コロナ禍で存在を消された私たち 生きた(新型コロナ感染疑い者)

偽陰性組
発症月:2020年4月
ペンネーム:一吾
居住地:関東

■1.序文

真夏の夜のことだった。
熱帯夜のはずなのに、体は身震いがして寒かった。
自分は、誰もいない東屋にいて、そこにあるベンチに腰をかけるのではなく、ベンチの上に置いた踏み台の上に立っていた。
首には輪状にした縄をかけていた。

「これで楽になれる」
あとは、踏み台を蹴るだけだった。

目の前には、自分が通った小学校があった。
いろんな思い出が走馬灯のように蘇っていた。

これから、自分は死ぬんだ。

それは、感染疑いからおよそ4か月後のある日の夜のことだった。

でも、今、こうして当時のことを書いている。
そう、自分は生きた。
死に損ねたのか、生きながらえたのか、生き延びてしまったのか、生きれたのか、正直、今も答えは分からない。

■2.以前

【2019.11】
父親が白血病になった。何もしなかったら余命1か月だそうだ。
驚きはあったが、それ程慌ててはいなかった。
それというのも、10年以上前にも癌を患い、その後生きていたのは奇跡だと思っていたし、やっぱりダメだったか、という感じで案外冷静だった。

父親と私はあまり仲が良くなかった。仲が、というか、私が一方的に毛嫌いしていた感じだった。
父親のやることなすことが気に入らなかった。なんか父親の独特の世界観が気に入らなかった。

父親は入院と通院をすることになった。
父親への心配はもちろんあったが、地元は雪も降るし、付添をすることになる母親の負担をできるだけ軽くしてあげたい、という気持ちの方が強かった。
母親は、普段は天真爛漫であるが、疲れが溜まったり、頑張りすぎていることに気付かず、ひと段落着いて気が緩んだ時に体調を崩すことがよくあった。

そこで、通院日の金曜と週明けの月曜を有休にして、毎週末帰省することにした。
年も明けて、既に地元でも少しずつ新型コロナの患者が出ていた。

最初の1件目がクラスターになり、きっかけの一人の行動をやたら追っかけるものなんだな、とか、こんな感じで世間に見せしめされるんだな

なんて思うことはあっても自分は気を付けているという自覚からどこか他人事な感じだった。
それと、SARSの時のように一部での感染で止まるのだろうという楽観から、治療中の待ち時間に母親と喫茶店でお茶をしたり、ドラッグストアに行ってマスクをかき集めて自己満足にふけったり、本当の意味での危機感は感じてはいなかった。

父親は孫たちを可愛がってくれた。
父親は息子の野球を見に行くのを楽しみにしていたようだったが、私は父親に来てほしくなくて試合の日程を教えていなかった。息子に聞いていたようだが、道にそれ程詳しくもなく、あまり来れていなかった。可愛がってくれているのに自分はそんな酷いことをしていた。

当時中学3年の娘は、春になったら卒業式、高校の入試と発表、高校の入学式が待っていた。

もちろん、父親のことを心底嫌いなわけではなく、父親との思い出は数え切れない程多かった。
後悔しても時すでに遅しではあったが、でも、死んでしまう前に、少しでも恩返し、いや、罪への償いがしたいという気持ちになっていた。

だから、春になるまでは何とか生きてほしかった。春になったら雪が融けて再開する息子の試合も見に連れていきたい。娘の晴れ姿も見せてあげたい。

3月末の通院日、父親が話をしたいと言ってきて、病院の駐車場に停めた車の中で50分話した。
私への遺言だった。
冒頭に「わたし(父は自分のことをこう言っていた)に対して最近色々してくれる姿を見て、おまえを見直しているんだよ」と言われた。

見直す、、、自分がしてきた親不孝は父親には伝わってしまっていた。
もう遅いかもしれない。でも、最後の1日まで、最大限の親孝行をしようと決めた。

それなのに、
父親への償い、母親に対する思い、それらがこの後、父親の寿命、家族の体調、自分の人生を狂わせることになるとまでは、この時には思いもしていなかった。

■3.感染

【2020.4.初旬某日1】
当日から単身赴任先では緊急事態宣言が発令されていた。
地元では中学校の部活は中止となっていた。
でも、その前の週に、息子の小学校時代の監督に練習を付き合ってもらって、練習だけど野球をやっている息子の姿を父親に見せることはできていた。喜んでくれた。

