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[雑記]己が道を征け

「道とすべき道は、常の道に非ず。名とすべき名は、常の名に非ず」という老子の言葉があります。
この言葉は、

水のように低きに下り、谷のように集め、大河や海のように、なすことなくしぜんに満々と水たたえるような立場や、そのようなあり方

と無為自然を尊ぶことを解し、人としての在り方としての考え方を説いています。
古より「道」は”人の守るべき義理、道徳、人生や生き方”といった精神的な心構えを指します。
松尾芭蕉は「道」を”旅(人生)”と例え、一人一人旅は違うが通る道が同じこともあると表現しています。

このように「道」というのは色々な意味を含みつつ、永い歴史の中で個々の人の在り方を説いてきました。
人は時に一期一会かも知れませんが、必ず他人と交わり、同じ時を歩み、別れを繰り返し、影響を与えあいながら、新たな道の分岐点を歩いていきます。

以前、『エア・ギア』 (著:大暮維人) という漫画を読み、物語に興味深い部分がありました。

「エア・ギア」(未読の方はローラーブレードに動力を内蔵したものと理解してください)の各個人の持つ技の特徴を表したものを“道”と呼び、道は個人1人1人に開かれているため、ライダーの数だけ道は存在するが、トロパイロンの塔には系統ごとに8本の大道に至り、その頂には8人の王が存在する。
しかし、逆説的には8本の道、8人の王が存在するがあくまで現在まで到達した頂として、結果、主人公は波乱万丈の先に9本目の道”を開き、9人目の王として戦いを挑んでその最高位へと到達する。
という話の流れでした。

今の世の中は、幼少期より親等の期待と周囲から漠然とした”道(レールとも言う)”が敷かれ、また協調性の名の元に個を埋没されて「夢がない、やりたい事がない、一流企業に入れれば良い」等の希望や展望を閉ざし、具体性を持たない若者が多いように思えます。
全員を横並びにして個性を潰す(押え込む)事がよい風潮とされた時代があったのも歴史の中の事実で、その名残りなのかも知れません。

確かに協調性は大切ですが、それは個性を無視する事ではありませんし、決まった道を歩かなければならない訳でもありません。
ただ勘違いしないで欲しいのは、”個性”と称し社会や道徳的なルールに反したり、自己中心的な考えに基づいた行動を肯定する事ではなく、むしろ”してはならないこと”であるのは肝に命じなければなりません。

敷かれた道は辛く感じたとしても、実際は庇護の元に存在するため、特殊なケースを除き、余程自分に厳しい人以外は楽で甘いものです。その道上にいる限り、「他人のせいに出来る」のですから。
違う道を選ぶというのは、自己の責任において辛く長く険しいものが多いのですが、それこそが得る事の出来る「自由」の一つです。

人の可能性は無限であり、その道も無限に広がっています。
どの道が正解かは個々様々で、かつ他人からは判断出来ません。
比較的平坦な大道を行くも良し、険しくも厳しい未開拓の新たな道を切り開くも良し。
それが個性であり、己の道です。

ミニ四駆の奥深いところは、スーパーコンピューターを駆使しても”100%の正解が出ない(100%を弾き出せない)”という事実があるところです。
つまり、玩具のカテゴリーでありながら、「絶対」や「確実」等が無いのです。
勿論、運という不確定なファクターもあるものの知識や経験の引き出しの多さと実行力でより100%に近づけて行くことが出来るのは、よくレースで勝っている方や公式チャンピオンの方々を見れば分かると思いますが、自分が他とマシンのアプローチが全く違ったとしても、その時コースを走らせている限り、誰でも可能性は0でも100でもないのです。そして、確立されたものだけが正解でも無いのです。
例えばフレキも、ATも、アンカーも、そうして生まれ普及してきました。
ミニ四駆はそうした新たな道(可能性)を拓いて発展してきましたし、これからもそうでしょう。

自分が興味持って始めたものは、周囲から何を言われても、自分が納得するまでやり込んでみましょう。新たな取り組みがデフォルトスタンダードになるかも知れないし、1つの手法として周知確立されたものになるかも知れません。
そうならなかったとしても、自分の知識技能を向上させますし、自分のマシンスタイルはオンリーワンとなるでしょう。

「己が道を征け」、自分が信じたものを形にするために。

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