第3回 積読解消プロジェクト 『武満徹著作集1』

30年積み続けてしまった理由

(*音声で聞きたい方はこちら*

https://drive.google.com/file/d/1cFo-wyRJrFEVYubS8lC83A4Rw1Jj6JL7/view?usp=sharing)

今日の積読は東京都文京区のYOSSYさんの1冊、武満徹の『武満徹著作集1』です。
積読期間は30年。
YOSSYさんは現在音楽指導や音楽イベント運営のお仕事をしています。YOSSYさんからのメッセージを読んでみましょう。

初めて『音、沈黙と測り合えるほどに』を「読まなければ」と思ったのが、酒と音楽の日々を送っていた20歳のころで、しかし、この本は入手しにくかったので、そのまま読まないで25年以上経ちました。
2018年に参加した音楽プロジェクトで、武満徹の文章を引用した講師がいて、それは「宇宙を無限に循環する水」という感じだったと記憶しているが、そのイメージに感激した私がすぐにAmazonでポチったのが本書です。
ところが、考えてみたら、自分がくたびれた社会人として「芸術家の文章」というのに触れてなくて、骨のある小説もほとんど読まないし(教養、ビジネス、新書ばかり読んでいる)、このザ・芸術家な感じの文章がまったく頭に入らず、そのことでショックだったのか(成仏していない)、読み進めるのを諦めて早々に投げ出してしまった。そのまま本棚にどーんと鎮座している。
したがってリアルな積読歴は3年だが、私にとっては、いわば30年近くの積読と言える。
このまま、私はこの本に書かれていることとは、縁がなくなっても構わないという気持ちもありますので、成仏させてほしいです。


「どう読むのか」ではなく「誰と読むのか」

「1人でできる読書は1人でしない」が積読解消の解決方法です。本日は『武満徹著作集1』をYOSSYさんの視点で読んでみましょう。

本と著者の紹介:世界の武満

武満徹は現代音楽の作曲家です(1930年 - 1996年)。ほぼ独学で音楽を学び、前衛音楽家として楽曲を発表、国内よりも海外のコンクールで評価を得て、「世界の武満」と呼ばれるようになりました。代表作『ノヴェンバーステップ』のような、琵琶や尺八などの和楽器や、リズム構造を持たない雅楽を西洋音楽に再構成した楽曲が知られています。難解な現代音楽を作る一方で、映画音楽やポップスも作る守備範囲の広い人です。坂本龍一、藤倉大など国際的音楽家はいますが、「海外でも評価される日本人音楽家」のパイオニアといえば武満なのです。

本書は『音、沈黙と測りあえるほどに』『樹の鏡、草原の鏡』の2冊を合本した本です。1961年からの文章がほぼ時系列に掲載されています。武満音楽のキーワード「沈黙」「音」「詩」をどう考えていたのかが分かる「武満芸術」読解のテキストです。その一方、形式や方法を取り払った「音楽の根源」を曲として提示できれば、私たちは生活としての音楽を取り戻せるのではないか、という「現代に音楽をする」意義が分かります。「日本では何で音楽は生活から遠いのか?」「専門的な知識や技能なしに音楽ができないのはなぜか」という問いにも答えてくれる1冊です。

では中身のダイジェストを見てみましょう。

まとめ

1.沈黙と音

・芸術は精神で捉えた具体的な事実

一九四八年のある日、混雑した地下鉄の狭い車内で、調律された楽音のなかに騒音をもちこむことを着想した。もう少し正確に書くと、作曲するということは、われわれをとりまく世界を貫いている《音の河》に、いかに意味づけるか、ということだと気づいた。

音楽作品は、《音》を媒体として、精神によって捉えられた事実なのであり、その意味で、作品はまったく具体的なのである。

ぼくは音楽について考えていた。いや、音楽のあいまいな意味と機能を断ち切った《音》そのものについて考えていた。《音》は、調律された組織のなかにあって、数理的な、物理的な束縛を余儀なくされている。

人々が音楽に対して無理解なのではなくて、音楽が人々の生活と無縁の場所に、無駄な軌跡を描いているのではあるまいか⋯⋯。


・「沈黙」は何であって、何ではないのか?

