出なんだな」
「多分そうでしょう」
「ってことは、被害者が本当は縛られていないのに、そういったふりをするつもりだったのか」
「それはいくらなんでも縛られ方を見ればすぐにばれるから、そんなことはないと思います。そもそも彼女がこれを演じる予定だったこの島には我々しかいないのです。純粋にトリックとしての架空の話をするのではなく、実際に演じてみせるのですから、我々としては彼女が一人でやったことなのだと想像はつく。その上でなおかつトリックを見破ってみろということなのでしょう。だから、きっと本当に手足は縛られ、スチームパイプに固定され、紐やコードの結び目はきっちりしていたと思いますよ」
「じゃあ、どうやってそんなことが可能なんだ?いや、待てよ、そうか。簡単なことだ。自分の体の傍に倒れやすい棚でも置いておけばそれもできないことはない。あらかじめいくつかのものは倒しておけば視覚効果も増す。その上で自分を縛り上げ、固定する。悲鳴を上げてみんながドアの向こうに集まったところで、体を動かして棚を倒せばいいんだ。縛られているから大きくは動けないが、それぐらいはできるだろう。上にコップとか皿とか割れるものを置いておけば、にぎやかに音を立ててさらにそれらしくなる」
永津子が息を飲む。
「三蔵君、すごい。きっとそうだよ。単純だけど効果的だわ」
「まあ、実際のところそんなトリックだったと思います」と二朗がうなずく。
一彰はその様子を見ながら、探偵というものはいったいいつ真相に気がつくのだろうかと考えていた。まるで、二朗の口調は何もかも知っていると言わんばかりである。この中に彼女をあのような目に合わせた犯人がいると告発する瞬間が、まもなく来るのだろうか。
彼女の言葉をふと思い出した。
探偵は魔法使い。
「でも、彼女はもう少し工夫を凝らしたと思います。彼女の書いたシナリオと、あの現場の両方に登場しているものがありますよね」
永津子が息を飲んだ。
「電源コードね」
「そうです。僕は彼女のシナリオを聞いたときに、なぜ体は荷造りの紐で縛られているのに、手は電源コードなんだろうと思っていました。そしていま見た現場にも電源コードが投げ出してありました。それが何らかの意味を持つのではないかと考えました」
「荷造りの紐と電源コードでなにが違うんだ?縛りにくいだけじゃないのか?」
二朗が口元で小さく笑うのを一彰は見た。しかし、それは決して謎を解き明かした満足感ではないようだった。本来、この謎解きは香苗がいて初めて楽しめるものだった。
「電源コードはコンセントに挿すことができます」
三蔵が唸った。
「そうか。そういうことか」
「つまり最初に長い電源コードの片端をコンセントに挿しておきます。コンセントに沿って倒すのに都合のいいものを並べておきます。そして、反対側を自分の手元に伸ばしておいて、体をスチームパイプに縛りつけます。次にコンセントで自分の手を縛って終わりです。後は悲鳴をあげて、廊下の向こうに人が集まってきたら縛られた手を左右に振って、仕掛けておいたいろんなものを倒せばいいのです。この方がさまざまな物音を立てることができますし、それだけ架空の犯人の存在を強調できます」
「なるほど」
「一通り作業が終了したら、電源コードを引っ張ります。すると、コンセントからコードは抜けて、自分の方へ転がってきます。こうすることで、縛られた状態で物を倒すために使った道具の存在を消すことができる」
しばらく皆はその様子を思い描いているようだった。
「そこまでは、そうなのかもしれん。いまとなっては確認することもできないが。しかし、どうしてその計画が現実にはあのような事態になったのか。いや、まて、二朗はわかってるのか?」
二朗がうなずくのを見て、三蔵は手で制した。
「いいか、迂闊に人を殺人者呼ばわりしちゃいけないぞ。もちろん俺達はミステリの愛好家だから、純粋な可能性の議論には慣れている。しかし、これは現実に起こった事件の話だ」
「わかってますよ。先輩」
いつもの陽気な二朗に戻ったような口調だった。
「さて、彼女はそのようなトリックを考えてきました。なぜそこまで僕が断定できるのか。それはあの部屋の状況から逆算していったからです。いや、正確には状況と、彼女のシナリオからと、両側からのアプローチです。いくつもの仮説による橋渡しで一番距離の近いものを選び出して、そこに解決を見い出します。彼女があんなことを考えたから、あの部屋はあのような状況になったのです」
