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【R15:STORY】アートとデザインの臨界点を探し求める・西村亮哉

ギター弾き語りシンガーソングライターであり、映像クリエイターやデザイナーとしても活躍する西村亮哉(にしむら・りょうや)。「自己表現だけを追求することに虚しさを覚えた」と語る彼は、他者表現と創作とのバランスをとるべく、今春から美大で学び始めた。そんな西村が「人生の中で大切にしたいと考えていること」を聞いた。


好奇心旺盛だった少年時代

福島県郡山出身の西村は、幼稚園の卒業文集に、将来の夢を『歌手』と書いた。「どうしてそんなことを書いたのか、さっぱり分からないんです。歌うことが特に好きだった記憶はありません。先生もびっくりしていたことを覚えています」。

真剣に『歌』へ取り組むようになったのは、小学校6年生のとき。親戚の結婚式へ出席したことがきっかけだった。

「余興の席で、おじさんがオリジナルソングを弾き語りしていたんです。すごくカッコよくて、『僕もやりたい』と思いました。祖父の家にギターがあるのは知っていたので、すぐに電話をして『ギターを貸してくれ』と頼みました」。

同時期に観た映画『二十世紀少年』にも影響を受けた。「主人公のケンヂがギターを弾き語って、カセットテープレコーダーで録音するシーンがあるんです。自分も同じことをしてみたいと思って、映画に出てきたのとまったく同じ型のカセットテープレコーダーを買いました」。

まず歌詞を書き、読み上げるようにしてメロディをつけ、テープに録音。繰り返し聴きながらギターを弾き、コード譜に起こしていった。

「その年のうちに、最初のオリジナル曲を完成させました。それからもカバーはあまりせずに、オリジナルを中心に弾き語りを楽しんでいました」。

西村と音楽の関わりは、ギター弾き語りだけではない。小学校4年生からオーケストラに参加し、コントラバスを担当。中学校でも吹奏楽部に所属し、コントラバスを弾くとともに、友人と3ピースバンドを結成した。

「誘ってくれたのは、同じ部活でフルートを吹いていた男子です。僕はコントラバスだからベース担当…となりそうなところですが、やっぱり目立ちたかったので、ギターボーカルになりました」と笑う。「the pillowsに憧れて、彼らの曲のカバーから始めました」。

2013年には、中高生だけでつくるイベント「ナキワラ!」の音楽部門へバンドで出演。Zepp Nagoyaで開催された全国大会では、西村が作詞作曲した『花ヒラク』を演奏した。

高校へ進学した西村は、再び吹奏楽部へ入ったが、2ヶ月ほどで退部した。「小学生のころから6年間もやったからでしょうか。興味が薄れてしまいました」。

代わりに、社会問題についての関心が高まった。学校の教師に勧められ、高校1年生の秋に『BEYOND Tomorrow 東北未来リーダーズサミット』へ参加。

このサミットでは、東日本大震災で被災した高校生100人が東京に集まり、経営者や政治家、スポーツ選手―いわゆるトップランナー達とのディスカッションを行った。

「僕自身、中学校1年生の時に被災しています。でも内陸部でしたから、被災の度合いは高くありませんでした。サミットの場で、初めて、津波で家を失ったり、肉親を亡くしたりした同世代の高校生と会ったんです。そこで彼らの体験を聞いて衝撃を受けました」。

彼らは「地域に対して何か貢献したい」というモチベーションを持ち、復興イベントや町おこしに携わっていた。

「『震災は本当にあったんだ』と強く実感し、『自分も何かしたい』と考えるきっかけになりました」。

サミットの後は、被災した高校生へのインタビュー記事を『東北復興新聞』というWEBメディアで連載するほか、中国やアメリカを訪れる機会も得た。

「あのサミットが人生のターニングポイントになった、と言うと大げさかもしれませんが、あの時以降、様々なチャレンジをするようになりました」。

中学時代に結成したバンドの活動も続けていたが、15年4月、高校3年になる直前に郡山PEAK ACTIONでのライブをもって活動休止。西村は、大学受験への準備を始めた。

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しかし、将来のビジョンが明確にあったわけではない。

現役では国立大の法学部を受験するも残念ながら不合格となり、浪人生活に突入。二年目の受験では志望先を文学部に変えて受験した。

「浪人時代の予備校の古文の先生が自分の歌を聴いてくれて、色々と感想をくれたんです。『君の歌はすごくいい。人の心を動かす可能性があると思う。大学で詩を学び、比喩の使い方などを身につければ、もっと深みが出るだろう』そう言ってもらったことに影響を受けました」。

しかし、二度目の受験でも、第一志望の合格通知を手にすることは叶わなかった。

「滑り止めの私大は受かっていたんですが、当時はプライドが高かったのもあって、行く気になれませんでした。すると親から『大学に行かないなら、これからどうするんだ?』と訊かれて。『音楽で食べていく』と答えました」。