また今週も見せてあげようと監督に練習付き合いのLINEを送ったところ、

「緊急事態になってるんですよね?
 こんな時に帰ってくるんですか?」

と少し冷たく感じる返信があった。
父親への思いが強すぎて、私は帰ることばかり考えていた。コロナの怖さをわかっていなかった。自分の認識が甘かった。

夕方、バス会社から「翌週から高速バス運航は当面中止にします」とメールが入った。
単身赴任先からの帰省はお金がかかるから体はしんどかったけど、格安な高速バスにしていた。

母親にも「今週の帰省はやめる」と一度伝えたものの、「そうか、帰省するなら今週迄なのか。この先は帰れなくなるかもな」と一旦はキャンセルした予約を再度取り、帰ることにした。
今、何も症状が無いのだから帰っても大丈夫だよなって思っていた。


【4.初旬某日2】
日曜日の夜、夜行バスで地元から単身赴任先に戻った。自宅を出る際、父親には、しばらく帰省できないかもと伝えていた。
「もしかしたら、父親が生きている姿を見るのは最後になるのかな」そんな変な予感があった。

単身赴任先に戻った月曜日から会社ではテレワークとなっており、掃除をして夕食を摂った際に異変があった。

「味がうすい」

その少し前にプロ野球で陽性者となった選手が、味がしない、コーヒーやワインが違う味がする、ということを言っていたのを見て、かなり気にはしていた。

もしかして、と思い、体温を測るが、平熱。
元々鼻炎があり、鼻が詰まることはよくあったので、そのせいかな、とも思っていた。
でも、やはり気になっていたのだろう、夜中に目が覚めてしまい、近くのコンビニに走って、ワインとコーヒーを購入した。どちらも味はした。匂いもした。
でも、普段からワインは飲まないし、缶コーヒーも飲まないので、それが普段と同じなのか、よく分からなかった。

そういえば、帰省中に変な頭痛がしていた。
それが新型コロナの症状だったのか。

それにしてもどこで感染したんだろう。
思い返すと、2週間前に友達と居酒屋に行ったこと、10日前に娘の入学式に出席したこと、そして1週間前に同僚と食事をしたこと、同僚と同じ車に乗ったこと、その同僚が車の中で煙草を吸っていて煙を浴びたこと、同じ現場で数時間一緒にいたこと。それと帰省中に乗った高速バスの中なのか。7時間も密閉空間にいるわけだから。正直、今もわかってはいない。


【4.初旬某日3】
同じフロア内で、席も近い同僚が体調を崩した。酷い下痢になっていて、声もうつろな状態だった。調べると消化器症状が出る人もいるとのこと。
検査を受けられるなら受けたほうが良いと伝えたが、食あたりとの診断で、もちろんPCR検査は受けれなかった。前の週に一緒にいることが多かった同僚が私と同時期に症状が出るというのは、やはり新型コロナなのか。

心配になり、病院に電話をした。
風邪で病院に行くことがほぼ無かったのと、当地では内科は初めてであった為、ネットで調べてみたが、

「嗅覚味覚に異常がある人は受診を控えてください」

という案内が出されているところが多く、それが無かった病院に電話をした。

〖医師〗
・野球選手での実例があったから疑う人が多いが、嗅覚味覚障害でコロナ感染は多くない。
・この症状はいつの間にか治ることが多い
・今の時点で検査はしてもらえないと思う
・1~2週間様子を見て治らなければ、受診して下さい
・耳鼻咽喉学会のHPを見て行動指針に従ってください

その後、保健所にも電話をした。

〖保健所職員〗
・感染者の濃厚接触者か?
・最近、東京、大阪などの大都市への訪問、海外渡航歴はあるか?
・2週間自宅待機して、改善しなければ受診してください

よく言われていることではあったが、その時点では、検査を受けられるような状況では全くなかった。

そして、その夜には新たな異変が始まっていた。入浴中に、左脚の感覚がおかしいことに気付いた。強くこすっているはずが、あまり感じない。痺れもあった。
コロナで痺れなんて話はなかったよな、と思い、先週、野球の練習中にしたサッカーでスライディングをしてから腰を痛めてしまったことを思い出し、そのせいかな?と思い込むことにした。