「よくわからないわ」
「まず、計画を実行に移さなければなりません。頭の中でトリックとして完成していても、それを実際にやってみるとなると、様々な要因に不安がでてくるものです。彼女があのときに確かめようとしていたのはコンセントからコードを抜くのにどの程度の力が必要かということでしょう。あまり緩いと机や椅子などを倒す前に抜けてしまいます。そうなっては事件の肝心な部分が成立しませんから、絶対にテストしておく必要がありました。皆が掃除をして、部屋に一人になった瞬間こそがテストをする絶好の機会です」
いよいよ事件の核心に近づいているようだが、一彰はそれをどこか遠いところで起こっている出来事のように感じた。先程まで自分が探偵役だったはずなのに、いまは二朗になっている。それではいけないような気がした。
「まあ、コンセントに繋いだコードを何度か振りまわして、テストを終えたのでしょう。あとは実行あるのみです。それにはおそらく夕食の後ぐらいをねらっていたと思いますが、これももう確かめるすべはありません。とにかく、ひとまずは永津子さんの目にも触れないように片付けておく必要がありました。そのとき、彼女がナイフを持っていたことが、返す返すも残念でなりません。おそらく、倒すものの位置、小道具などをどう演出に使うか考えていたのでしょう。現場にこれみよがしに置いてあるナイフというのは、魅惑的なアイテムですし、真相から目を逸らすミスディレクションにもなります。彼女は左手にナイフを持ってしゃがみ込み、右手でコンセントからプラグを抜こうとします。そして、多分、長年使われていないコンセントからプラグが抜きにくかったのでしょう。不用意に端子部分に触れてしまい、感電したのです」
部屋の中は静まりかえっていた。蝉の声だけが時間の経過を告げていた。
「でも、それだと、彼女は感電しただけでしょ?もしなにかあるとしたら心臓麻痺とかじゃないの。ナイフは……」
「人間の身体を動かしているのは筋肉です。筋肉を動かしているのは神経です。神経というのは脳からの命令を微弱な電流によって伝えています。『感電した人が電源に触れたままの状態で硬直してしまう』というのは強力な電気によって、身体が思うように動かせないためです。この時、側にいる人は身体を張って体当たりをして、電源から事故にあった人を遠ざけなければなりません。下手にその人に触れると、助けようとした人間も同じように動けなくなることがあるそうです。これと同じように『感電した人が部屋の反対側にまで飛ばされる』というものがあります。筋肉が自分の意志とは関係なく、強力な電流による刺激を受け、凄まじい力で動く結果なのです」
「つまり、それが……」永津子の言葉は途中で途切れた。
「ええ。それが真相です。彼女はナイフを持って感電し、近くの壁に激しくぶつかったのでしょう。その時の姿勢や勢いなど本人には制御できるものではありません。ナイフを持ったまま何かに激突した彼女は、運悪く自分自身を刺してしまったのです」
蝉の鳴き声が、部屋に広がる沈黙をより際立たせていた。
その中に彼女の声が聞こえたような気がして、一彰は顔を上げた。
さあ、どうだ。謎は全て解かれた。もうこの事件は終わりだ。悪いけど、僕は探偵にはなれなかった。
部屋の中を見渡す。
誰もが悲しい顔をしていた。
そのことが、奇妙に思えた。
なによりも期待していたのは、香苗の登場だった。
彼女がここに出てきて「思ったより早く謎が解かれちゃった。一生懸命考えたのに」と拗ねた表情で言う。でも、二郎に謎を解かれたのでまんざらでもなさそう。そんな光景が容易に想像できる。
一彰は自分が何かを握りしめていることに気がついた。それは彼女が嬉しそうに見せたピンクの時計だった。秒針は止まっている。
何故これを持っているんだろうか。
それをさっき彼女の腕からはずしたことを思い出した。
そのときの光景を思い出した。
窓の向こうの緑と青と、床に反射して目を射る陽光。
横たわる彼女の見開いた目。
止まったままの針。
死者の目は過去しか見ることはできない。
顔を上げると、同じ姿勢で皆は座っていた。強烈な外光で、まるで黒く浮かびあがったシルエットのような人影だった。
止まってしまったように、身動きもしない。
耳を澄ますと、蝉の声に混じって永津子の泣き声が聞こえてきたような気がした。
あるいはそれは自分の声だったのかもしれない。