これまた極端な選択である。反対されなかったのか?と編者が問うと、彼は首を振った。

「うちの親は、昔から、一切の選択を僕自身でさせてくれます。『お前の人生だから好きにやれ。責任は自分でとれ。』というスタンスで。当時はありがたみが分かっていませんでしたが、こうして振り返ってみると、我が親ながら凄いと思います」。

音楽一本で駆け抜けようとするも、
始まりの地でゴールを迎える

かくして大学進学をやめた西村は、17年4月、一本のギターを背負って上京。その懐には、現金2万5千円と、野心だけがあった。

しばらくは介護業界でアルバイトをしながら、曲作りやライブ活動に邁進。7月にはインディーズレーベルへ所属した。

「自分の好きなアーティストが参加するレーベルに所属できたのは、大きなチャンスでした。でも、上手くやれませんでした」と、彼は振り返る。

「当時の僕は『評価されたい』という気持ちが強すぎました。曲をひとつ作っても、『こんなんじゃレーベルの人には聞かせられない』と、自分の殻に閉じこもってしまったんです。

今思えば、どんなに未熟でもアウトプットを続けて、フィードバックを貰って、コミュニケーションをとりながら制作を続けるべきでした。でも一人で悩んで、助けを求めることすらできなかったのは、失敗でした」。

思うようにいかないことに苛立ちを覚えつつ、都内各地のライブハウスで経験を積んだ。2~3ヶ月に一回は、地元の福島県内でもライブを行った。

上京2年目には俳優業にも挑戦。音楽劇のオーディション受け、俳優として『座・高円寺』の舞台に立った。しかし、いずれも思うような成果を得られず、焦りを感じた。

上京3年目を迎えた西村は実績を作るべくワンマンライブの開催を決意。会場に選んだのは、思い入れのあるライブハウス・青山 月見ル君想フだった。

「好きなアーティストのひとりにGOMESSさんというラッパーがいるんですが、17年4月1日に上京したのは、その日、彼が月見ルで行った単独ライブを見るためでした。その日、彼のステージを見てから『僕もいつかここでライブをやるんだ』と心に決めていたんです」。

ワンマンライブに向け、ライブの本数を大きく増やした。

「直前は、一ヶ月に30本のライブをやりました。くたくたになりながら頑張りました」。演出やセットリストにこだわり、集客にも力を入れた。

そうして迎えた19年9月21日、三年越しで憧れのステージに立った西村。会場には150人のファンが集まり、ワンマンライブは大成功を収めた。

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だが、ここで想定外の気持ちの変化が起こる。

「『ワンマンが終わったら、その実績をもとに、さらに上を目指して活動していくんだ』と思っていました。ここをスタートラインにするんだ、と。ところが、終わってみたら、なんだか満足したような気持ちになってしまって、前に進もうとする気持ちが起きなくなったんです」。

芸術祭で見つけた、新たな光

燃え尽きてしまった西村だが、決まっているスケジュールはこなさなければならない。ワンマンライブ直後の10月、渋谷La.mamaのブッキングライブに出演した際のことを「ひどかったです」と、振り返る。

「『ライブをやればまた自分の中に気持ちが生まれるかもしれない』と思って、会場へ行きました。でもリハーサルをしたら、やっぱり気持ちが入らなくて。思わず『今日はライブできません』と言ってしまいました。

『こんな状態ではステージに立つ資格がない』って号泣して。ブッカーの方が『一曲でいい、ワンコーラスでもいいから歌ってほしい。それでも辛かったらやめていい』と言ってくださったので、なんとか本番に向かう気持ちを作ることができました」。

本番直前まで、「今の自分に歌える曲は何だろう」と自問自答した。

「昔の曲をひっぱりだして、今の自分の気持ちに合うようにジグソーパズルみたいにセットリストを組みました。最近の曲はほとんどやらずに。そうしたら、その日は結果的にいいライブができました。いい意味でタガが外れたかもしれません。La.mamaのスタッフの皆さんには、本当に感謝しています」。

転機が訪れたのは、10月末ごろだった。

「友人に誘われて、多摩美術大学の芸術祭に行ったんです。そこではじめて『美大』という場所の存在を知りました。それまでの自分にとって、大学といえば一般大学だけだったので」。

芸術祭には、見たことのない景色が広がっていた。

「美大の学生達は『自分は何を表現したいんだろう』と掘り下げて、それぞれの作品をつくって、見せ合って、高め合っている。そういう空間は新鮮で、魅力的に映りました」。

鬱々としていた西村のなかに、新たな選択肢が浮かび上がった。「『美大に行けば、自分が今後どういう表現をしていくかを探って、見つけ、磨くことができるんじゃないか?』と思ったんです」。

考えた末、12月に美大進学を決断。武蔵野美術大学のデザイン科を受験し、見事合格した。

あらゆる要望に応えられる自分になりたい

20年4月から晴れて美大生となった西村だが、今度はコロナ禍に見舞われた。対面授業の開始が延期となったことはもちろん、決まっていたライブが次々と延期や中止に追い込まれた。

