米澤穂信オーサービジット校外編(@名古屋)

デスクトップの整理をしていたら2017年に参加した米澤穂信先生の読書会メモが見つかったのでそれを元に書いていきたいと思います。

オーサービジットとは人気作家の方たちが学生向けに特別授業を行う朝日新聞社の企画で、その校外編としてこの読書会&トークショーが開かれました。

課題本は読書会前年の2016年に刊行された、

「いまさら翼といわれても」

6年ぶりファン待望の古典部シリーズ最新作です。

その販促帯に書かれた、

誰もが「大人」になるため、挑まなければいけない謎がある

という煽り文句の通り、本作は古典部部員、特に千反田えるにとっては人生の転機とも言えるお話が載っています。

米澤先生のオーサービジット校外編はその「いまさら翼といわれても」についての読書会&トークショーが中心となって行われました。

詳細についてはもうあまり詳しく覚えていないので以下では主に米澤先生への質疑応答を中心に書いていきます。それと米澤先生の人柄を感じられるエピソードなどを。

■開会にて

会場は名古屋駅近くのクロッシュブラン3階でした。梅村は大阪住みでしたが米澤先生に会いたい一心で遠路はるばるやって来ました(しかしこの後飛行機での参加者を知る)

受付で名札を受け取り指定された席に座るとその班は同年代の大学生で固められていました。世代別に班を分けて読書会に臨むというわけです。辺りを見渡すと小学生から高校生の班もありましたが大学生の班が一番多かったように思います。

タイムスケジュールはこんな感じでした。

13時00分~ 開会挨拶
13時05分~ 班で読書会
14時15分~ 休憩
14時30分~ トーク&質疑応答→終了後、写真撮影とサイン会

時間になり米澤先生が登場。ずっと憧れの存在だったので扉からマイクまで移動するまでの数秒間はスローモーションでした(オーラというか後光が差していてですね……仏のような柔和な笑みを讃えているので……)

そして第一声は、「ご紹介に預かりました米澤穂↗信↘」でした。

「穂信」のイントネーションってずっと一直線だと思っていましたが上がって下がるらしいです(ずっと憧れてたのに)

■読書会にて

この読書会は「いまさら翼といわれても」収録作全部についての読書会ではなく、自分が一番好きな短編について班の人にプレゼンするという形式でした。

梅村はもちろん「鏡には映らない」についてプレゼン(クドリャフカの順番で才能の壁にぶち当たって悩まされた伊原に殺されたので……)

そんな感じで班の人とあれこれプレゼンし合っていると米澤先生がやって来ました。米澤先生はスタッフの方と各グループを見て回っていたのです。

わー米澤先生だ、タスクオーナ先生があとがきで書いてた通り後光が差して見えるな……とかしょうもないことを考えているとスタッフの方がこんなことを言いました。

「えーこのグループは京都や大阪からも来られていますね」

米澤先生と話す機会が突如としてやって来ました(後から考えると隙を見つけただけ)

梅村は恐る恐る手を挙げて、

「あ、大阪から来ました」

すると米澤先生は深々と頭を下げてこう言いました。

「そんな遠いところからお越しいただいて、ありがとうございます」

米澤先生は戸惑う梅村を前に続ける。

「今、新幹線止まっているらしいですが、大丈夫だったんでしょうか?」

なんと米澤先生は一参加者の梅村の交通事情を心配してくれました……(高速バスで行ったので影響はなかった)

社交辞令というのは分かっているんですが米澤先生の話し方や仕草も相まって仏のような、ではなくそこに仏様がいるような感覚になってしまいましたね……

■「いまさら翼といわれても」のベスト

読書会の途中、米澤先生のひと声で「いまさら翼といわれても」のどの短編が一番よかったのかについて投票することになりました。
結果は、

1、長い休日
2、鏡には映らない
3、わたしたちの伝説の一冊

となりました。集計途中に米澤先生が、「私自身やっぱり「箱の中の欠落」は少ないんじゃないかなと思ってますが」と言っていたように折木と福部がラーメンを食べる話はランクインしませんでした。

でも、「あ、「箱の中の欠落」手挙がります?(笑) 挙がるんだ」と言う米澤先生がかわいかったのでよかったと思います。

■「いまさら翼といわれても」の最後に一文を付け加えるとしたら?