三蔵のカレー作りは中断された。
夕食は永津子が一人で作った焼きそばだった。他にもいろいろ材料を持ってきていたのだが、ここで手の込んだものを作る気力は誰にも残っていなかった。
ソースかけすぎちゃった、という彼女に、味のことで文句を言うものは誰もいなかった。
「さっき、110番した」
三蔵が言った。
「あと一時間ぐらいで海上保安庁だかどこだかの船が来るらしい。運良く、医者も同行しているそうだ。もちろん、手遅れだけどな……ミステリなら、このまま次々に事件が起こるところだろうけど」
一彰はずっと黙ったまま、機械的にフォークを動かしていた。
三蔵は冷蔵庫を開ける。誰にも聞かずに、自分の分だけビールを取り出した。
「余っちまうけど、しょうがないな。もうじき研究のためにここに来るっていう学生へのプレゼントだ。みんな、三十分後に荷物をまとめて玄関前に集合してくれ」

部屋の中で、一彰は黙々と片付けをした。二朗も口をきかなかった。
まとめるものもほとんどなかった。髭反りはまだ鞄から出してもいなかった。
開いたままのドアがノックされた。永津子が立っていた。すでに荷物はまとめたようだ。
「あの部屋に居られなくて」
と、入ってきた。二朗が弱々しく笑う。彼女が加わったことで、ますます部屋の中は静かになった。
鞄を手に辺りをざっと見渡して二朗がうなずく。彼の後について一彰は部屋を出た。振り返ることもなかった。
何かが足りないような気がした。

すでに三蔵が待っていた。彼は空を見上げ、煙草を咥えたまま随分長い間動かなかった。
「忘れ物はないか」
唐突に、そう言い、皆の顔を見て「行こう」と歩き出した。二朗、永津子がその後に続く。
誰もがずいぶんと寂しげな背中で、打ちひしがれているように見えた。
昨日、ここに来たときからなにもかもが変わってしまったことに愕然とした。
何かがひどく間違っている。
一彰はポケットに手をやり、香苗の腕時計を出した。
駅の裏の路地で怪しげな老人から買ったという、正しい時間を指さない時計。
それは15時12分で止まっていた。
一彰はしばらくその文字盤を見つめた。
「買った時からすぐに止まるの」
香苗の言葉がよみがえる。
頭に血が上ったように、熱くなった。
いろいろな記憶が奔流となって沸きかえる。
部屋に突然現れた三蔵。
ゆっくりと落ちていくビールの缶。
小屋の中で消えたという人影。
突然廊下に現れた永津子。
見開いたままの香苗の瞳。
「……そうだったのか」
一彰はきびすを返して、建物へと向かって走る。気がついた永津子が何か叫んだが、彼は足を止めなかった。
ついにわかった。
彼は確信した。
すべての謎を解き明かす方法。
事件を根本的に解決する方法がわかったのだ。

狭い建物。扉を開けて覗き込む暗い廊下。
蝉の声。
二階へと上がる階段。床で照り返す光が天井で波のように揺れる。
響く足音。
三蔵の部屋の前。彼と二朗の部屋の前。
そして、永津子と香苗の部屋の前までたどり着く。
ノブを回す。
扉を開く。
中へ滑り込む。
まだ彼女は床に横たわっていた。
窓は開け放たれていた。
机の上を見る。
彼女が嬉しそうに持ち歩いていたピンクのカメラが、場違いな華やかさでそこにあった。

最終回に続きます(2019/04/13公開予定)

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