34.本日の雑念(3)-ようぼく一斉活動日-
支部では今、11月に開催が予定されている「第3回ようぼく一斉活動日」の内容を決める話し合いが始まっています。
わたくしピーナッツも地域活動の端役ではありますが、中身を決める談じ合いのメンバーに入れてもらっています。
……色々言いたいことがあり過ぎる。
……この行事って、ほんとう、ツッコミどころ満載で、そこに込められた目的と与えられた手段が噛み合ってなさ過ぎる。
おそらく全国津々浦々で同じくこの行事に関わっている皆さんなら、きっと同じことを考えてらっしゃる方も少なくはないのでは?
炎上覚悟で未熟なピーナッツはいま感じていることをほんの少しだけ言葉にしてみようと思い、雑念シリーズとして執筆することにしました。
お叱りは覚悟の上です。
“ようぼく”の定義
支部の先生方と話し合っていると、しばしば言及されることがあります。
「この行事は“ようぼく一斉活動日”なのだから、対象はようぼくだ」
…まぁ、確かにそうなります。名前の通りだし。
ただ、この対象である“ようぼく”という言葉の認識がそれぞれ微妙に違うような気がしていました。おそらく言っている本人も気づいていないのではないかというぐらい些細なところで。
そもそも“ようぼく“とは一体何なのでしょう。
本来、私達が“ようぼく”というワードを用いる時、その言葉に込められた意味として“天理教布教伝道における人材”“陽気ぐらし世界建設の用材”ということが前提に条件されるということが引用からもわかるのですが、話し合いの時に、
「○○さんはまだようぼくじゃないから本来は対象じゃないんだ」
とか、
「あそこの教会には若い人がチラホラ見かけるけど、まだ中席だとか、別席を運んでいないらしいから…」
みたいな話題が時折雑談されたりもします。
……はい(・ω・)???
あれ、もしかして先生方、ようぼくって
おさづけを拝戴して信者登録されている人
っていうニュアンスで受け取ってません?
…確かにそんな節が以前からありました。(あくまでも私が関わっている地域に限ったことだけかもしれません)
でも、仮にそれが信者登録された方々を対象とした一斉活動行事だったとして、そんな集まりを催すことになっているって、かなり形骸のなれの果てのような気がしてしまいます…。
でもこれは、私のまわりの先生方がそうやって対象だとか、名称等で混乱するもの無理はないと思います。原因はそういう混乱を生じさせる「行事名」をつけた人達にあるんです。
スタート前の不穏なざわめき
以前、教区役職者にこの行事の趣旨説明をする為に、おぢばから本部の先生が教務支庁においでになりました。
説明が詳細に語られるにつれ、ざわざわし出す教区の関係者の皆さん。
楽観的だったピーナッツは、質疑応答で末席から先生に向けていくつかの質問を投げかけます。
ま~でも、あれなんですよね?
開催側が「ようぼく一斉活動日」という趣旨を共有さえしていれば、行事名自体は地域ごとに変えていいんですよね(^^)?
「おやさまを慕うぼくらの集い」みたいな(テキトー)。
先生「いえ、あくまでも行事名は『ようぼく一斉活動日』として開催してください( ̄д ̄)」
ありゃ(・ω・)。
…あ、そうだ。行事名は仕方ないとして、若い働く世代を集めて居酒屋でやるとか、そういう的を絞った裏技もありなんでしょう(^^)?
先生「いえ、当日は年齢制限を設けず、あくまでも地域につながる幅広い年齢層のようぼくさんを対象にやっていただきます( ̄д ̄)」
…ではでは、運動公園とかに集まって、昔から支部でやっている伝統の清掃ひのきしんに絡めてやるとかならできますよね(^_^;)?
先生「いいですけど、だけど当日はビデオ上映があり、諭達の拝読を参加者全員でしていただきます( ̄д ̄)」
(屋外でビデオ鑑賞は無理だろ…)
が…外部講師を呼ぶとかも検討したいから、やっぱり地域ごとにちょうどいいタイミングでやるとかの日程調整の一部例外ぐらいは認めてもらえるのかしら…(;´・ω・)?
先生「開催は全国統一で本部が指定した日程でやってもらいます。なんてったってね、一斉活動日なんでね( ̄д ̄)」
なぁんもできねぇよぉっ( ゚Д゚)‼
…と当時激しく憤っていたことが記憶に懐かしいですね。
それでもどうでもおぢば側は設定ルールを変えてはくれません。
そして、
先生「あ、だけど、中身は皆さんで自由に考えていいんですよ。やりたいことどんどんアイデアひねってやっていただいて構わないです。そういうのって柔軟でしょ。おぢばもそれなりに考えて幅もたしているんですよ( ̄д ̄)?」
自由って言うんなら、最悪やらない(やれない)ってものありなんでしょ?