人間は〈生〉をたくらみえないように、音楽をもたくらむことはできない。音楽は、音か沈黙か、そのどちらかである。私は生きるかぎりにおいて、沈黙に抗議するものとしての〈音〉を択ぶだろう。それは強い一つの音でなければならない。私は、音楽のみがかれない原型を提出することが作曲家の仕事ではないかと、私は余分の音を削りとって、確かな一つの音を手にしたい。

私達は人間をまちうける死の沈黙を避けられない。自然の優美にして残酷な仕うちと書いたのはそのためである。技によったものは自然の喙についばまれ、ついにはその風景にくみこまれてしまう。歴史の城あるいは伝統の城というものは外に姿をあらわしたものではない。ソクラテスの石のしるした傷のように眼にみえない微細な内部のものである。私はまず音を構築するという観念を捨てたい。私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。

ぼくは芸術の意味をあらためて考えていた。沈黙のもつ恐怖についてはいまさら想うまでもない。死の暗黒世界をとり囲む沈黙。時に広大な宇宙の沈黙が突然おおいかぶさるようにしてわれわれを摑まえることがある。生れでることの激しい沈黙、土に還るときの静かな沈黙。芸術は、沈黙に対する人間の抗議ではなかったろうか。詩も音楽も沈黙に抗して発音するときに生れた。物と物を擦り合せたり、岩肌を傷つけたりすることから絵画がうまれた。そして、こうした生の挙動が芸術をかたちづくってきた。芸術は未分化の土壌に芽生えた。


・「芸術とは眼に見えないものを、見えるようにするものだ」

By パウル・クレー
見えるものよりは見えないものが大事。それが問題だ。人間の内触覚的な宇宙は、肉体と精神を通じて世界につらなる。眼を閉じることで、感覚の欺きがちな働きかけから身を翻し、自己をただちに〈世界〉へ投射することが、芸術の本質的な行為だと思う。眼を閉じることは、内部へむかって眼を瞠くことだ。

沈黙に抗って発音するということは自分の存在を証すこと以外のなんでもない。沈黙の坑道から己れをつかみ出すことだけが〈歌〉とよべよう。あるいはそれだけが〈事実〉のはずだ。芸術家はなににもまして、この〈事実〉に心をむけるべきだろう。そうでなければ芸術の現実性という問題もうかんできはしない。そういう意味で、物をリアルにひきうつしているなどということは卑屈なのだ。芸術家は沈黙のなかで、事実だけを把りだし歌い描く。そしてその時それがすべての物の前に在ることに気づく。これが芸術の愛であり、〈世界〉とよべるものなのだろう。いま、多くの芸術が沈黙の意味を置き去りにしてしまっている。


 ・吃音宣言―どもりのマニフェスト

どもりは、医学的には一種の機能障害に属そうが、形而上学では、それは革命の歌だ。どもりは行動によって充足する。その表現は、たえず全身的になされる。少しも観念に堕するところがない。

写楽は役者をうつす時に、きまって、尺を手にしていちいち測りながら画いたというのである。このことは、写楽を知るものにとっては、あるいは奇異に思えるのではないか?写楽を鳥居清倍などにくらべて写実主義であるというのはわかる。鳥居派のは、別段、役者がだれであろうとかまわぬ。歌舞伎の荒事を豪放な描法によって仕立てあげることですんでいた。しかし、写楽の場合は、役者の個性とか癖といったものにまで眼を向けた。

意味が言葉の容量を超える時におこる運動こそ、もはや物理学では律せられない、〈生〉の力学ではないか。ぼくが幾分寓意的に書いてきた吃音の原則はそこに在る。そしてぼくの使う発音という言葉は、生命の言い表わせぬ挙動を暗示する動詞でしかない。


2.音楽の根源

・雅楽との出会い:拍がない=音を時間でコントロールしない

宮内庁にて雅楽を聴く。まさに音がたちのぼるという印象をうけた。それは、樹のように、天へ向って起ったのである。音の振幅は横にながされるものであり、音楽はそれゆえに時を住居としているが、私が雅楽からうけた印象は、可測的な時間を阻もうとする意思のように思えた。時間を、定量的な記譜の上に、図式化してとらえようとする西欧の方法と雅楽のそれとは、まったく異質のものなのだ。雅楽には、西欧的な意味での拍という観念がない。もちろん、羯鼓と太鼓や鉦が織りなす律動があったが、それは複雑な音の紗幕をししゅうするに留まっている。

