嫌いな女のSNSを見るという、令和の自傷行為
「#フッ軽」「#平成元年組」
そんなうすら寒いハッシュタグをつけて、彼女がインスタを更新していた。ハイハイまたですか、と心の中で悪態をつきつつ彼女のページを定期的に見に来てしまう。
インスタは相互フォローしているが、彼女の投稿はもうずっとミュートしている。
昔から、「男には全くモテないけれど友達はバカみたい多い」という性質を持った彼女は、第一子が3歳を過ぎ、第二子を出産してもなお変わらないようだった。
専門学校で出会い、社会人になってからも頻繁に遊んだ。二人でグアムにも行き、互いの家を行き来した。
大体の収入も、恋愛傾向も、平凡ぶりも、全てが同列だった彼女とは、次第に合わなくなり、会わなくなっていった。だけど今思えば、同列だと口では言いながらお互いがお互いをうっすら下に見ていたような気がする。
ちょこちょこ別の友達を交えて会うこともあれば、LINEやインスタ上でやり取りする事もあった。話を大袈裟に盛り、時代錯誤な考え方で人を差別し、子供を抱いたまま見知らぬ他人の傘を平然とパクる彼女とは正直もう関わりたく無いと思っていた。
彼女からくるDMは、大体こちらの生活の様子を伺うようなものばかりだったので、噂話のネタにされているのだろうということは解っていたが、それ自体はもうどうでも良かった。私は彼女をミュートし、ストーリーズにも一切足跡をつけなくなった。次第に彼女からのDMも無くなったが、私のストーリーズには毎回足跡がついている。
それでも私もこうして彼女のページに飛ぶ。誰に向けてのアピールなのか全くもって不明の数々の投稿こそ、彼女の人生の醍醐味であるかのように思える。
昔から友達多いアピールしてくる女が苦手だった。理由はひとつしかなくて、それが私には無いものだからである。
ただ無いからといってそれが嫌かと言われるとそうでもなかった。小学生の時に痛い目見て以降、集団でいるのはめんどくさいし、今だって新しく知り合ったママ達との距離をどう保とうか常に気を付けている。もう私にとって新しく出会った人と距離を縮めるという行為、そのものが苦でしかない。
わざわざ見なくたって容易く想像できる、彼女のインスタを見てしまうのはもはや自傷行為に近い。心のどこかで、人と繋がる事を苦と思わない彼女のような人種を羨んでいる。モデルが書いたしょうもないエッセイくらいしか活字が読めなくて、他人の持ち物をいちいちブランド審査して、会計していない商品がある事に気付いたにも関わらず夫婦でそのまま万引きし(IKEAでしかも割と大物商品)、「二人目絶対産んだほうがいい。一人っ子は頭がおかしい奴が多い」などと平気で吐き捨てるような女。旦那も負けず劣らず知性を全く感じさせない、義務教育の敗北を体現したような男ある。どうしようもなく、ただただ鼻につく。こんな奴といつまでもつるんでいる奴は相当心が広いか、同じようなどうしようもない人間だと思うことで、なんとか溜飲を下げていた。
クリスマス、年末年始。友達多い系女子がここぞとばかりにアピールするイベント事。
子供を保育園に通わせている彼女は、同じ保育園のママ友たちとの様子を事細かにアップし、生活感丸出しの写真とくそどうでもいい個人情報を存分に供給してくれる。
いい歳して徒党を組んでいるところや、娘や娘の友達の裸の写真をいくら非公開アカウントだからといって平気で載せるその浅はかさにドン引きしつつも、内面的な意味で年相応の成長が見られない彼女を見て心底安心している。
前述したが、私はきっと彼女を羨んでいるのだ。人と上手に関われない、対人関係を継続する事ができない自分にないものを彼女が持っているからである。だけどそんな自分を嫌いになれない。ずっと嫌いなれずに、ここまで来てしまった。あー頭が痛い。
2022年の一発目のnoteに書くような事ではないのかもしれないが、私にとってはたとえ2021年が2022年になろうとただの次の日である。それ以上でも以下でもない。
何となくこれまでのnoteを読み返して見たのだが、改めて思うのが、本当に私という人間は自己愛パーソナリティを拗らせているどうしようもない奴だなと。今年もそんな私でいたい。
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