小さい支部は開催側の人材がいないから、隣の大きな支部に参加しましょう
っていう方法も(^_^;)?
先生「いえ、各支部でどうかやってください。全5回です。せっかくの年祭活動なんだから、楽しんでね、やらさせていただきましょ( ̄д ̄)」
絶妙に邪魔ばかりが目立つ縛り。
自由という耳障りのいい責任放棄。
そしてやらない自由は認めない。
……とんでもない爆弾を投下してくれましたな、いやはや(・ω・)
この行事との向き合い方
そんなこんなでも第一回、第二回と一斉活動日は開催され、そしてそれなりに参加人数が集まってきます。
ああ、なんやかんや人って集まるんだな。
というか、コロナで会えなかったとかの反動で(年輩の方は)とりあえず集まりたいんだなぁ…(・ω・)
ピーナッツの内心の無念とは裏腹に、一斉活動日は良くも悪くも過去の天理教の行事らしく会場への人の出入りが大勢ありました。
さて、ここからは本当にピーナッツのごくごく個人的な意見です。
「全くそうは思わない」「それは受け取り方が間違っている」
そんな風に感じられる方も当然いると思いますが、まあ端役の戯言程度に受け取ってください。
このようぼく一斉活動日には組織活動としても「失敗」はあっても「成功」はありません。
そして開催側にとって一応手ごたえがあったような気になれるベターな落としどころは成功ではなく「達成」です。
色々な地域の同行事のSNSや道友社公式を拝見すると、すごい人数の動員を記録する会場がいくつもあり、開催側の喜びの声を目にしたりします。
しかしその実、よくよく見ると多くがその参加人数に焦点をあてています。
そう、この行事を通して個々のようぼくさんの心の成長や勇みってなかなか可視化しづらく、結局わかりやすい動員の多寡に意識がフォーカスされがちになっているんです。
そしてそれが“成果”という指標に置き換わっている。
参加人数が多かった云々でしか、行事が成功したかどうかを測ることができず、結果、
「当日こんなにたくさん人が集まったよ!」
というところに意識が向いてしまうわけです。
それは結局、「成功したかどうか」ではなく「達成したかどうか」なんですよね。
「大多数の参加者達成で別にいいじゃん?」
と言われてしまったら、それ以上は水掛け論になるので言及いたしません。
そうなったらもう、価値観の問題になってしまうので。
また、ようぼくの定義が「信者登録されている人」ならともかく(絶対そんな筈ないですよね?)、「陽気ぐらしの普請の用材・世界救けの人材」であるなら、次のことにも引っ掛かります。
ようぼくは様々な用材なのだから、頻繁に使われるものも、時々つかわれるものも、年に一回か二回の特別な時に発揮され使われるものも、それぞれ個性や使用頻度は全く異なるわけですよね?
だから、本来、みんな違う。
だけど、神様の思いの元に、用材として、人材として、見えないところで繋がっていたり、たすけ合ったりもする。
それなのに、どうして、
一斉に活動させようとするんだろう?
そもそもの、一斉に、日時を統一してなにかをするということ、そこに必然的な意義はあるのでしょうか?
多様性とか言われているこの時代に。
(多様性が必ずしも最善という意味ではないですが)
結論は出ません。
誰もが納得するような答えなんてきっとないでしょう。
ここまで色々言いましたが、当日の参加者の中には喜んでお帰りになっている方の姿も私は見とめていました。
それもまた事実。
でもだからと言って、スルーしちゃ良くないことはやっぱり良くないし、指摘してもいい筈だと、思っています。
既に(この一斉活動日に限って)中だるみ、ネタがない、何をどうしたらいい? みたいな迷走状態から抜け出せない地域活動をあずかっている人々の苦しそうにしている姿を眺めていて、不意にめぐる感情をつい言語化してみたく、雑念してしまいました。
個々に、それぞれに、神様と、おやさまと、向き合って深められるようであればいいなあ、と。
そういうことへの手だすけであればいいのになぁと…。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました!
登場していた本部の先生のキャラはしっかり盛ってます(笑)
誰か偉い人とかからお叱りは受けるんだろうなぁ…(;´・ω・)
【2024.7】
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