ここで、とくに重要な楽器は笙である。私がうけた、音がたちのぼるという印象、不可測な形而上的時間性の秘密は、笙の音にあるような気がしてならない。笙は吸う息吐く息によって音が出る。衝撃のない持続は外形的な拍をきざむには役立たず、潜在する内的なリズムをよびおこす。


・音楽の起源的な構造を想像的に志向すること

伝統的な楽器によって音楽を書いた時、私は、音には自律したそれ自身の生活があり、音はその内部に深い歴史をもっていたという感慨にとらえられた。新しい音楽とは、そうした、歴史的に練られた音を今日的によみがえらすことであるのか、さもなくば、それらの音と私が同化するべくつとめることであるのかーー。私はそのいずれをも満足させたいと思ったのだが、はたしてそれができたかどうかは判然としない。私はこの場合琵琶なり尺八を、たんなる音響の素材として用いることはできなかった。そして、琵琶や尺八という古い楽器が私たちには極めて新しく響くものであるということが私をいつまでも当惑させたのだった。

尺八の演奏者横山勝也氏から、楽器としての尺八そのものがもつ音、つまり管に開けられた 五孔それ自体の音は底抜けに陽気なものだが、尺八音楽はそれを唇や指の技術、呼吸の仕方で抑制し、その明るさを殺してゆく、という話を聞いたことがある。結局、尺八の名人が期む至上の音は、自然の風が無作為に朽ちた竹の根かたを吹きぬけるような音、ということにまで到ってしまうのである。尺八の場合は日本音楽のなかでは例外的に宗教性をもつものであり、これを他の江戸音曲と同一に比較してはならないであろうが、それにしても、このような日本人の音の好みというものは何に起因しているのであろう。尺八に限らず殆どの音楽が抑制することを尚び、またそれを美としている。

西洋と日本の、異なるこつの根源的な音響現象の秩序を生きた、異なった二つの音楽を自己の感受性の内に培養すること。そして、作曲の多様な方法によって、その相異を明瞭に際立たせることが最初の段階になるのである。矛盾を解消するのではなしに、その対立を自己の内部に激化することが、作品のたえず進行しつつある状態―それはきわめて不安定な歩調(ステップ)であるが――を保ち、この実践が伝統の墓守に堕すことから私を遠去けるだろう。


・詩性と視点

詩には批評がなければならないというような論を聞くのだが、私にはその論議はいかにも底浅く思えるのだ。散文家は読者を冷静に意識しつつ、世界あるいは宇宙という名で呼ばれるものの内部に苦しく凝視めるものであり、他者に向き合って彼の座標軸にしたがい二元的な操作で世界を確かめようとするものだ。そこには批評がある。小説家は読者の正面に己れの顔を曝している。詩人は彼が見るものだけに向う。そして読者は常に詩人の背後にある。詩人の見るところは世界であり、世界は彼の存在の内部を貫いて他者を矢のように刺し通している。


・音楽家の仕事

「ジ・オーストラリアン」紙の質問に答えて
音楽とは何ですか?
もし私が音楽の何たるかを知っておれば、音楽に専念するようなことはなかったでしょう。過去、現在を問わず音楽家というのは、その答えを求めてきた人達のことを指すのですから。その答えを表現する手段を模索する人こそ音楽家です。しかし私共にとって音楽を究めたり、音楽とは何であるか を考えたりしながら思索のうちにこもっていくことは音楽を生活から隔離することになります。本来これはそうあってはならないものです。私は音楽は生活だといいたい。ともかく作曲家は答える立場の人間ではありません。逆にいつも問いをなげかける人間です。

作家が求めなくてはならないものは、音楽家なら、音楽はことばであるという意識、つまり、 <ことば>の音書きという自覚⋯⋯。


・未知は未来にはなく、現在にある

現代作品の多くは潔癖に「過去」を避けようとしているようにみえるのだが、私は「過去」を怖れることはない。新しさと古さの両方が私には必要なのである。だが、「未知」は、過去にも未来にもなく、実は、正確な現在のなかにしかないのだろう。