ここはネタバレを含みますので未読の方はすっ飛ばして下さい。

読書会の途中、またもや米澤先生のひと声で表題作「いまさら翼といわれても」の最後に一文を付け加えるとしたらどうするか、について班で話し合うことになりました。

「いまさら翼といわれても」は合唱祭でソロパートを任された千反田が本番前に行方をくらまし、それについて折木が推理を繰り広げるお話です。

しかし、作中では千反田が身を潜めていた蔵から姿を見せずに、

──蔵の中から、もう歌声は聞こえなかった。
(米澤穂信「いまさら翼といわれても」(角川書店、2016)353ページより

という一文で終わっています。これだけでは千反田は結局蔵から出て合唱祭に向かったのか、そうでないのかが分かりません。読み手に結末を委ねるリドルストーリーになっているのです。

とどのつまり「羅生門」と一緒ですね。闇に消えた下人はそれからどうなったのか。国語の時間にその結末を考える課題が出されたことがあると思いますが、これって案外楽しいんですよね。普通読み手は物語の結末に介入できませんが、リドルストーリーは自分が思うような結末にすることができるので。

この読書会もその例に漏れず大いに盛り上がりました。特に会場が湧いたのは中学生の班の結末でした。

中学生の班は、「千反田が合唱祭に向かう」としこんな一文を最後に付け加えました。

「俺はお前の歌が聞きたい。ああ、千反田の前では調子が狂う。そう思って俺は頭を掻いた」
朝日新聞DIGITAL「オーサー・ビジット 校外編)登場人物の未来を想像 米澤穂信さん」より

まあ、折木はアニメ版「あきましておめでとう」で「てへぺろ」とか言ってるので……(脳内だけど)

■質疑応答

以下では読書会の後に行われた質疑応答についてQ&A形式で書いていきます(メモに残っている限りですが)

米澤作品全般に関する質問や創作活動についての質問が飛び出したりして興味深かったです。個人的には古典部シリーズと小市民シリーズのこぼれ話を聞けたのが最高でした。

なお以下のQ&Aは梅村のメモと当時の記憶を頼りに書いているので正確さに欠けます。ご注意ください。

Q.折木の書いた「走れメロスを読んで」って中学生のレベルを超えてません?
A.私は小学生の時にこの考察を考えましたね。

Q.古典部シリーズの登場人物にモデルとなった人物はいますか?
A.残念ながらいないです。

Q.氷菓はキャラクターに役割が与えられているように思えますが、それは意識してのことですか?
A.まずミステリーというものはロジックの立て方などが非常に入り組んでいるんですよね。そこに人間関係のねじれが入ると余計に入り組んでしまい、読者の方はついていけないと思います。
そのような点で、ロールというものを与えることにより分かりやすくした、ということはあると思います。

Q.北村薫先生は「人生が一度きりであることへの抗議」と言っていましたが、小説はなぜ書かれ、読まれるんですか?
A.そうですね、私も若い頃、北村薫先生のその言葉を聞き、非常に感銘を受けました。もうそれは完成されていて、これ以上付ける言葉はないんですが、一つ、付け加えるとしたら、物語というのは書かれてしまう。読まれてしまう。そのような「生き物」であると思います。
小説が書かれ、読まれるのは積み重ねていった先に完成された小説が存在するわけではありません。完成された小説が世に出てしまうと、それ以外の小説の価値というのは無に帰すことになってしまいます。
小説が書かれ、読まれるというのは、その時代であったり文明が求めているのでは、そう考えています。

Q.執筆する際に使用しているソフトウェアと気を付けていることは何ですか?
A.まず一つ目の質問へのお答えですが、Tera Padという無料のソフトウェアを使っています。これは横書きになっていますが、私自身、元々ネット上で小説を発表していたこともありあまり抵抗はありません。
ただ、ここが重要なんですが、印刷した後、縦書きになった文章を読むとおかしいことに気付くことがあります。これが二個目の質問の答えになるかと思います。