【4.初旬某日4】
病院に電話をして受診することにした。

・脚のしびれは様子見
・胸部CT検査の結果、所見なし
・風邪薬を出すので、それが効いて何もなかったら終わり
・この先、高熱や倦怠感が出たら、保健所に連絡して

肺炎症状などで、呼吸が苦しくなければ、検査を受けさせてもらえる状況ではなかった。
対応した病院職員の方々はフェイスガードなどをして重装備だった。
その職員さんに連れられて別棟の検査場へ行く自分は、他の患者さんたちにもコロナ患者って思われているのだろうな、騒ぎになるのかな、とか、そんなことも考えていた。

一つだけ希望があったのは、医師から言われた話だった。

「私は保健所に顔が効くから、いざとなったら、受けられるよう、私から話しますから」


【4.初旬某日5】
症状を感じてから、

帰省時に家族にうつしてしまったのでは? 

という心配ばかりしていた。
心配すぎて何も手につかず、ベッドで寝るか、神様に祈るか、帰省したことを悔やむか、それくらいしかしていなかったと思う。

昼過ぎだったか、ベッドで寝ていると電話が鳴った。もう、それだけで嫌な予感がした。
妻からだった。

「○○が具合悪くて帰された」

息子が頭痛が酷くて、保健室に行った。
その時に、

「単身赴任中の父親が嗅覚が無くなって自分もそうではないか。心配だ」

という話を保健師にしたところ、教職員で少し騒ぎになってしまったらしい。
息子からは、

「家族にそんな話があったのなら、休んでほしかった、と先生から言われた」

と。その時点で、頭痛、倦怠感、少しの咳、体温は微熱で、病院に連絡しても受診できず、私が疑いになっていることも伝えたからか、「しばらく自宅待機」と言われたとのこと。

心配していたことが現実になってしまった。「やばい」
電話を切ってから、頭が混乱し始め、マンションの部屋のあちこちに転げまわる、頭を打ち付ける、殴る、いろんなものを投げる、震える。錯乱状態に陥った。


【4.初旬某日6】
息子の症状がコロナなのか。

それを証明するには、自分が検査を受けるしかない。でも受けれない。

朝には絶望の淵に迷い込み、呼吸が浅くなり、過呼吸状態にも陥っていた。
病院に電話をした。改めて、症状があることを強く訴えると、検査する手配をしてくれた。

保健所職員からは、公共交通は使ってはいけない。車が無ければ、自転車か徒歩で行ってもらうしかない。
言われた病院に自転車で向かった。
公に認められた外出を久々にしたせいか、当たる風が少し気持ちよかった。
病院に着いて指定された電話にかけたところ、職員の女性が迎えに来てくれた。
若い女性だった。うつすのが怖くて離れて歩いた。「ごめんなさい。本当に」なんか過剰に謝っていた。

中に入ると、陰圧室になっていた。
ニュースでは見ていた。
胸のCT。エレベータに看護師さんと二人で乗った。「(エレベーターに)入って良いんですか?」と看護師に聞いた。
途中階で止まった時に沢山の看護師がエレベータを待っていた。「コロナ患者がエレベーターに乗ってるから乗れないよ」って意味なのか、付き添いの看護師が他の看護師に目配せしていたのをエレベーター後ろの鏡越しから見えていた。胸のCTに問題はなかった。血液検査に異常はないと言われた。検査も終わり、帰宅した。

帰宅して、血液検査を見たら、異常ではないか?と気づく項目があった。
リンパ球の異常な低下。何年か前に風邪を度々ひくので、免疫を高めるようにしていたから、それが免疫に関するものとは知っていた。調べたら、新型コロナで低下するとあった。

すぐに病院に電話をした。繋いではくれなかった。LINEヘルスで医師に相談した。
一人の医師は「可能性は高いですね。覚悟してください」
違う医師は「問い合わせが多いから、聞きたいことを端的に」と。
返事は、誰もが言えるような「密の回避、手洗い、うがいをすることが重要」という内容だった。
定型文にしているのだろう。「他に質問ありますか?」との問いに「もういいです」と答えた。


