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好きでやっていたはずが、そうではなくなっていた

なぜ、noteを始めたのか。これからやろうとしていることの原点は何なのかを、後々自分が確認するためにもここに記しておこうと思う。

大好きなバスケ

バスケを小5~大学2年生の秋まで約11年間やっていた。バスケはスポーツで一番面白い競技。適当にやっているように見えて、めちゃくちゃ考えているし奥が深いところに面白さがあるから。とにかくわたしはバスケが大好きらしい。

それでもバスケを辞めてしまったのは、「楽しくなくなっている自分に気づいた」から。”好きなバスケが嫌い”になりかけていた。当時はそんな自分を受け入れたくなくて相当苦しんでいたが。

今考えれば、「先が見えな」くて楽しくなくなっていたのだが、それはなぜなのか、、、、、

試合に出ることが一番のやりがい

答えは、、「試合に出れないから」(笑)。単純すぎ。そんなん努力がたりないだろ、耐えろよ、逃げるなよって言いたくなるのわかる。これらは当時自分自身に言い続けた言葉だから。

私は試合に出るために毎朝自主練していたし、授業後の練習も取り組んでいた。それはチームメイトも同じはずで、みんな試合に出るために頑張っていた。

推薦と一般入試のあるこの大学ではバスケ部のチームも二つに分かれていて、私は一般枠のBチームに所属していた。Bチームと言えども専任のコーチやトレーナーもいて、練習時間も場所もあったし恵まれた環境であった。その中で試合に出れるかどうかといった点が、モチベーションに繋がっていた。

入学から夏前までは、練習試合があっても1秒たりとも出ることはなかった。納得のいかないときは、コーチに聞きに行き課題を明確にするようにした。夏の試合では、出場機会を多くもらい実力を示すことができ、秋の試合ではチームの流れが悪いときや接戦のときに、交代要員として出ることができていた。この時は、バスケがとても楽しくて何よりも自分を必要とされていることが最高のモチベーションに繋がっていた。

その後、4年生が引退して新チームに変わった時も調子がとてもよいと感じていた。

突然の激痛

しかし、そんな時間もつかの間。3月のある日の練習、右足首の激痛で練習ができない状況になってしまった。何日間か様子を見て、痛みがなくなってきたので再び練習に参加したが、再び激痛に襲われた。

歩くのも痛かったので病院に行くと、関節ネズミと言われた。今までの捻挫の後遺症が残っているまま練習をしてきたため、骨同士がこすれてかけらになり関節の中に入って激痛を起こすという。手術をして取り除けば、痛みはなくなると言われたが、骨のかけらがありすぎてどれが原因か特定できないため、MRIをとることになった。

2週間後、MRIの結果を聞きに再び病院に行った。すでに1か月今後どうしたらいいのかもわからず、リハビリ(リハビリと言っても足を動かせないので腹圧のトレーニングをひたすらやった)をやっていたので、やっと前に進めるという期待で行った。

しかし、MRIをとってもはっきりしなかった。骨片は小惑星のように足首間接の周りを覆っていた。結局、痛みを抑える麻酔治療で様子を見ることとなった。

全力でできないもどかしさ

その後痛みが完全にとれたわけではないが、動くことはできるくらい緩和されていた。一か月半のリハビリを終え、コートに戻った。しかし、バスケをやっているときの違和感にすぐに気づいた。激痛の再発を恐れ全力でできなくなっていた。ケガをした選手ならこの怖さは誰でも経験したことがあるだろう、、、。

試合が控えていたため、リハビリもそこに照準を合わせて行っていた。Bチームの試合はなかなかないからどうしても間に合わせたかった。違和感はあるものの痛みはなかったので、やっと試合にでれるととても楽しみでしかたなかった。

期待していた自分の甘さ

自分の考えが甘かったのかもしれない。試合当日、自分ひとりだけコートの上に立つことはなかった。1~4年生まで10人程、1年生だって試合に出ていた。その時の悔しさと悲しさは今でも忘れられない。

帰宅してからも何もやる気が起こらずただただ泣いていた記憶がある。

3日後、思い切ってコーチに尋ねた。そのコーチは試合で指揮はとっていないアシスタントコーチだったが1番話しやすかった。

「どうしたらチームに必要とされるのか、この前出れなくてとても悔しい思いをした」という趣旨を伝えた。「必要とされている存在だ。去年の秋のプレーを思い出して」と言われいくつかアドバイスをもらった。

次の日、試合で指揮をとっていたコーチに呼び出された。きっとアシスタントコーチから話を聞いたのだろう。「試合に出さなかったのは、ケガで全力でできないと判断したから」ということだった。

それならそれで、試合前に言うことは十分にできただろう。素直に「ひどい」と思ってしまった自分を責めないでほしい。(コーチに悪気はないと思うので。)

とにかく悔しいよりも悲しかった。

楽しみな試合が苦痛に変わる

そこからは、試合が嫌でたまらなかった。最初は「誰が見ても出れるくらいの実力をつけよう」とモチベーションをあげていたが、それにも限界があった。もう何をやっても、頑張っても、きっと1秒たりともチャンスをくれないのだろうと思ってしまうほどだったからだ。

試合に出れないとわかっていて試合が楽しみな人がいるのだろうか。その予想は毎回的中していて、試合中に帰りたいと何回も思った。泣くこともできなかった。

試合に出ることが全てじゃない、というのはわかる。チームが勝つために裏方の仕事もたくさんやっていたし、それが勝利に繋がると思いながらやっていた。

しかし、そこにはやりがいを感じなかった。試合に出ることを目的にしていたし、そこから楽しいという気持ちが湧いてきていたから。

春の試合も夏の試合も、1試合丸々出れないことが普通になっていた。そのころから、なんで部活をやっているのかと日々考えるようになっていた。部活前に目標を決めていくものの、帰りには自信喪失に追われ訳も分からず泣いていることが珍しくなかった。

部活を辞めるということ

秋の大会の前、辞めることを決意した。先が見えなくなっていてたし、たとえ4年生になって試合に出れたとしても、そこに嬉しさはなかった。部活に縛られた生活から解放され、部活外の世界に出てみたかった。

そのことをBのコーチに言いに行ったが、案の定反対された。考え直してほしいと言われた。まあ、そう言われるのは覚悟していた。

その後も、スムーズに辞めることはできなかった。Aチームの試合前であったから、「自分勝手だ」と言われたのも仕方がないが、自分のことだからそう言われようと構わなかった。(とか言って実際は泣いてたけど笑。)


救いはチームメイト

応援してくれるとか、受け入れてくれるとか、期待していた自分が甘かった。でも、チームメイトはわたしの気持ちを応援してくれていた。

それが本心でなくても、その言葉を出さず応援してくれる仲間の存在が唯一の助けになっていた。

トレーナーさんたちも応援してくれた。自分のやりたいことをやれ、いつでも助けになるからと。

これから

約8か月間、考え悩み続けた結果辞めた身として言えることは、「この決断は間違っていなかった」ということ。部活を続けることが美化されつつあるが、それは違う。

しかし、辞めることが困難であることは身をもって経験しているし、もしそのような環境でなかったら部活をやりながら他のやりたいこともできたかもしれない。

わたしは、部活動、体育からスポーツを純粋に楽しめる人が増えたらいいと考えている。逆に言えば部活動や体育が原因でスポーツが嫌になった人がいると思う(現に、自分がなりかけた)。

スポーツを通した人材育成をするために、「スポーツ×○○」の人を増やし、スポーツと教育という面から改革していきたいと考えている。

スポーツの価値を伝え、楽しみ、そこから大きく成長できるのではないか。

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