Q.小市民シリーズに出てくるスイーツのモデルとなった店はありますか?
A.えー、すみませんほとんどありません。
ただ、「シャルロットだけはぼくのもの」を書くきっかけとなったお店は吉祥寺にあります。シャルロットは見た目も名前も非常にかわいくていつか小説に登場させようと思っていました。あ、ここで吉祥寺のお店の名前を出さないのはその店があまり美味しくないんです(笑)
でも、同じく吉祥寺にあるレピキュリアンというお店は美味しい(笑)というか神戸に住んでるなら(質問者が神戸出身)もっと美味しいお店があるでしょ(笑)えーとどこだったかな三宮駅からずっと東にある生田神社の近くのお店(笑)タルトが美味しくて……そう! キルフェボン!(後でア・ラ・カンパーニュに訂正)

Q.米澤先生は小説を書くとき何から組み立ててますか? それと「いまさら翼といわれても」の構想が浮かんだのはいつですか?
A.ミステリーから組み立てています。フーダニットやホワイダニット、密室といったものですね。
ただ、例外もありまして、「王とサーカス」なんかはプロットや設定が何も揃っていない段階からよし、「王とサーカス」という題名で書こう、と思った記憶はあります。後は……この「いまさら翼といわれて」もそうですね。題名から入りました。
二つ目の質問の答えにもなるんですが、「連峰は晴れているか」の後、角川さんと話し合いを重ねた末に、次作は短編集として出す方向になったんですが、それが大体7年前(2010年頃)。そこから千反田の話を書かないといけないと思ったところ、「いまさら翼といわれても」という言葉が思い浮びました。それで、よし、これで行こうと(笑)
他にもリドルストーリーを書きたいから追想五断章を書いたりと、様々ですね。

Q.「巴里マカロンの謎」では小鳩くんの家が名古屋から電車で20分と書かれていますが、小鳩くんの家はもしかして愛知県ですか?
A.作中に木良川という川がでてくるんですが、これは「木曽川」と「長良川」を合わせたものなので小鳩の家は、愛知の植民地と言われる岐阜にあるかと思います(笑)
後、どうして舞台を名古屋にしたかというと、夏季限定でスイーツ店を作り過ぎたから(笑)これ以上スイーツパラダイスになるのはおかしいだろう(笑)じゃあもう街を出るしかないと(笑)

Q.本の装丁って作者は関わりますか?
A.基本はブックデザイナーという方が担当しています。
ただ、例外もありまして新潮社さんなんかは新潮社装幀室というものがありまして、そこでやっています。装幀の「幀」が難しくて……確か「はばへん」ですよね? 誰かわかる方います?……一応国語のプロなのに……そこから飛び降りたい気持ちですね(笑)
それで著者も一応関わることがありますが、上がってきた案に意見を出すくらいですね。
一度あったのが、営業の推薦する装幀が一言でいうとすごくダサくて、これはどう考えても私の読者が求めているものではない!(笑) 売れるには多少のダサも必要だというのが営業の意見だったんですが、私の担当者と私が一緒に他の装幀を指差して、
「ありがどうございます。これで営業と闘えます!」と担当者が言ったことはありました(笑)

Q.古典部シリーズには神垣内連峰という山が出てきますが、儚い羊たちの祝宴にも登場していますよね? 他にも月刊深層が「二人の距離の概算」とベルーフシリーズに出てきたりと、作品間で繋がりが出ているように思えますが、違いますか?(ちなみに「わたしたちの伝説の一冊」には月刊コミック シン・ソーがある)
A.作品間で繋がりを出して中身を面白くするという作家は伊坂幸太郎さんがいますが、私の場合ただ使っているだけなので、あまり深追いしないで下さい(笑)

Q.なぜパイナップルサンドを潰したんですか?  モデルになった「バグパイプ」はとても素晴らしい店なんですが……
A.元々バグパイプをパイナップルサンドのモデルにしようという考えはなくて、それはアニメーションの方ですね。パイナップルサンドのモデルというか、言葉を借りたのは登場聴いていた「BLANKEY JET CITY」の「パイナップルサンド」ですね。
それで、パイナップルサンドを潰したわけですが、「二人の距離の概算」の話の都合ですね(笑)ただ、一つ抜け道を残していて、補修工事にしておいて、後にしれっと復活しているかもしれないですね(笑)

