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「NUMBER GIRL」という物語について - NUMBER GIRLの再結成に寄せて

そのニュースはなんてことのない平日に、なんの前触れもなく訪れた。

NUMBER GIRLが再結成する。

俺にとっては2019年、いやテン年代最大のニュースと言っても過言ではなかった。誰しも、単なる「好き」を通り越してある種ファナティックに信奉するバンドがあろう。俺の場合は、それがNUMBER GIRLだった。

NUMBER GIRLとの出会いは16歳の時に聞いた「透明少女」だった。
田渕ひさ子の突き刺すように激しく、そして乾いたギターのサウンド、中尾憲太郎のルードかつ力強いベースライン、アヒトイナザワがドコドコと大音量で鳴らすドラム。
そして、向井秀徳の初期衝動を抑えきれないかのごとき絶唱と、それとは裏腹のセンチメンタルな世界観。

なんだこのバンドは、とライブ映像をYouTubeで見たらそこにはポロシャツメガネのオタク風の青年がいた。あまりに普通の、ともすればあまりに冴えない男が鋭いサウンドに合わせて迸る衝動を高らかに歌い上げる。ロックはアウトローの占有物ではない、NUMBER GIRLの騒やかな演奏、これこそがロックなのだ、と電撃に打たれたような感覚がした。
NUMBER GIRLにヤラれてしまった俺は、あらゆるCD・DVDを買い集め、入試・面接など人生の節目には必ずNUMBER GIRLを聴いてから臨むようになった。

さて、NUMBER GIRLは90年代に(一部の界隈で)一世を風靡した伝説のバンドである。日本におけるオルタナティヴ・ロックの先駆者として、「NUMBER GIRL以前・以後」なんて呼称が生まれるほど後進に影響を与えた。ASIAN KUNG-FU GENERATION、Base Ball Bear、凛として時雨をはじめとして、中堅〜若手ミュージシャンのほとんどは(彼らに影響を受けないというあり方も含めて)NUMBER GIRLの影響を受けていると思う。
2/15の再結成の折には、Twitterでは即トレンド入り、さらには代表曲の「透明少女」、挙げ句の果てには、「NUMBER GIRLのように再結成してほしい」という文脈で、同じく90年代の音楽シーンに強い存在感を残した「スーパーカー」までトレンド入りするなど、改めてその影響力が露わになった。

NUMBER GIRLの魅力とは、世界観とその解像度の高さ、すなわち、心象風景を具現化する力の強さに他ならない。後述するが、この心象風景とは、NUMBER GIRLが一般的に認知されているような青春の風景に留まらない。
その心象風景は、映画で言えばレオス・カラックスやエドワード・ヤン、そしてATGに近い。例えば、都市の無機質さや匿名性であったり、ヘリコプターのバタバタであったり、団地で起きる飛び降り自殺であったり、青春期特有の衝動であったり、そして凛として奔放な少女たちであったり。
これまで、NUMBER GIRLにサウンドを近づけられたバンドは数あれど、世界観という文脈においては未だNUMBER GIRLが孤高の存在であると思う。

NUMBER GIRLの活動期間は1995年から2002年の8年間と短く、活動期間中に出したフルアルバムはたったの4枚。
しかしながら、4枚のアルバムはそれぞれ全く色が異なり、その変遷を追っていくことでNUMBER GIRLがどのような足跡を辿ったかを理解することができる。
端的に言ってそれは、NUMBER GIRLの初期衝動たる”青春へのセンチメンタリズム”が失われていく過程である。

特に、「少女」たちの描かれ方に注目することによってNUMBER GIRLの変容は明らかなものとなる。
NUMBER GIRLは、そのバンド名が体を表すかのように、多くの少女をモチーフにしている。
「Trampoline girl」「透明少女」「真昼間ガール」「Young Girl 17 SEXUALLY KNOWING」「日常に生きる少女」「Tuesday Girl」「Sentimental Girl’s Violent Joke」「性的少女」「SPACE GIRL」「GIRL IN MY BLOOD」「GIRLFRIEND GIRLFRIEND GIRLFRIEN」「黒目がちな少女」と、こんな具合に。そして、アルバムを追うごとに、「少女」たちの表象は大きく変化する。

1st Albumの『SCHOOL GIRL BYE BYE』では、青春のセンチメンタリズムが端的な詞に集約されている。

「現実と残像はくりかえし 気がつくとそこに ポケットに手を突っこんで センチメンタル通りを練り歩く17歳の俺がいた」
(OMOIDE IN MY HEAD)
「あのころの君と俺が描いた青春群像」(September girlfriend)
「街の中へ消えていく 感傷の風景を 俺はずっと見ていた 雨あがりの道路は そんな俺を笑うように きらきら光っていた」(センチメンタル過剰)
「忘れてた君の顔のりんかくを ちょっと思い出してみたりしてみた」(IGGY POP FANCLUB)