【4.中旬某日】
17:45だったか。保健所からの電話だった。

保健所「陰性です」
私「えっ?」
嗅覚障害あるし、絶対陽性だと思っていたから、なんで?と驚く結果になっていた。

「本当なんですか?」と食い下がる私に、
保健所は

「味覚嗅覚の症状があるのに陰性が出た場合は信頼できる結果です」

なんかスッキリはしていなかったが、まあ良かったのか。

ん?でもおかしい、でも、だとしたら、この嗅覚異常はなんなんだろう。

「でも、まあ、信頼できる結果なら良いか」。夜は久しぶりに好きなテレビを見て寝た。

【4月中旬から下旬】
自分の陰性判定が出たことで息子は病院を受診できることになり、「起立性調節障害」と診断された。
思春期の子で春によく起きる症状らしい。
陰性が出たら、新型コロナを一切疑うことはないらしい。
父親はもしかしたら偽陰性で、息子もそれがうつって体調が悪い、という考えには一切ならないんだなって。

この頃から、「新型コロナ」を病院が否定したり、避けるようになっていることを実感し始めていた。

それは、診察した患者が新型コロナだったら病院の評判や休診、経営にまで問題が出るからなのか、方針として考えないとなっているのか、本当に無知なのか。

病気(新型コロナ)ではないことがわかったら診察をします

って。病院、医師って病気を治してくれるところではないのか。

陰性の結果についても、陰性で良かったと思ったのは結果が分かった当日だけで、翌日からは、PCRの信頼度(正判定70%、誤判定30%)の確率を見て、自分は誤判定側にいる、本当の「陰性」ではないと思っていた。何故ならば、コロナ特有の嗅覚障害は続いていたし、息子や同僚も同時期に体調不良となっては、感染を疑わざるを得なかった。

もし、自分だけの問題であれば、正直、「仕方ない」位で終わったのかもしれない。でも、自分は、

・息子が感染して学校で感染拡大、クラスター発生
・息子が感染した噂が学校中に広まり、いじめを受ける
・父親、母親に感染して通院していた病院内の感染拡大、院内感染、入院患者が感染して死亡多数
・それを引き起こしたことによる村八分問題
・この時期に帰省をしたことによる世間からの非難と行動の追跡
・勤務先を特定されての会社非難、倒産

ここまで考え、恐怖に陥った。考えなければならない範囲が広すぎた。

息子の中学校に電話をして、先生に意味不明なことを言って混乱させた。
自宅には投石、落書きに注意するよう伝えた。
勤務先に会社の心配を伝えたら

「そんなことにならないし、陰性なんだから」

と言われた。
父親が通う病院に電話をして、

「陰性だけど父親が感染しているかも」

とわざわざ伝えて騒がせ、

「しばらく通院を控えるように
 県外にいる私と姉の付き添いもやめるように」

と、言い渡された。

とくかく、大混乱していた。
動けば動くほど、余計なことをして事態を悪化させていた。
妻からは呆れられ、母親には悲しませ、姉からは激怒された。それは、

「そもそも陰性なのに」

という理由からだった。
病院に伝える必要もないし、父親の治療も止まってしまった。
しばらくしたら通院は再開させてもらったが、父親の病態はみるみる悪くなった。

その頃、母親も「胸が痛くて息苦しい」と、病院に行きレントゲンを撮ったらしい。
異常は無かったそうだが、皆は私のことを心配することからの精神的なものだと思っていた。
(これは後に、別の病気の際に行った検査で肺炎の跡があることが判明した)

そして、毎日の恐怖から私の症状もおかしくなっていた。
ある日、体の左半身が痺れ、口が思うように動かなくなった。新型コロナが脳に異常をきたすことは知っていた。「もうだめだ」救急に電話をした。

自分「少し前に新型コロナの症状が出て検査は受けて陰性になりましたが」
救急「大丈夫ですよ、向かいます」

拒否されると思ったから、確認した。
「陰性」というのがそもそも「感染していない」ことになっていた。

窓は全開にして待った。
特別な装備もせず、自分の対応をしてくれた。

なぜか、救急がかけつけたころには症状はほぼなくなっていた。
搬送先の病院では検査を行い、問題がないということで帰された。
医師からは「本当に悪かったのか?」と嫌味を言われた。

以前から体調不良に関しては看護師の資格を持つ姉に相談することがあった。
陰性後の体調不良を日中も真夜中でも姉に相談したりしていた。

「そもそもエビデンスもないのに何を言っているのか。早く心療内科を受診しろ、日常生活も送れなくなる」

と警告された。
「エビデンス」というそれまで聞いたこともなかった言葉ではあるが、新型コロナが出てからはよく聞いていた。
まさか身内からも言われると思っていなかった。

