◆教話1.「心で思うたことは」
◆教話2.「桃栗三年、柿八年」
雑感
明治十七年、奈良監獄署で御苦労下された教祖が、同じく監獄で拘留され便所掃除を強いられた鴻田忠三郎に、
とお諭し下された。大変有名で、お道のいたる場面で頻繁に引用されるエピソードなので、おそらく誰もが一度は見聞きしたことがあるだろう。
この逸話の注意すべき点は最後の部分だ。
どんな大きな仕事、大変な作業も、不足心でやったことは何の徳積みにもならない。
むしろそればかりか、その時積んだ不足が天に届いてしまうというところだ。
じゃあ、嫌々やったらやった分だけ徳がマイナスの方に加算されて借金が膨らんでいくってことだってのか⁉
…その解釈が間違っていなければ、心がつくる世界は本当に怖い。
にをいがけだろうと、おつとめだろうと、ひのきしんだろうと、おつくしだろうと、何にしても、形の大小善し悪しはさして重要なのではなく、それに伴うだけの真実心と、自発性のものだけに神様は呼応して下される。
あくまでも、内側から湧き上がる自主的な思いありきの徳積みであり、それが即ち運命の切り替えに繋がっていくのだろう。
【2017.3】
余談
尽くし損、運び損はない。
やったことだけが返ってくる。
心で思ったものがその通りのままにプラスにもマイナスにもなって返って来る。
…いろいろ勉強になる。
そして更に面白い先人のエピソードもある。
自分はやってないのに「アンタやったでしょう!」
と濡れ衣を着せられたり、誤解を招くような事態に陥った時。
増野鼓雪論で言えば、それは「原因は必ず自分にある」と悟っているが、実際にそれを実行したら果たして一体どうなるか。
これ、すごい話ですよね(^_^;)
やった覚えのない濡れ衣を心底自分事としておわびすると、神様ってこんなにも鮮やかに見せてくれるんですね。
これを見ると、逆に、自分の功績じゃないのに人の手柄横取りにしている人って後が相当こわい気がしますね…(^_^;)
今日はここまでにしときます。
おつき合いいただきありがとうございました。
それではまた(^O^)