・非西洋の音楽は、その土地から持ち運べない

インドネシアを旅して、私の内で曖昧であった考えは、その輪郭をいくらか明瞭にしたように思う。それは、たぶん音楽は、この地上に異った二つの相としてあらわれたのではないかということである。一つは運搬可能なものとして、別の一つは、特定の土地と時間を住居とするそこから動かすことは不可能であるような音楽として。この全く異る二つのものは、永い時をかけて交りあって行くであろうが、それはかならずしも安全無害な中和状態を創りだすものではないかもしれない。

西欧の個性尊重は、その論理の当然の帰結として普遍化を求め、音楽芸術は記号的に体系化され、誰によっても演奏できる運搬可能なものとなる。非西欧的な音楽においては、一本の天才と名指される樹を見つけることはできない。なぜなら音楽は地上を覆う草々のように全体はひとつの緑のように見え、陽を受けて雨を浴びてその緑はまたさまざまの緑をあらわす。他の土地へ搬ぶことはできないし。そうすると姿をかえてしまうのである。


・<私>を殺し、抑制する日本の音が至るのは<無>

能楽と雅楽のきわめて例外的な一部を除いて、私は、日本音楽からあの時のような全的な〈解放〉を経験したことは無い。
(*「あの時」とはインドネシアでの体験)

私は、日本の音が遂に至る地点は〈無〉であるように思うが、それはあの〈解放〉とは同質ではなく、あるいは全く逆のことであるように思える。いささか直観的な表現になるが、邦楽はその音は、その所属する音階を拒むもののようである。

スンダニーズの音楽にある即興性というものを邦楽においてみることはできない。邦楽では、「原曲を変奏することはあっても、それは曲を即興演奏するというのではなく、作品の演奏解釈は正確にされなければならず、同じ作品で個々の人が別な解釈をすることは許されないのである」即興性ということは、ひとつの大きな規律のなかで行われるものであり、そこに面白さや意味があるのである。

3.音楽の役割、武満の使命

・音楽は生活、発音するようにできる音楽の世界

個人が音楽において果す役割について考えてみると、私が現在行っていることはいかにも傲岸に思われてくる。作曲の多様な手段で自己を主張し、自分を他と区別することにのみ腐心して来たのではないか、と暗然たる思いである。私は、何ほどのこともない生活の挙動のように音楽をしたいと望むものであり、ひとの考えおよばないようなことをしようとは、思ってもみない。音楽は生きることの一つの形式にすぎないのだが、この、何でもないことを何でもなく為すことが、このように困難であるのはおかしなことだ。ある若い作曲家が、最近の新聞で、現代音楽は旋律や和声を失ったために一般的に親しまれないのであるから、それらを補うものとして、所作や映像を音楽の新しい媒体として加えたい、というような意見を述べているが、わたしたちはなぜ(旋律を)うたえないのか、ということに気附かぬまでにこの病いは根深いのであろうか?


・人と人の関係を作り出すのが音楽

テレ・コミュニケーションは地域社会を都市化へ向わせ、多量な情報のなかで、ひとは一様に虚しさに囚われている。それを癒すために執られる手段は、またそれ自体が自立して人間ばなれしたものになる。人間の個性は極めてエキセントリックになり、社会的な繋がりは次第に失われて行く。人間は各個にはばらばらでありながら、個人の営みはかならずしも充実しない。そこではむしろ本当の個人を保つことは難しい。

孤独な感情が触れあうところに、音楽が形をあらわす。音楽はけっして個のものではなく、また、複数のものでもない。それは人間の関係のなかに在るものであり、奇妙に聞こえるかもしれないが、個人がそれを所有することはできない。

が、しかしまた、音楽はあくまでも個からはじまるものであり、他との関係のなかにその形をあらわす。しかもこれは社会科学的なテーゼではなく、むしろ神学的主題なのである。友が言うように、音楽は祈りの形式であるとすれば、人間関係、社会関係、自然との関係、すべてと関わる関係への欲求を祈り呼ぶのだろう。たしかに私は、音楽がそこ に形をあらわすような関係というものを待ちのぞんでいる。