■4.悲嘆

5月初旬~中旬
父親は入院になった。自分の感染疑いにより余計なことを言った為に通院・治療できない期間があったことから、体調悪化が深刻になった。
やがて、母親から父親危篤の連絡が入った。

体調不良以降、初めて帰ることにした
帰るに当たって、保健所に確認した。「感染後、3週間経ていたら人に感染させることはない」と。
本当にそうなのか、半信半疑ではあった。
公共交通も怖くなってしまい、費用は何倍もしたが、レンタカーを借り、7時間かけて帰省した。

そのまま病院に立ち寄り、一か月ぶりに母親に会った。
親不孝な息子を母親は以前と変わりなく迎えてくれた。

その数日後、父親は息を引き取った。
死に目には会えなかった。私も姉も許されなかった。病院に入ることを禁止されていた。
父親がいる病院の建物の前にはいるのに、父親に会うことは許されなかった。

父親の帰宅を自宅で待った。
運ばれてきて布団で横になった父親と1か月ぶりに対面した。
もうだめだった。
どのくらい泣いただろうか。父親に亡骸にすがってずっと号泣していたと思う。
「オレが殺したんだ」

火葬の前夜、1時間位だろうか、父親と会話をした。
返ってくることのない会話だった。ずっと父親に語り掛け続けていた。

翌日、父親は旅立った。

自分が陰性なのに、「感染しているかもしれない」なんて病院に電話をしなければ、
父親は治療も継続でき、まだ生きていただろう。

最悪、死に目にも会えただろう。

いつの日か、父親と別れる日は来る。
でも、こんな別れ方になるなんて、思いもしていなかった。

父親は助かることはなかった病気だけど、自分が殺したようなものだ。
親不孝の償いから今度は親孝行をしようとしていたのに、その思いが裏目になり、ついには父親を殺してしまった。
「オレは人殺し」だ。


【5月下旬】
緊急事態宣言も明け、勤務先に出勤した。
でも、仕事に集中できるような精神状態ではなかった。
息子に感染させたこと、父親の死が頭から離れなかった。

勤務中は、ネットで新型コロナのことをずっと調べていた。調べては悲観し、勤務中にも関わらず泣いたり、時には椅子から崩れ落ちて号泣していた。

海外で起きていた血栓の情報を見てしまった。脚を切断したという記事に戦慄が走った。
症状は自分にも心当たりがあり、陰性という結果にも納得がいってなかったので、検査を再度受けさせてもらえないかと、保健所に電話した。保健所の方は、

「呼吸器症状がないと検査は受けられない」

と言う。でも、私は、

「呼吸器症状がなくても濃厚接触者は検査を受けていますよね?」

と言うと、保健所からは

「国からお金がかかるから、受けさせられないことになっている。」

と言われた。更に食い下がった。

「この先、陽性と認定された人、偽陰性の人で受けれる保障、治療が変わるんでしょう?」

と聞いたら、黙っていた。
仕方なく、その血栓情報のページを印刷してPCRを受けた総合病院を受診。医師も知らなかったが、その医師は否定せず必要な検査をしてくれた。
結果的には違ったのであるが、ネットで真偽もわからぬ情報を見ては心配し悲観し、という毎日であった。


■5.孤立

【6月初旬】
新型コロナは子供の場合は、川崎病によく似た症状が出ると言われていた。
似た症状が息子に出ていた。イチゴ舌だった。
医師からは

「溶連菌でもないし川崎病でもない。検査も感染対策からやめている」

とのことだった。

「コロナを疑って、もしPCR検査を受けて陽性が出た場合、学校全員検査を受けなくてはならなくなる。
偽陽性が出てしまうリスクも考えると受けない方が良い。そもそもコロナでは無いと思う。」

そう言われてしまっては、なす術が無かった。

イチゴ舌まで出て問題が無いわけない。
息子の体はどうなっているのか、結局何もわからない。原因が分からない。
全て否定されてしまった。取り残されてしまうのか。

この頃から私の何事にもコロナを結びつける姿勢に対して、妻からの態度がきつくなってきていた。
「陰性」なのに、いつまでもコロナコロナと言っている私の姿勢に嫌気がさしているようだった。体調不良も「精神的なものだ」とよく指摘された。「陰性」なのに、という結果が全てになっているからそもそも噛み合わないのではあるが、身内からの理解がないことは、殊の外辛く、孤独を深めていった。

