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人が人を傷つける事は、避けられないのか。

   人類が感情を持ち合わせている限り、気持ちの浮き沈みは避けられないものではありますが、身近な人の死や、行きたかった学校や会社に行けなかったなどの自分ではコントロール出来ない出来事を除き、人の努力によって防げる痛みもあるのではないかと思う今日この頃。少し心の痛む出来事が続いたので、このテーマについて書いてみる事にします。

「故意」と「過失」


   そんな事を書き出した僕ですが、被害者面をしたいわけではなく、過去に傷つけてしまった人も顔が浮かびます。しかし「よっしゃ、傷つけてやろう」と意気込んで傷つけてきた訳ではなく、自分自身の未熟さゆえに「結果として」傷つけてしまったと、当事者である僕は振り返っているんですが、ここも重要なポイントなんでしょう。早速言葉の意味について調べてみました。

【故意】わざとすること。また、その気持ち。

【過失】不注意などによって生じたしくじり。過ち。

 自分の言動の先の結果が分かって実行に移すか、否かがポイントなようです。そう考えると、人間間のやりとりによって双方、またはいずれかが傷つくケースのほとんどは「過失」であるように思います。

故意と過失は、グラデーション。

   言葉を調べてみて気付いた事は、「故意」と「過失」は裏表みたいな関係よりも、グラデーションみたいな関係だなと思いました。誰かにとってはしくじりでも、誰かにとっては「そんなん考えればいいだろ」と捉える事も出来るなと。過去に傷つけてしまった人達との出来事を今思い返しても、傷つけない方法は、今の僕にはいくつか選択肢が思いつきます。人類間による傷つけ合いは、この「故意」と「過失」の狭間で苦悶してきたんでしょう。

傷つけ合う事の、合理性。

 「過失」と「故意」がグラデーションの関係にあり、且つ(先天的なものは除き)個人の経験により、人が人を(過失的に)傷つける事を避けられないとすると、傷つけ合う事による経験により、グラデーションの「過失」と「故意」のしきい値を把握するというのは、合理的にも思えます。傷つきやすい体質である僕にとっては、この合理性は、あまり直視したくないものですが、あくまで合理性のテーブルの上ではそうなんでしょう。

傷つかない僕を、僕は望んでいるのか。

 そんな中ふと出会った、ドラマ『聖者の行進』のいかりや長介さんのセリフに、考えさせられる言葉がありました。

強くなることはないです。
弱い自分に苦しむことが大事なことなんです。
人間は元々弱い生き物なんです。
それなのに、心の苦しみから逃れようとして強くなろうとする。
強くなるということは鈍くなるということなんです。
痛みに鈍感になるということなんです。
自分の痛みに鈍感になると、人の痛みにも鈍感になる。
自分が強いと錯覚した人間は他人を攻撃する。
痛みに鈍感になり優しさを失う。
いいんですよ、弱いまんまで。
自分の弱さと向き合い、それを大事になさい。
人間は弱いままでいいんですよ、いつまでも…。
弱い者が手を取り合い、生きていく社会こそが素晴らしい。

自分の心の弱さをコンプレックスに感じ、「最強になりたい」というモチベーションで死に物狂いで動き回っていた時もありましたが、打たれ弱さだけは治りませんでした。しかし、この言葉の世界線では、僕はこのままでいいのかもしれません。色んな出来事に傷つくから、グラデーションのしきい値を理解していき、僕が同じ過ちを繰り返して、同じ理由で傷つけてしまう人を少なくしていけるのだと、そんな風に思います。

人が人を傷つける事は、避けるよりも、受け止める事にする。

 色々と整理していく中で、僕なりの答えは、人が人を傷つけてしまう事は、避けられないというよりも、受け止めるようにしたいなと。もちろん、現実世界でも、一般的に「故意」だと捉えられるものもありますが、人類はまだ発展途上の最中で、このグラデーションのしきい値を模索する中で苦悶していると考えると、いつか人類は「故意」と「過失」のしきい値を見出し、いかりや長介さんのセリフにあった「弱い者が手を取り合い、生きていく社会」を手にしていくのだと思うと、今は受け止めることにしました。
   一方で、人類がそれを手にするのはいつになるか分かりませんが、僕は人生の中で手に入れたいなと思います。

 いつもはふざけた文章を書きますが、今日はノンフィクションでお届けしました。

「最後まで読んでくれた」その事実だけで十分です。 また、是非覗きに来てくださいね。 ありがとうございます。