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「モノノメ」と犬の環世界

最近野良犬を見なくなった。幼い時分には野良犬を見た記憶があるが、この記憶の事実については、ただ放し飼いにされていた飼い犬をそれと判断していた可能性も無くはない。しかしとにかく野良犬の行方が気になって調べてみることにしたのだ。するとどうやら、野良犬というものは保健衛生上の理由によって抑留しなければならないことになっているらしい。その理由としては主に狂犬病ウイルスの感染防止を目的としていて、抑留の上でワクチン接種を義務付けられているのだそうだ。犬というものは、人間にとって「害獣」とり得ることによって逆に保護される(当然、殺処分という道も有り得るのだが)ものらしい。

野良犬が気になったのには理由がある。ひとつは我が家に同居する雄のシーズー犬、モモマルである。そしてもうひとつ、今年PLANETSより創刊された雑誌「モノノメ」に収録された、宇野常寛さん執筆のエッセイ、「虫の眼」「鳥の眼」「猫の眼」だ。この雑誌は物理的な「モノ」を通して見る世界によって、自分と世界との関係性を結び直し、あらゆる神経反射の応酬から離脱することでゆっくりと考える時間を取り戻す「検索では届かない紙の雑誌」として創刊されたのものだ。

「虫の眼」はモノノメの中でも好きなエッセイの一つである。ここに「環世界」というモノノメを象徴するような言葉が登場する。「環世界」とはヤーコプ・フォン・ユクスキュルの著書「生物から見た世界」に登場する概念で、「すべての生物にとって世界は客観的な環境ではなく、生物各々が主体的に構築する独自の世界」であると説明される。「虫の眼」「鳥の眼」では、それぞれの生物の「眼」を通して見る世界から、人間が勝手に描く「絵葉書のような自然」が、いかにその生物の生きる環境や好ましい場所から乖離し、不自然なものであるかを考察している。ここで興味深いのは「人間と虫たちの世界の境界線」はなく「私たちの環世界と虫たちの環世界は同じ場所に並行して存在」すると言っているところだ。つまり踏み越えて行くような別世界ではなく、むしろ同じ空間で異なる環世界を持つ同居人であるという。

環世界についてさらに、示唆に富む発言をされているのが、同エッセイに登場する案内人である柳瀬博一さんである。柳瀬さんはモノノメ創刊記念の座談会で、「今のSNS社会の文化創造で一番必要なものは何か?」と問われた際に、「好きな場所」と答えた。すなわち「好きな場所」にいる時にこそ、あらゆる世間から隔絶され、モノと静かに対峙する余地が生まれるということだ。そこではモノの多様性とじっくり向き合う時間的な離脱、つまりタイムラインの潮目に流されることの無い「遅いインターネット」をも想起する明快な言葉である。同時に、自分にとっての「好きな場所」とは、つまり自分にとっての「環世界」とは、一体どこなのだろうかと考えてみた。すぐに浮かばないことに結構ガッカリしてしまったのだが、それからというもの毎日のように、自分の「好きな場所」について考えるようになった。

「猫の眼」は宇野さんが猫の視点で考え、とある湾岸地区に暮らす「地域猫」と、それを暗黙の了解で保護する「共同体未満」の人たちとの関係性を考察しているエッセイである。そしてこれが、野良犬の現在をふと考えてみたくなったきっかけでもある。猫が生きていく上で最も適した環境とは「近代的な家屋の中で、勤勉で動物愛護の精神に溢れた人間がそこに同居していることだ」とした上で、猫たちに必要とされることで、出会わないはずの人たちが適度な距離感で同じ場所に存在し、示し合わせたものではない同じ目的の為に手を動かしている「新しい公共性の形」に着目している。そのような意味では「犬の眼」で見た時、野良犬がいなくなった昨今では、ドッグランで人間同士の薄いコミュニティが構築される以上のものは、もはや成立し得ないということなのだろうか。動物愛護団体に怒られるかもしれないが、現代の犬はほぼ完全に、人間に最適化され生活に溶け込むことが最も快適であり、盲導犬のように「益獣化」されることで、公共性が担保されていると考えられなくもない。

シーズー犬はかつて中国では「神犬」と呼ばれ、貴族の抱き犬として飼育された筋金入りのペットである。神犬モモマルは毎日、私のベッドの上で寝起きし、家の中では行くところ腰巾着の如く付いて回る。犬の環世界で私をどのように見ているかは分からないが、私にとっては対人間よりよっぽど良い関係であることは間違いない。

そんなある日、思い立ったように会社を休んでモモマルを連れ、福岡市内の大濠公園へ出かけた。福岡の中心都市から程近い場所に位置する大濠公園は、福岡城の外濠として利用されていた土地を利用した場所である。隣接する舞鶴公園には運動場と福岡城の石垣や櫓といった文化遺産が残り、いづれも豊かな植物と野鳥の棲家となっている。福岡には数年前に東京から移り住んだのだが、大濠公園には家族で一度しか行ったことがなかった。いつも行く近所の散歩コースとは違う場所に行きたかったこともあり、私たちは車に乗って公園へと向かった。

大濠公園は人も少なくて、気持ちが良かった。以前来た時は休日で桜も咲いていた季節であったから、次に来ることがあれば絶対に人が少ない平日に来ようと思っていた。モモマルも落ち着かない様子で尻尾を振っている。私たちは駐車場を出て歩き始めた。

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大濠公園には円周二キロメートルの池があって、池の中心を横断するように、三つの島とそれを結ぶ橋がある。最も人気のスポットは浮見堂という、島から池に突き出した朱色の御堂である。さぞやインスタ映えするであろうこの御堂に集まる人々を尻目に、私はモモマルの心が赴くまま、島々を散策しながら歩いて行った。細長いこの島の途中には所々ベンチがあって、お年寄りやスーツ姿のサラリーマンまで、それぞれの憩いを享受していた。ゆっくりと、20分ほど歩いたであろうか、私たちは連なる三つの島の内で最後となる菖蒲島に着いた。その道すがらに少し開けた場所があって、そこから池の方へ目を遣ると、小さな、木の生い茂った孤島のようなものが見えた。見た瞬間に何かの廃墟のようでもあったそこは、鴨が群生する楽園であることが分かった。

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近くにあった案内図を見て、そこが鴨島という名前だと分かった。私とモモマルは暫くそこに立ち止まって鴨島を眺めていた。まさにそこは、鴨にとっての環世界を満たしている場所なのだろう。人工的に作られたその島は、少なくとも一般人の手の届かない彼らだけの居場所である。自由に島を行き来する鳥たちを見上げるしかない私とモモマルにとっては、何とも言えないお手上げ感と共に、今一番必要な場所を鴨島は見事に象徴しているように思えた。

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島の散策を終える最後の橋を渡り、私たちはそのまま舞鶴公園へ歩いた。この日私とモモマルはゆうに二時間は歩いたと思う。せっかくだから全く人気の無い、福岡城の天守台まで登った。福岡市内を眺望できるその場所は秋に色づく公園が一層綺麗に見えた。文化と都市と自然が入り混じる交点のような場所でリードを離し、暫くモモマルと私は自由に歩いて回った。たぶん、モモマルも嬉しかったはずである。

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bit.ly/planetsclub
#PS2021  


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