日本人は、なぜ、宗教から離脱していったのか?また、なぜ、日本人は無にまで凝縮された一音に無限定な全体を聴こうとするのか?なぜ、邦楽は関係のなかに在る音楽ではなく、反ってそうした関係を断つところに形をあらわすのであろうか?いま、この道は何処へ行くかは知らぬが、私はもはや歩きだしたのだ。


・音楽の基本は人間と人間の新しい関係を生むことにある

仲間で編集している雑誌「トランソニック」では、次号に音楽教育に関しての特集を企画した。これは重要なテーマでありながら、しかし、教育という字義は考えればどうにもおかしなもので、なにか一方的なおしつけがましい語感であり、学ぶ側の自発性を殺すように思われて、それでは特集のタイトルはいっそ学習ということにしようかなどと、最初から論の絶える間がない。
音楽の基本は、人間と人間の新しい関係を生むことにある、とわたしは考えているが、当今の音楽教育は戦前の状態にくらべればある点ではかなり進んだものでありながら、そのためにかえって専門知識の切り売りのようで、音楽とはほど遠い半専門家を育成するような結果になっている。つまり、できあいの過去の結果にのみかかずりあって、予定されたモデルに近づくことを究極の目標にしてしまい、そこにはおどろきも発見もない。
音楽という人間の正当な欲望を平静に眠らせてしまうような効果さえもっているように、わたしには思える。


・マリー・シェーファーの『Ears Cleaning』について

教育というものは、ともすると教えられるものの側の想像力をば限定しかねない危険をそこにはらんでいる。なぜなら、それ(教育)はつねに(無数の)約束事を前提としているからである。問題を音楽教育ということに限って考えるなら、今日、世界的に行なわれている音楽教育は、記号的に体系化されたヨーロッパ近代音楽を絶対的な基礎としているのであり、「音楽」としてあつかわれる音は、すべて、あらかじめ準備された機能としての音であって、子どもたちの聴覚的想像力はこの既成の区域を超えることはない。というよりはむしろ超えてはならないものとして教育されてしまうのである。無数の音たちがうまれでる母胎である偉大な沈黙については、あるいは鳥たちの啼き声は、日常生活の周囲に起こるかぎりない音たちの織りなす劇については、それが「音楽」ということでは律せられない音であるためにないがしろにされてしまう。こうした音楽とはよべない音が、どれほど人間の聴覚的想像力を鍛えたことだろうか。幼児の無垢な耳は、教育された耳よりも聴覚的な感受性ということではむしろ鋭い。こうした、ある意味では動物的な感受性を、知的想像力によってさらに拡大する方向に音楽教育がなされるとしたら、どんなにすばらしいであろうか。

4.何よりもまず『聴くこと』

・創作のプロセス

音楽を考えるときに、いつも半年ぐらい大学ノートに数冊の、ただ言葉を、文脈をなさないある言葉を書いたりします。なぜそんな努力をするかというと、自分の内部に言葉を獲得したときにはじめて、自己の内部に「他」への自覚が生まれてくるからです。そしてついに、音楽を書き始める時点では、自分をも「他」として、客観視するようになります。

作曲家は、音楽を書いて人に聴かせる立場にあるのではなく、まず誰よりも聴く側に立たなければいけない。作曲家の耳ほど、また音楽家の耳ほど汚れた耳を持っている人間はない。ぼくは意識的に、いかなる音をも、無垢な状態、新鮮な耳で聴こうと努力してますから、いくらか、ぼくの耳はきれいになってきた筈ですが、それでもベートーヴェンとビートルズ、それからヴァニラ・ホッジスなどを同じように公平に聴くことには、時折抵抗があったりします。つまり、われわれの耳は、知らず知らずのうちに素直じゃなくなってきている。様ざまな価値観、概念によって汚されている。その耳の汚れを落とすためには、何よりもまず聴くという行為が大切だと思うんです。