Q.折木供恵は作中で神の手というか、作者に一番近い立ち位置ですよね?
A.先ほどロールについて話しましたが、折木供恵も機械仕掛けの折木供恵から、折木供恵になる日が来るかもしれないですね。

Q.先生は誰に向けて書いていますか?
A.中井英夫さんは小説を、
「天帝に捧げる供物。一行でも腐ってはいけない」と評しました。誰に向けて書いているというより、執筆中は崇高なものに向かって書き、小説自身を完成させるために書いています。
ただ、積み重ねた先に完璧な小説があるという考えは持っていません。一つの完成をもって他の小説が無に帰すということはあってはならいないと思っています。

Q.「鏡には映らない」において折木が取ったいじめを防ぐという行動はモットーに抵触すると思いますが……
A.折木には気付いてしまったからには加担したくないという思いがあったかと思います。「箱の中の欠落」における折木を見てみてもそうです。
ちなみに作中で折木は福部とラーメンを食べに行きますが……違う(笑)謎を解くために散歩している(笑)そこで「二年前もこうしてラーメンを食べたよね」という会話が出てきますが、この二年前が「鏡には映らない」の出来事だと考えてもらって構いません。
それで、折木には加担したくないという思いがあったんですが、同時に奮闘を起こすまでもないという考えもありました。折木の取った行動は自己満足かもしれないですが、それが彼の精一杯の行動だったかと思われます。

Q.「さよなら妖精」は単行本、文庫本、新装版と三回世に出されましたが、新装版で「花冠(かかん)の日」を収録した意図はあります?
A.そうですね私は「はなかんむりの日」と呼んでいますが、本にはルビが振っていなかったのでどちらでも構いません。
それで「花冠の日」書いたことですが、元々私が新装版を出そうと思い至ったわけではなく、ある日東京創元社さんから連絡があって「さよなら妖精の新装版を出しませんか?」と。
王とサーカスにマーヤへの追悼文のようなものを載せましたが、没後何十年を迎える彼女に手向けたいという意思はあったと記憶しています。

Q.クドリャフカの順番では四人別々の視点から一人称で書いていましたが、これって難しくないんですか?
A.そこは私プロなんです(笑)大丈夫です(笑)

Q.作者の解釈と模擬テストが出した答えと食い違うことってあるんですか?
A.確か私の記憶ではベネッセのテストに作者の解釈を問うような問題は出ていなかったと思いますが、著者と解釈が異なるというのは単に著者の力不足であり、恥ずべきことだ考えています。国語の問題は文章から読み取れることを問う問題なのである意味日本語の問題であり、著者と解釈が違うというのは起こらないと思います。
だって「リンゴが赤い」という文章があって、
「いや、実はこれは哲学的でエキセントリックでオマージュなのだ」ということが読み取れます?(笑)ですので解釈が違ったら著者は恥ずべきだと考えています。

Q.キャラクターを作る時に気を付けていることはありますか?
A.キャラクターを「作る」というのはあまり適切ではないと思います。このキャラクターはこの場面でこういうことを言う、このキャラクターは言わない。そのような判断をすることがキャラクターに命を吹き込むということではないでしょうか。
確かにこの場面でこのキャラクターが推理したら楽だなと思う場面はありますが、そこはぐっと堪えることを心がけています。

Q.先生は漢字をあえて平仮名で書くことにより文章に柔らかさを感じさせますが、何か意図はありますか?
A.個人的に難しい漢字や言葉を使いたがるのは若い作家に多く、統計的にも明らかなんですよね。
確かにご年配の方にも「いや、全て漢字を書くことで自分の文章になる」という方もいらっしゃいます。ただ、私の場合は状況に応じて使い分けて、文章の調子を整えて行きます。
「いまさら翼といわれて」でも、「いまさら」や「いわれても」を漢字に直すことができます。「いわれても」を「言われても」にしなかったのは、「言」を使うとどうしても話者を意識してしまいます。この場合は千反田が父親に言われたことが問題ではありません。父親の存在を消したかったので、「いわれても」は平仮名にしました。