このアルバムにおいては、「俺」の目線から、青春の眩しさや「君」との思い出が語られる。サウンドも後期に比べるとかなりしっとりとしたものであり、リスナー一人一人が自らの個人史に重ね合わせて感傷と共感を感じ得るような秀作に仕上がっている。

2nd Albumの『SCHOOL GIRL DISTORTIONAL ADDICT』では、1stに比べて詞が幾分シニカルに、かつ客観的な立ち位置になっていく。

「都会の天井、ヘリコプターがうるさくて」(転校生)
「熱さを嫌う若者たちは冷え切った場所へ逃げてゆく 通じあわないで 触れあわないで それでも奴等笑いあう それでも奴等信じあう」(タッチ)
「赫い髪の少女は早足の男に手をひかれ うそっぽく笑った
路上に風が震え 彼女は「すずしい」と笑いながら夏だった」(透明少女)

このアルバムでは、「俺」の存在は息をひそめ、都会に生きる若者や少女の生態がつぶさに観察されている。
少女の表象も、1stで描かれたような、青春映画に出てきそうな天真爛漫な少女から、男に連れられて「嘘っぽく笑う」憂いを帯びた少女へと変貌を見せる。その変貌に合わせて、サウンドも1stより些か乾いたものになっていく。

3rd album「SAPPUKEI」は1st,2ndからあらゆる意味で大きく変化したアルバムと言える。

「殺す風景!生かす風景!」(SAPPUKEI)
「我々は冷凍都市の攻撃を 酒飲んでかわす」(BRUTAL NUMBER GIRL)
「ビルってる都市へ向かって ハガクレっている」
(URBAN GUITAR SAYONARA)

音楽雑誌「snoozer」が発表した「日本のロック・ポップアルバム究極の150枚」において37位にランクインしたように、このアルバムはNUMBER GIRLの名刺となるような名盤に仕上がっている。
「TATOOあり」や「SAPPUKEI」に代表されるように、サウンドの練度は明確に上がっており、ギターは鋭く刺すようなものとなり、リフは一度聞いたら忘れらないような鮮烈なものになっている。

その一方で、上記のように歌詞はどんどん意味を失い、抽象的でアナーキーなものになっていく。「歌詞」というよりは、向井のボーカルをサウンドの構成素の一つとしたインストのような風情も感じられる。

ただし、「少女」についてはしっかりと詞が紡がれ、かつその表象は2ndよりもさらに危ういものになっている。

「真夜中が狂いだす、笑い出すとき 軽やかに翔んでるガール あの娘は翔んだ でも俺、この喧騒に呑みこまれてしまう 
力強く・惑わされもなく ただ立っている あの娘は笑っている
でもゆらいで 傷ついて そして飛ぶ!飛ぶ! 少女は飛ぶ」
「戦いは翔んでるガールの完全勝利 真夜中に 狂い 翔ぶ あの娘の勝利」(Trampoline Girl)

「飛ぶ」ことが何かは最後まで明示されない。ただ、「ゆらいで 傷ついて そして飛ぶ」という歌詞と曲調から、そこはかとない自殺の気配が感じとられる。
都会の喧騒、さらにその喧騒の中で自らのアイデンティティを失いかけている「俺」をよそ目に、少女は飛ぶ。その少女のありようを向井は「完全勝利」を呼ぶ。
SAPPUKEIとほぼ同時期に発表された「真っ昼間ガール」も少女の自殺を歌っている。

「あー3万円でいいから 修羅場を見せて落っことして
落っことして 落っことして 落っことして×3 ムチャクチャにして
ワタシを ワタシを ムチャクチャにして
落ちるとこまでただ落ちたいの 諸行の無常を感じてたいの
真っ昼間から 飛び降り自殺見ちゃった
アッ夏のかぜ すずしいねスカートふわり 」(真っ昼間ガール)

ここにおいて、1stで描かれたような、「青春の女の子」はいなくなり、体を売って自殺に至る、まるで『リリィ・シュシュのすべて』の蒼井優のような、凛としながらも儚さを抱える女の子の像が浮かび上がる。

4th Album『NUM-HEAVY METTALIC』では、サウンドに祭囃子的なビートやダブが加わり、より土着的で、より退廃的な雰囲気をまとっていく。

「現代、冷凍都市に住む妄想人類諸君に告ぐ 我々は酔っ払った 今日も46度の半透明だった」(NUM-AMI-DABUTZ)
「INUZINI覚悟は戦後流行らん 花魁はがんばっているが都市はそんなものはいらん」(INUZINI)