・音は宇宙に充満している

原始のはじめから宇宙空間には原始自然音とでもいうべき音が充満しているとみるんですね。空間のすべてが音のじゅうたんで占められている。これが第一の音。そこへ第二の音、これがわれわれがふだん言う音なんですが、ちょうど息をふきかけるように発せられるわけです。そうするとじうたんにしわやひずみがおこりますね、このしわがわれわれがいわゆる音とおもっているものにあたるわけです。だからしばらくするとまた元へ戻ってしまう。ちょうど空間の場と重力の関係のようなものが音にもあると想定するわけです。音の曲率とか音の捩率とかというものもイメージできるとおもうんですね。
それはとってもおもしろい。僕の考えているイメージと近いですね。僕の場合も音のそういう状態になんとか別の音をぶつけて、そこにでてくる物質のゆれ方とか振動とかひだとかしかとかいうものをとらえようとしたいんですよ。それが「何が音楽のはじまりであるか」を解く謎の鍵だとおもう。


積読診断 ~YOSSYさんの視点で読んでみて~

「音楽以前」の音を志向し、西洋音楽の絶対的秩序から音を解放して曲にすること、「音楽は生活である」を実現すること、沈黙を打ち破る吃音のような超原始の意思と音で音曲を作ること――武満がこんな熱い魂で音楽に向かっている人だというのに驚かされる一冊であり、現代音楽への観方が変わる本でした。

一方で、この本が積読になってしまう理由もわかった気がしました。


積読診断1:能力不足ではなく、読解に必要なリソースがないから

YOSSYさんの言う通り「ザ・芸術家な感じの」文章は咀嚼が大変です。しかし、私たちが「ザ・芸術家な感じの」武満の文章についていけないのは、我々の能力というよりも、全てのコンテンツが持つ同時性の問題があります。

本書の初出は1971年です。その5年前、1966年6月はビートルズが初来日し、同年9月に哲学者サルトルが来日しています。この哲学者とトップアーティストの来日は、同じ程度のお祭り騒ぎになったそうです。これ、驚きませんか?現代でたとえれば、BTSとユヴァル・ノア・ハラリが同じ年に来日するようなものですが、お祭りになるのは確実にBTSのはずです。60~70年代当時の日本人は一般的な人も哲学書や文芸書を読んでいて、前衛的な文章へのリテラシーがありました。武満の本も前衛的なコンテンツが普通に受け入れられる当時の時代性があってこそ成立しています。
また、岡本太郎をはじめとする当時の芸術家、建築家たちは一様に西洋主義、近代主義の持つ「形式性」「都市性」から、単純な自然に回帰することなく、独自の芸術・文化に至れるか、という課題と試みを共有しています。
私たちが武満の「芸術家の文章」についていけないのは、時代の空気や当時の人達が共有していたリテラシーなど、コンテンツの咀嚼に必要な「同時代性」という資源を持たないからです。

・全てのコンテンツは一度オワコン化する

読書は1人でできても、私たちの読解力は社会の影響を受けます。長く残るコンテンツでも、同時代性を含んでいるので、時代が変わり、受け手の私達が前の時代のことを徐々に忘れていくと、同時代性という共有資源を失っていくので、だんだんと前のコンテンツが分からなくなります。俗に言うオワコン化です。
昔の日本人と現代人で知的能力には大差はありません。私たちは前衛的なコンテンツへのリテラシーが落ちた分、武満よりもグローバリゼーションやデジタルのリテラシーは高いはずです。

コンテンツはその面白さや価値と関わらずオワコン化しますが、その時点の評価が高いほど「名作」「古典」といった形で保存されるので、私たちは理解が追い付かないと、個人の読解能力不足と考え、疎外感を覚え、自己評価を下げてしまいます。しかし、それはただのリソース不足です。


・積読診断2:芸術家の文章がそもそも読みにくい理由

芸術家の文章が読みにくいのは、同時代性に加え、身体性の問題です。

詩人は彼が見るものだけに向う。そして読者は常に詩人の背後にある。

本書の一説です。武満に限らず芸術家の言葉は現象、抽象、心象が混在した「詩性」の言葉、つまり見ているものをそのまま見る行為です。生物はそれぞれに固有の体を持ち、感覚器官を通じて世界を認識していますが、言語による共感機能を備えた人間は、言語コミュニケーションでも共感機能を発動させます。輸血や臓器移植に適合があるように、視点という感覚の共有は拒否反応があります。特に前衛作家はまだ世にない何かを見ているので、相性もでます。その作家の思考を辿りたい、と思ったらお付き合いするしかありませんが、「絶対に武満でないと!」ということでないのであれば、武満の魂のバトンだけ受け取ったら、敢えて読みにくいものを読む必要はなく、同じテーマでより快適な作家に移ることをお勧めします。