この頃から、Twitterばかり見るようになっていた。現実の世界では、症状があるのに「陰性」で「偽陰性」なのでは?ということは否定されるが、Twitterの世界には同じような人がたくさんいた。
まだまだ新型コロナも情報が少なく、情報を仕入れたかった。そもそも状況を理解してもらえない人から「大丈夫だよ」と励まされるより、同じような症状や境遇で苦しんでいる人を見ているほうが自分の心は慰められていた。

【6月中旬】
その頃、N抗体検査が一般の病院で受けることができるようになっていた。
積極的に宣伝していた市内の病院で受け、結果を聞きに行くと、受付で陰性を言われた。
基本的に説明もなかった。
抗体はあるだろう、と思っていたから、どういうことなのか、説明を聞きたかった。
受付でお願いをすると、面倒そうな感じで受けてくれた。
医師はこう言った。

「抗体があったら安心できたのにね」   
「感染していないというのは、感染対策がうまくいっているのだから、これからも気を付けてね」

たしかに、その通りだった。
心配事を相談したら不機嫌になり、
医師「あまり詳しく聞かれても、わからないから答えられない」
そうか。抗体検査は金もうけの為だよな、と感じ取った。
病院を受診する人が減ったから、その穴埋め的に抗体検査を勧めているのだと思った。

姉貴にも「感染しているのに抗体も陰性になった」と伝えたら

「また信用しない。何も信じらないのなら受けるな」

と返答された。
会社にも報告をしたが、それは余計なことだった。

抗体検査陰性という結果が「感染していない」ことを更に証明してしまう結果となってしまったからだった。

でも、自分に体感がある、家族にも症状が出ている以上、医者からも保健所からも会社からもみんなからも「あなたは、コロナじゃない」と言うので、「じゃあコロナじゃないと思って生きていくとするか!」なんて思えなかった。


■6.絶望

【6月下旬】
この頃から、絶望感が酷くなり、夜も眠れず、無気力な日々が始まった。
いつまでも、帰省したことを後悔しては嘆いていた。
やがて希死念慮が始まった。
ネットで自殺の方法を調べ始めた。
そして、工具屋に縄を買いに行った。

会社のビルが12階にあり、飛び降りたら死ねるんだな、と思いながらいつも窓の外を眺めていた。
会社に行けない日は、昼間から死に場所を探して街を彷徨い始めた。
・公園
・橋の下
・川
・鉄道の陸橋
・マンションのベランダ
部屋にいるときは、ずっと縄の縛り方を練習していた。

なぜ、死にたいのか。

自分の行動によって、大変なことになった。

後悔しても反省しても事態が好転するわけではない。
この先もっと悲惨なことが起こるのかもしれない。
これから起こることを自分の目で見たくない。

今回のことで、自分のこれまでのダメな生き方まで全て掘り起こすことになってしまった。
小さい時からずっと誤魔化しながら生きてきた。嫌なことから逃げていた。
将来の設計も何も立てていなかった。
人生をなめていた。そのツケがもう戻しきれないくらい溜まってしまっていた。
全てをクリアにするには、もう死ぬしかないと思った。

後に残されたものが悲惨なことになるのは分かってはいた。でも、それを考える余裕はなかった。
とにかく一日も早く人生を終わらせたい、としか考えていなかった。


【7月】
続く症状(皮膚の湿疹、微熱(37.0前後)、寝汗)で、病院の受診は続いていて、体重も10キロ落ちていた。

それと、呼吸器系に問題を感じると、コロナではないかと診察を受けていた。

医師「いい加減にコロナを切り離しなさい」

時に、自転車を漕がされてその時の心拍数や肺活量を調べる、といった的外れな検査もあった。
いつも点滴を受けて帰ってきた。おそらく、気休めになると考えたのではないか。

体調不良の際には、保健所に連絡し、検査を受けさせてほしい、とお願いした。
保健所

「陰性になったんだし、いい加減にコロナから切り離せません?」

ここでもそう言われてしまった。
会社の産業医に相談した。
産業医だし、優しそうだったから、わかってくれると思った。
相談日があり、電話で相談したところ、激怒された。