オーディションを通過し、オープニングアクトとしての出演が決まっていたメジャーアーティストの福島での公演は、そのツアー自体が中止となった。

「美大に行くことを決めていて良かったです。もし、今年も音楽一本の生活だったら、きっと持て余してしまっていたと思います」。

自粛期間は、改めて自分の内面と向き合った。

「未だに、自分のアイデンティティには音楽があります。今後ももちろんライブ活動を続けます。ただ、自己表現だけでは満たされないんだな、と気づきました。もともと、人の役に立つことや、人の話を聞くことが好きなんです。これからは自分が興味をもった人や、ものについて表現するということをしていきたいです。そのなかで受けた刺激は、自己表現の充実にも繋がると思います」。

自己表現と他者表現を半々にすれば、バランスが取れるのではないかと考えている。

「自分が人生の中で大切にしたいのは、多様であることです。自分自身を決めきってしまわない。そのとき興味があることに対して夢中になって、飽きたなら次に行く。それを繰り返して、自分の中にたくさんの『かけあわせ』を生み出していきたいです」。

『歌をうたう人』は世の中にたくさんいる。『ジャーナリストとして被災地に入る人』も、『映像が撮れる人』も少なくはない。自分の中に複数の要素、職能、興味関心を取り入れて、それらがクロスしたところに、初めて『自分にしかできないこと』が生まれるのではないか、と彼は言う。

「たとえば『震災について何かを伝えたい』という想いと、『歌』があれば、震災について音楽的に表現できますよね『作品』には、感情や出来事などを、単なる情報以上にアーカイブする力があると思います。それら残していける作家でありたいです」。

今後の目標はありますか?と訊くと、彼は困った顔をした。

「昔も今も、人生設計がないんです」。すぐに答えは見つからないようだった。「将来のビジョンが全くないから、不安になることはあります。シンガーソングライター一本でやっていたころは、『音楽で失敗したら、もしかして一生バイト?』って怖くなっちゃっていた時期もありました」。

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だが、今は違う。

コロナ禍における自粛期間中には新しいチャレンジも始めた。

一般社団法人Bridge for Fukushimaが立ち上げた『Here I am -10年目の僕らの立ち位置-』プロジェクトにて動画の撮影と編集を担当。2020年8月から2021年3月まで、福島県の被災12市町村出身の若者たちの震災10年目を迎えての率直な声を動画作品として記録している。

夏には、内閣府の『男女共同参画基本計画』へのパブリックコメントを募集するプロジェクト『#男女共同参画ってなんですか』において、デザイナーとしてSNSのクリエイティブ制作を請け負った。

「高校生のころから動画制作が好きだったので、自分のライブ映像を編集して、YouTubeに投稿していました。デザインは、ライブのフライヤーを作ったりするなかで興味を持ち、勉強していました。そんな、かつて自分のためだけにがんばっていたことが、3年ほど経った今、仕事になっています」。

そうした経験が、不安を和らげたと言う。

「自分がしたいこと、できることを積み重ねていけばスキルが身につくし、それを使う機会は必ずやってくる。そうすれば誰かの役に立ちながら、生きて行けるだろう。

だから今は、たまたま大学へ行こうと思った時期に、偶然美大に興味をもって、映像やデザインにハマっていて、それでいいと思っています」。

誰かから「こんなことがしたい」、「こんなことで困っている」と相談されたら、「こうしたら解決できるよ」と悩みに応えられる人物になりたいと西村は語る。

取材終盤、彼は唐突に「今度、ある団体のブランディングに関わるんです」と言い出した。

「これまで生きてきて、多くの人と出逢って、『この人の志には価値があるな』と思うことがありました。決して派手じゃないし、爆発力があるわけでもないけど、この世の中にとって必要だなということが。

たとえば今一緒に動画制作をしているBridge for Fukushimaさんは、地元の中学生や高校生に伴走して、彼らが地域社会の問題に取り組むサポートをしています。地域の問題にきちんと向き合える、リーダーシップを持った人材を育てようとしているんです。

そういう活動って、正直なところ、あまりお金にはなりません。だからデザインなどには予算がつけられずにいます。今後も、有名なデザイナーや大手の広告代理店が関わることはないでしょう。彼らの活動が届くべき人に届いたり、広がりをもったりするために、こういった場所にこそデザインが必要だと思うんです」。

彼はぽつりと、「そういうところに価値を与えられる会社を作れたらいいな」。

「会社を作ることが目的ではないけれど、もし自分がやりたいことを実現するなら、そういう形になるかもしれません。一人で、ではなく『この人とやりたい』と思える相手とチームを組んで、同じ志でやれたらいいですね」。

今回のコロナ禍で図らずも経験した通り、我々が普段『当たり前』だとしているものは、けして『当たり前』ではない。こんなにも一瞬で全て引っくり返りうる世界の中で、『かくあるべき』という概念に縛られた人生設計図を描くことのほうが、非現実的なのかもしれない。

西村亮哉の潔さは、美しいと思った。

text:momiji photo:Ono Mizuki

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