YOSSYさんに送る本書のパンチフレーズ

個人が音楽において果す役割について考えてみると、私が現在行っていることはいかにも傲岸に思われてくる。作曲の多様な手段で自己を主張し、自分を他と区別することにのみ腐心して来たのではないか、と暗然たる思いである。私は、何ほどのこともない生活の挙動のように音楽をしたいと望むものであり、ひとの考えおよばないようなことをしようとは、思ってもみない。音楽は生きることの一つの形式にすぎないのだが、この、何でもないことを何でもなく為すことが、このように困難であるのはおかしなことだ。

「何ほどのこともない生活の挙動のように音楽ができる」世界を作る、こそ武満のテーマです。武満はこの課題に対し作曲家として功績を残したのですが、この遠大なプロジェクトは1人でできるものではありません。また、現代音楽の世界はそれを達成するには閉鎖空間すぎます。ジャズ、ロック、ヒップホップや、ライブ、フェス、動画のように表現も手段も武満の頃に比べればはるかに多様になっています。「音楽は生活」プロジェクトは今日もどこかで誰かがやっていて、現代により分かりやすい形で行ってくれている人がいるでしょう。武満はそのプロジェクトの1つに過ぎません。またYOSSYさんもそのお一人のはずです。読書はプロジェクトに参加する疑似体験ですが、仕事と違い、本の場合は合わなければ即やめていいのが美点の1つです。

武満の文章に、なんとなく自己評価が下がる状態にあるのなら、一度別のプロジェクトを試してみて、もしYOSSYさんの準備ができて、縁があれば、また本書が向こうからやってくるかもしれません。

では最後に、代替選択となる本を紹介して締めたいと思います。

Alternative Book Choice

 1.『ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』(水戸芸術館現代美術センター 著|フィルムアート 刊)

「何ほどのこともない生活の挙動のように音楽ができる」世界を作る、という武満のテーマ、これは、今の言葉でいえば、「持続可能なアートフォームの開発」になります。ドイツの彫刻家でパフォーマンス・アーティストのヨーゼフ・ボイスは「拡張アート」「社会彫刻」という概念を訴え、近代以降に芸術が高等な行為になってしまったこと、特に経済活動と結びついたゲームになったことを批判し、アートがより実践的に、身近になることで誰もが社会を彫刻する変革者になることができる、と主張しました。
同様の課題に対し、武満があくまで作曲家として、実際に誰もが聴くことができ、形として残る「音曲」を創るというアプローチをとったのに対し、ボイスは彫刻作品からパフォーマンスへ活動を移行し、果ては政治活動にまで拡張していきました。
ボイスは日本では注目されていないアーティストですが、社会活動としてのアートが注目される昨今、再評価されています。あくまで作品を創る芸術活動にこだわった武満とボイスでは意見はすれ違いそうですが、根底では通じています。また、武満の魂のバトンを受け取る際、ボイスの芸術拡張主義がヒントになると思います。

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2.『武満徹・音楽創造への旅』(立花隆 著|文藝春秋 刊)
立花隆による武満への超ロングインタビューです。700ページ、インタビューから出版まで20年以上、と色々と重厚長大な本です。
軍国少年時代、働くのが向いていないと自覚して作曲家を目指す青年時代、ろくに音楽教育を受けていない武満が、様々な縁や機会を得て才能を開花させて、作曲家になるまでや、創作の過程が分かります。日本戦後史としても読める本で、立花隆のような世代の人にとって武満がどれだけ大きな存在なのかが分かります。前述の「同時代性」という読解に必要なリソースをふんだんに提供してくれる1冊です。
武満の著作からの引用が豊富なので、パラパラと読んでいけば、立花隆が解説、注釈を入れてくれた「武満徹著作集」としても使えます。ある意味今回の積読の正攻法のソリューションですが、しかしとにかく長いので、新たな積読になる可能性を考えてsecond choiceとしました。

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