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107.教話雑感(13)-やらされてやったことは徳積みにはならない-

◆教話1.「心で思うたことは」

我々が世の中を通って行く上について、様々の事柄が現れてくることは、今さら言うまでもないことで、時には愉快なこともあれば、また泣き入るような悲しい日もある。それらの様々な事象は、それではどうして現れてくるかというに、世界多くの人たちは、その原因が、自分以外にあるかのように考えている。偶然その事柄に自分がぶつかるもののように思うている。しかし決してこれは、そうした外的に原因があるのではなく、すべての原因は自分の心のうちに内在しておるものである。たとえば借金取りが自分の意志で袋をひっさげて家へやってきたという、小さい事実に過ぎないが、さらにその根本的な理由をさがせば、かつてその人からお金を借りたことがあるからであって、それを言い換えれば、原因は自分にある。自分がお金さえ借りなければ、この人はこないはずである。
かくのごとく、我々は日常生活をして行く上についてのすべての出来事の原因は、皆各自の心の中に内在していて、その結果として現れてくるのである。皆さんは、これまでにどんな事柄に出会ってこられたか知らんが、とにかく皆、それは内部に原因を持っていたのである。
(中略)
だから自分の心と、身上なり事情なりに表れてきたことをよく照合して考えることが、真実に道の教理を悟って行く方法である。
(中略)
自惚れの強い人は自分の心をかえりみる時に、ほかから見て間違っていると思うことでも正しいように思っている。

増野鼓雪選集 第二巻「講壇より(五)」より抜粋


◆教話2.「桃栗三年、柿八年」

なるべくお礼をいってもらわない方法でよいことをさせてもらう。
ひとによろこんでもらうことをして、お礼をいってもらったら、銀行にお金を預けて利息がつかないあいだに、すぐに出すのといっしょだ、というのです。
すぐに結果をあてにする考えで人生を通ると、じぶんが尽くしただけのことをみせてもらわないと、よろこべない。不足になる。
銀行にお金を預けても、すぐに出してしまう。すると一銭も利息がつかない。よろこびは増えない。なるべくほめてもらわない。お礼をいうてもらわない方法でよいことをする。
じぶんのしたことは、すぐに、それだけの結果をちゃんと返していただいたら、徳をつんだことにならない、というのです。
なるほど、利息のつくような人生を通っていく。それが大事だ、と思案させてもらって、わたしは通ろうと思ってきました。
ですから、誤解されようが、なんと陰でいわれようが、見抜き見通しの親神さま、おやさまはご存じである、と。
その結果というもの、こたえは、やがて旬がきたら、きっと生えてくる。蒔いた種は、遅かれ早かれ、かならず生えてくる。

種でもまいてすぐ芽生える種は菜っ葉や大根の種です。桃栗三年、柿八年。種まいて、菜っ葉や大根の種は、すぐ生えるけれども、桃栗は三年、柿は八年たたないと、ものにはならない。
不足して蒔いたら、腐り種を蒔くことになりますが、誠真実より蒔いた種は腐らない。かならず生えてくる。
菜っ葉や大根の種は、すぐに生えますが、桃栗三年、柿八年というとおり、柿は年限たたないと実がならない。そのかわり、蒔きなおししなくても、ずっと実がなるわけです。
この世は神の田地ですから、尽くし損、はこび損はない。いっさいは「かりもの」ですから、じぶんがつとめただけ、尽くしただけしか、じぶんのものはないのです。
あとはぜんぶ、からだをはじめ、ぜんぶ「かりもの」です。

ですから、じぶんがつとめただけ、尽くしただけ、通っただけがじぶんのものである、と、お教えいただくのであります。

澤井教治「起きんならん」より抜粋

雑感

明治十七年、奈良監獄署で御苦労下された教祖が、同じく監獄で拘留され便所掃除を強いられた鴻田忠三郎に、

「どんな辛い事や嫌な事でも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれども、えらい仕事、しんどい仕事を何ぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足々々でしては、天に届く理は不足になるのやで。

稿本天理教教祖伝逸話篇144「天に届く理」

とお諭し下された。大変有名で、お道のいたる場面で頻繁に引用されるエピソードなので、おそらく誰もが一度は見聞きしたことがあるだろう。

この逸話の注意すべき点は最後の部分だ。

どんな大きな仕事、大変な作業も、不足心でやったことは何の徳積みにもならない。

むしろそればかりか、その時積んだ不足が天に届いてしまうというところだ。

じゃあ、嫌々やったらやった分だけ徳がマイナスの方に加算されて借金が膨らんでいくってことだってのか⁉


…その解釈が間違っていなければ、心がつくる世界は本当に怖い。


にをいがけだろうと、おつとめだろうと、ひのきしんだろうと、おつくしだろうと、何にしても、形の大小善し悪しはさして重要なのではなく、それに伴うだけの真実心と、自発性のものだけに神様は呼応して下される。

あくまでも、内側から湧き上がる自主的な思いありきの徳積みであり、それが即ち運命の切り替えに繋がっていくのだろう。

【2017.3】


余談

尽くし損、運び損はない。

やったことだけが返ってくる。

心で思ったものがその通りのままにプラスにもマイナスにもなって返って来る。

…いろいろ勉強になる。

そして更に面白い先人のエピソードもある。

自分はやってないのに「アンタやったでしょう!」
と濡れ衣を着せられたり、誤解を招くような事態に陥った時。
増野鼓雪論で言えば、それは「原因は必ず自分にある」と悟っているが、実際にそれを実行したら果たして一体どうなるか。


山名の初代の諸井国三郎先生が、まだ御存命の頃、盲目になったので入信した人がある。山名の初代は、その人に、前生、人の眼をごまかして悪いことをした理だ、三年千日、日参して、しっかりおわびするようにと諭された。それから、往復五里、その人の日参は始まった。
三年目に近づいたある大嵐の日、今日も参拝して帰った。ところが、その人が参拝するちょっと前に、山名のお賽銭箱に、ある人が大金をお供えしていた。それが紛失したのである。教会の人達は、あのぢいさん、やっぱり因縁が出たんだと、嵐の中を、その大金を取り返しにぢいさんの家にかけつけた。そして、お前が盗ったんだろうと詰め寄られた時、その人は前生のさんげがついた。

「私がたしかに盗りました」
「盗りましただけでは困る。その金、すぐに出してもらおう」
「すみません。きっと後でお返しにまいります」

と、大金を都合して山名に持参した。そして神前で、しっかりおわびしていると、両眼がパッチリと開いた。
この御守護に教会の人達はびっくりした。その騒ぎに、諸井先生が奥の部屋から出て来られてわけをきかれた。
「そうか、だが、あのお金はわしが奥に持っていったんだ。それにしても、よくそこまで前生のおわびがついたなあ
と感服されたという。
この人は後に布教して現在(当時昭和30年頃)部内30か所ある教会の初代になられたのです。

立川忠義「私の診断室」より抜粋



これ、すごい話ですよね(^_^;)

やった覚えのない濡れ衣を心底自分事としておわびすると、神様ってこんなにも鮮やかに見せてくれるんですね。

これを見ると、逆に、自分の功績じゃないのに人の手柄横取りにしている人って後が相当こわい気がしますね…(^_^;)


今日はここまでにしときます。
おつき合いいただきありがとうございました。
それではまた(^O^)

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