「医師の言うことが信用できないのか」

相談どころか、医師を愚弄したのかと思われ、説教されてしまった。
会社の偉い人からメールが来た。

「医師の診断が信用できないようですね」
「会社としては心療内科を受診してほしいと考えている。私も同行します。」

その後、一緒に受診し、帰りにいろいろ話した。その時に、偉い人から「貴方の言うことを聞いているとイライラするんだよね」と言われた。
毎日、体調報告のメールをしていた。
陰性なのに、ずっと感染しているテイで話をしていると思われたのだろう。

「「陰性」なんだからそもそも感染していない」

と偉い人からその度にメールの返信があった。それでも、いつまでも送っていた。
まもなく休職の宣告が下った。

【7月下旬】
帰省し自宅に戻った。
すぐに重い頭痛が何日か続いた。

それから1週間後の夕食時、息子がくしゃみをしていた。翌日、鼻水を出し、高熱になった。それと尋常ではない咳が出始めていた。

もしかして、この前の頭痛はコロナなのか?
自宅に戻る前に、単身赴任先の通院していた病院で紹介状をもらいに行っていた。
その時にもしかしてうつってしまったのか。
そして、また息子にうつしたのだろうか。

息子を連れ病院を受診した。車の中での受診だ。
自分がコロナに対して異常に警戒しているのは医師にも伝わっており、
医師から「PCRを受けてみますか?」と言われ、お願いした。
呼吸器系の症状だとPCRを受けられる状況は変わっていなかった。

息子は男女の友達と海に行く約束をしていたらしい。
楽しみにしていたらしく、「治ったら行って良い?」と聞かれたが、返答できなかった。

これで陽性が出たら、どうなるんだろう。
息子の学生生活、友達関係、恋愛、将来、全てを奪ってしまうのだろうか。
俺はとんでもないことをしてしまった。

もうダメだった。
6月からの絶望感に加え、さらに今回のことで、希死念慮が限界に達してしまった。

もうこれからもずっと苦しむんだ。
家族もみんな苦しむんだ。俺のせいだ。夜、家族全員を殺して心中しよう。いや、全員なんて殺せない。途中で抵抗される。失敗はできない。やはり自分だけ死のう。

その夜、家族が寝静まった後、縄と踏み台を手に携えながら、深夜の誰もいない道を歩いていた。自分が通っていた小学校の前にある東屋に来ていた。練習通り縄をくくりつけ、ぶら下がっても切れないのを確認し、踏み台に上がった。

ズボンのポケットには氏名と自宅の電話番号を書いた紙だけ忍ばせた。第一発見者は、母親の友達になるのはわかっていた。
夜中の3時半くらいにその場所を散歩しているのは聞いていた。
だから、絶命するまでに見つかって失敗に終わらないようにしなければならなかった。
父親が亡くなった時も泣きながら顔を見に来てくれ、自分の小さい時から世話になった人なのに、自分の変わり果てた姿を見せることになってしまう。
でも、止められなかった。

輪状にした縄に首を入れた。
後は踏み台を蹴るだけ。

急に怖くなった。そして、その瞬間いろんなことが走馬灯のように蘇った。
それと、多くの小学生がトラウマになってしまうのではないか、本当に良いんだろうか。
それこそ残された家族がもう生きてはいけなくなる。

できなかった。
ベンチに座り込んだ。
正直、安堵していた。

帰路に就いた。
熱帯夜なはずなのに、体は震えていた。
それなのに汗は止まらなかった。

後日、息子の陰性が伝えられた。
息子は回復した。
新型コロナだったのか、風邪だったのかはわからない。
 

■7.虚脱

【9月】
会社から、「休職が長引いており、復帰が現在では見込めない為、単身赴任先のマンションの賃貸を解約する」と連絡があった。
引越しの為、単身赴任先に戻った。
最後の日の夕方、全ての荷物を出し終わった後、空っぽの照明もない部屋でどうしようもない虚脱感に陥っていた。全てを失ったかのような感覚だった。

さよなら、○○(単身赴任先)。
もう、自分は働くこともできないのであろうか。この時には、先のことなどなにも考えられない状況に陥っていた。

復職できたのは、それから7か月後の2021.4のことだった。

■8.理解

2020.6月頃、東京の笹塚に後遺症を診てくれる病院を見つけた。事前に相談し、地元に帰る途中で寄った。院内には、会話から後遺症と思われる患者もいた。診察をしてもらった。