Q.古典部シリーズのキャラクター達はいつの時代に生きていますか?
A.2001年頃で考えています。
作中で折木と千反田が携帯を持っていないことを驚かれる描写がありますが、当時は携帯の普及率は今ほど高くなかったので、現在ほどは驚かれてないでしょう。
ただ、2001年ですと後に9.11を迎えることになるんですね。当時はその影響もあってどんどん修学旅行が中止になっていった(笑)ですので折木達は無事修学旅行に行けるのかということが当面の悩みです(笑)もしかしたら中止になるかもしれませんね(笑)

Q.古典部シリーズと小市民シリーズの違いは何ですか?
A.小市民シリーズの彼らはミステリーのお約束みたいなもので、名探偵であるがゆえに義務的な成長ができない。そこが古典部シリーズとの違いなんですが、じゃあ小市民シリーズの彼らが成長しないかと言ったら、成長するんですね(笑)勝手に(笑)

Q.読めない本に出会ってしまったらどうしますか?
A.私の場合、読めない本に出会ってしまったら、一旦その本は置いておいて、他の本を読んでみます。そして、何冊か読んだ後、読めなかった本に回帰してみると、これが意外と読めるようになるんですね(笑)不思議と(笑)
本を読むのに勉強が必要だというのも変な話ですが、準備不足だったのでしょう。

Q.古典部は本来どんな活動をしていたんですか?
A.それは、今後書かれる予定なので待っておいて下さい(笑)変更になるかもしれませんが(笑)

Q.読み手に対して気を付けていることはありますか?
A.主語述語関係には気を付けて書いています。
複文となると文章ごとに主語があって述語があって、ここが分かりにくいとどうしても読みにくくなる。どうしても長い文章になってしまうと時は分かりやすいように主語を補ったりしていますね。何かいい例があればいいんですが……ちょっと見当たりませんね(笑)
説得力が薄くなりますが、私の場合、一度にまとまって書いた後、読み返すと主語述語関係がめちゃくちゃになっていることもあるので気を付けてます(笑)

■閉会 そしてサイン会へ

米澤先生に会えた嬉しさとその仏のような人柄にふわふわしていたら閉会になりました。

終了の挨拶で朝日新聞社の方が登壇されてこんなことを言いました。

「こんなに早く参加希望者が定員に達したことはありませんでした。募集から3時間ほどのことです。みなさんの米澤先生への愛が感じられました」

まあ米澤先生は会いに行けるアイドルなので当然ですよね。飛行機で参加するガチ勢の方もいらっしゃったので……

その後は米澤先生を囲んで集合写真を撮影したりして、最後にサイン会が開かれました。

このサイン会は「いまさら翼といわれても」以外の著作にもサインを頂けるとのことでしたが、この読書会が思い出になると思って「いまさら翼といわれても」にサインを頂戴。

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そういえばサイン会の待機列で前方から、

「これで米澤先生のサイン本コンプリートだ」

という声が聞こえました。ガチ勢って怖いですね(梅村はこれが初めてのサイン本)

それと緊張で喉が渇き過ぎて何も喋られないんじゃないかと思いましたが、握手も快くして頂きました。米澤先生の手は大きくて何か全てを包み込んでくれるような暖かさも感じましたね……

■読書会の後

以上で本当の閉会。帰路に着きました。

推しのサイン会とか握手会に参加するとこんなにも多幸感に包まれるんだなって思いました。やっぱり生きている推しは最高。

そんなふわふわしたテンションのまま名古屋駅近くの三省堂書店に行ってしまったので「いまさら翼といわれても」を追加で買うことになりました。

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まあしょうがないですよね。

米澤先生に印税が入るのでOKです。

■最後に

名古屋での読書会は全てが新鮮で米澤先生のことがもっと好きになりました。米澤先生の創作論だったり古典部シリーズのこぼれ話が聞けたのも良かったんですが、何よりも先生の人柄が最高なんですよね。神というより仏なんですよ。

読書会の翌日は学校だったんですが何か生きる喜びで世界がきらきら輝いて見えましたもん。テスト前で月曜日だというのにあり余るエネルギーで必死に自転車を漕ぎました。

今更ですけど、このような機会を設けて頂いた朝日新聞社さんとJPICさん、そして何より米澤穂信先生に感謝申し上げます。ありがとうございました。

↓名古屋での読書会は記事にもなってるよ。


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