と、歌詞はやはり意味を失い記号化されているが、「少女」に関してはやはりしっかりとそのありようが描かれる。

「記憶を消して、記憶を自ら消去した」
「あの娘は今日も歩いてた 知らない誰かと歩いてた。」(性的少女)

「夕方 売春婦は客を待ってた Tomboに笑いかけながら」
「季節と季節の変わり目に 恋をする少女だった時もあった」
(Tombo the electric blood)

「SAPPUKEI」で少女の肉体的な自死を描いた向井は、『NUM-HEAVY METTALIC』において少女の精神的な自死を描く。

「性的少女」では高校卒業間近の女の子が「記憶を消しながら」体を売り、「Tombo the electric blood」では、以前は恋をする少女だったが、今ではポン引きに身をやつす女性の悲哀が描かれる。

向井の描く世界は基本的に彼の心象風景であり、ある種彼の妄想であることを考えると、このような「少女」の表象の変化は、とどのつまり、向井の世界認識の変化と同値であると言える。

クラスの女の子に憧れを抱き、彼女とのセンチメンタルな思い出を高らかに歌い上げた向井秀徳は、いつしか大人になり、女性、あるいは世界を俯瞰して見つめることができるようになった。
しかし彼はそうした自身の世界認識の変化を極めて悲愴的な形で描き出すことによって、大人の世界/ 世界観に抗いたがっているようにも見える。

そして、退廃的とも言える「SAPPUKEI」以降の向井の詞は、まるで北野武の『ソナチネ』のように、彼自身の希死念慮をも思わせる。
向井はインタビューで、解散が決定する直前の日々についてこう語る。

「ただ、その頃の私は、ずっと夢状態でツアーをやっていた。盛り上がってるわけよ、自分の中で。ステージが終わっても、興奮が覚めやらないから、その興奮を覚めさせようとして強い酒を飲む。朝まで飲む。そんな毎日だったし、それが気持ち良いと思っていたから。」(『三栖一明』p242)

青春の輝きを失い、酩酊して彷徨った挙句、やがて世界への絶望と死のイメージを纏わせる歌詞とサウンドに行き着いた向井の危うさが、何かただごとではない切迫感を生み出し、それがエモーションとして我々の情動を揺るがす。

一般的にNUMBER GIRLといえば「青春の初期衝動」を歌ったバンドとして認知されている。それは一面では正しくもある。
が、前期NUMBER GIRLの青春の初期衝動に加え、後期NUMBER GIRLの退廃的な死の匂い。この両極の世界観と、その変容に至るまでの魂の揺らぎこそが彼らの魅力であり、また彼らに神話性を付与していると俺は思う。

NUMBER GIRLのラストライブは、彼らの初期衝動の集大成とも呼ぶべき「OMOIDE IN MY HEAD」と「IGGY POP FANCLUB」で締めくくられた。
2曲とも、大学生でも1日あればコピーできるような、きわめて単純明快なコード進行である。しかしながらラストライブで演奏されたこの2曲より素晴らしい曲を、俺は未だに知らない。
「OMOIDE IN MY HEAD」の直前、向井は「1995年夏から、我々が自力を信じてやってきた、このナンバーガールの歴史を、今ここに終了する」と高らかに宣言した。
その言葉通り、向井の「ドラムス、アヒトイナザワ」のコールに合わせて、アヒトイナザワは今までで最も力強くドラムを叩いた。中尾憲太郎は涙に濡れながらダウンピッキングを続けた。ラストの「IGGY POP FANCLUB」、普段は田渕ひさ子が弾ききる間奏パートの後半を、彼女は向井に渡し、向井は神妙な顔でそれを弾ききった。

2曲の演奏中に起きたことすべてが、彼らが確かに青春を失った、正確には失ったことを完全に自覚したことを告げるような、ある種儀式めいたものであり、それは青春を出発点としたNUMBER GIRLの物語を終わらせるのに足るものであった。


後進のZAZEN BOYSは、後期NUMBER GIRLが見せたような鋭角のサウンドは引き継がれているが、やはりNUMBER GIRLにしか醸し出せなかった青春の匂い・あるいは死の匂いは消えてしまった。同様に、NUMBER GIRLが放った種子は多くのバンドマンたちに着床したが、未だNUMBER GIRLと同じ実を宿したバンドはいない。

だからこそ、今回の再結成は事件と呼ぶに足る出来事なのである。

青春を失い、この上なく綺麗に自らの物語を終了させた彼らは、次はどんな音楽を奏でてくれるのだろう? 

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