「貴方と同じような症状の人は多い」
「典型的な新型コロナの症状ですね」

と言われた。

「陰性」と判定されてからは、全てから否定されていたから、
この理解してくれる姿勢にはとても救われた。

先生は優しく、私の話を嫌な顔もせず、ずっと聞いてくれた。生活の注意点も教えてもらった。東洋医学への造詣も深く、根本から治してくれそうな感じがあった。
ただ、遠方だったのと、オンライン受診は保険が利かず、継続的な受診は無理だった。

ヒラハタクリニック(院長;平畑光一氏)という病院をネットで見つけた。
東京ではあるが、オンラインで受診してくれる。保険も利く。予約ではなく、何時になっても当日中に必ず見ます、とあった。
Twitterもされており、オンラインの相談をしたら、返信もしてくれた。

今では日本で一番新型コロナ後遺症患者を診ている医師としてテレビの出演も多数され、雑誌などの取材もたくさん受けられている先生であるが、当時は、まだごく一部にしか知られていなかったと思う。

新型コロナは、国の方針の為に多数の検査難民、そして、症状はあるのに陰性となってしまい「陽性者」と認められない人が多数出ているが、平畑先生もその理解をしてくれた。
先生のツイートにもあったが、「否定をしない」という姿勢にどれほどの患者が救われているか。

当初はまだ患者も少なかったことから、先生の聞いてくれる姿勢に甘えてしまって、ついつい沢山話をしてしまうことがあった。聞いてくれるだけで治った気になっていた。希望が持てた。

いつだったか、

「後遺症を診ている自分から言えるのは、何とかなる、です」

というツイートを見た。
この言葉はずっと自分の支柱になっている。

先生から紹介を受けて週刊誌の取材に協力させて頂いたこともあった。
それは程なくして掲載された。

陰性なのに後遺症がある。
陰性だから周囲の理解がない。
そのことにより休職にまで至った。

このことに着目して私を選んで頂いたようだった。今では復職して病院も近くなり、病院での受診をさせて頂いている。
毎晩夜中の3時まで診察を続けているのに、患者の声に耳を傾ける姿勢は変わっていない。Twitterでの情報発信、後遺症への理解に対する医療関係者、一般問わずへの啓蒙、とにかく精力的に動いて頂いている。
平畑先生がいる限り「なんとかなる」という希望が持てる。

毎晩3時までの診察が続き、そして後遺症患者がまだまだ増え続けている状況である。
お身体には気を付けて頂きたいと思う。

■9.現在

2020年1月現在。私は後遺症に苦しんでいる。いまだ治らないいくつかの症状。そして精神的にも不安定になることが多い。

抗体検査については、一点捕捉がある。2021年5月、ニュースで横浜市立大学の研究結果において、感染者にはS抗体が出ると知り、一縷の望みをかけて同年5月にヒラハタクリニックで抗体検査を受けた。結果は、陰性だった。でもその時、平畑医師から掛けて頂いた言葉は、

「証明するものがなくなってしまいました。」

だった。感染から一年以上も過ぎ、既に抗体もなくなっていたのだろう。自分が感染していたという証明する機会を全て失い、絶望や虚無感が入り交じった複雑な感情を察して寄り添ってくれた言葉だった。救われた。平畑医師からは、更に「去年検査を受けられなかった人、陰性でも症状があった人のほとんどが陰性です」と聞かされた。

とはいえ、もう証明することはできない。同年4月に復職はしたものの、周りからの「陰性なのに」休職した人という冷たい視線もしばしば感じられた。また、7か月のブランクは思っていたより大きく、そして脳の衰えなのか、集中力、記憶力が衰え、仕事の効率は下がってしまった。

毎日、「あの時帰省していなければ」という罪悪感から後悔することもしばしばで、通勤時にも涙することもある。
するつもりはないが、希死念慮も相変わらずである。Twitterで共感させてもらった同士にも助けてもらうことも多い。

別に前向きにとか、頑張ろう、とか、そんな強い意志ではない。
生きていかねばならない。

それは「生きた」からだ。

生き抜くことに精一杯であるが、
「生きる」しかない。

今、朝陽を浴びながら、今日も生きれている。

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