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○○らしさってなんだろう?

この前、ふと…
父親らしさってなんだろう?
そんな疑問がわきました。

子供と過ごしているとき、何か抵抗感というか、力みというか、ナチュラルでない自分がいました。

何か頑張っているような、でも何もしてあげられてないような、そんな感じ。

自分って父親らしくないのかな…。

そんな思いがよぎったとき…

ん?

父親らしさってあるのかな?

という疑問が湧いてきました。

そこに自分はいるのだろうか?
周りからの期待を背負わされているんじゃないかな?

正解とされるキャラクターを自ら演じ、背負っているんじゃないのかな?

そんな疑問でした。

私たちは、それぞれに社会的な立場や役割があります。

上司、部下
○○会社の社員
○○という役職
父親、母親
大人、子ども
男、女
日本人
………

あげればキリがありませんが、読んでくださっているみなさん自身にも、社会的な立場や役割がきっとあると思います。

確かに、先祖代々受け継がれたDNAやエッセンス、その会社だったり立場だったりが継承している大切なものって、あると思うんです。

そこにある尊厳に、感謝や敬意はあります。
もちろん。

でも、それだけでいいのかな?

カテゴライズすることは、分かりやすくするという一面があり、便利です。

でも、それはすでにあるものを分類すること。

分類することから始まり、そこに誰かを、何かを当てはめていくのは、ナンセンスなのではないかと、私は思うんです。

カテゴライズが先にくると…
当てはめたはずのものが、当てはめたそれと、わずかでも違う側面を見せたとき、人は「らしくない」と、排除する傾向にあるんじゃないかな?

カテゴライズされた形よりも、
そこに「その人」がいることがいることが、とても大切だと思うんです。

自分以外の誰かから、外側から背負わされた期待や重荷をそっと脇に置いて、

自分として生きる。

私はそれこそが、大切だと思います。


とは言え、なかなかそうはいかないよ…
ということもありますよね。
(私もきっとそう…笑)

そのときは、関係性や、場面によって、その立場や役割の仮面をかぶればいい。

背負わされるのではなく、
自分の意思で、仮面をかぶったり、脱いだりすればいい。

大切なのは、外側から求められる正解を背負うのではなく、自分であること。

そして自分以外のものの本質を汲み取ろうとする意識。

簡単に当てはめて、理解できないものを排除するのは、これからの時代、不自由になっていくんじゃないかな…。

私はそう思います。

みなさんも、

形や正解を背負わされているだけじゃないのかな?
背負うのが正解だという教育や集合意識で、背負っているだけじゃないのかな?

そんな疑問を持って過ごす時間があってもいいのかもしれません。

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