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45.“慎み”に光をあてる

「天理教の教えを簡単に説明してください」

もしも急にそんな質問を投げかけられたとしたら、あなたならなんて答えるだろうか?

「どんなことでも喜びに変えられる、究極のプラス思考の教えです」

…と、そんな風に答えている、そんな知人が以前、私のすぐそばにいた。

大筋での異論はない。
非常に明るく前向きな教えであるには一応違いはないだろう。

とにかく“明るい”ということ。
そこにある“喜び”を見つけようとすること。

私達は“陽気ぐらし”という大目標のもと、そんな営みを互いに試みてこようとしてきたんじゃないだろうか。

それはまるで、胸の中に光を射し込み、その眩さで何もかもを満たそうとするかの如く。



“道”に光をあてる

ある時、鎮西大教会・五代会長、常岡一郎先生の古い教話にあたり、とても印象深い指摘に目がとまった。

『心の光で道を知る』
天理教の中の人には、心に光があればたすかると思って「なんでもいいのです。心がありがたい、もったいないと思えば何を食べても何を飲んでもいいんですよ。なんでも喜んでいれば陽気ぐらしや」と言う人があります。それは道があろうがあるまいが、車が光をつけて走っているのと同じでしょう。
なんのために光が要るのかというと、それは道を知るためです。光によって道が分かり、道を守れば落ちないということです。光があれば落ちないというのではありません。教会でおつとめして、そして夫婦喧嘩をしているようでは道がなっていない。その辺を反省しなくてはいけません。心一つですよ。

みちのとも立教136年12月号「講話」より抜粋 



これを読んだとき、「なんて鋭い着眼点なんだ」と舌をまいた。

「結構、結構」と言ってさえいれば何したっていいんだ、ではないぞと。それは信仰者の態度とは違うのだよ、とそんな響きを感じていた。

まっさきに連想したのが、月次祭での直会の風景だ。
男衆は昼間からついついお酒を飲みふける。

「月次祭に上がった酒は、御供さんと一緒なんだ」
「この酒はお下がりなんだから結構に召し上がればいいんだ」

当事者達からのそんな声を幾度も耳にしたことがある。


いや、そうじゃないぞ、と。


常岡一郎先生ならそうたしなめるかもしれない。

そうやってただ闇雲に喜んで好きなだけ食べ、好きなだけ飲んで騒ぎ散らかすのは、道のない方に目がけて光を照らして車を走らせているようなものだと例えられたら、当時者等のその素っ頓狂ぶりがきっとおわかりになるだろう。

夜の暗がりの中でライトを灯して進むのは、道を探して歩くためである。

“道”は通るためにこそ光がつけられ、そこに存在する。

とどのつまり、いくら喜んでいようと、内々で楽しんでいようと、物事にはやはり最低限の節度や、自分達以外のまわりへの配慮は大切だという戒めのメッセージもそこに込められているだろう。


“道”とは何か 

「ありがたい、結構だ」という感謝の姿勢が道を探して照らす“光”の役割であるならば、ではここで言う“道”とは実際、何を指すのだろうか?

「そりゃあ、道っていうんだから天理教の教えのことでしょう?」


…いやこの場合、私はそうではないと思っています。
これは個人的な見解ですが、ここで指摘されている“道”とは

慎みの心


それを“道”と表現されているのだと私は感じています。

慎みが理や、慎みが道や。
慎みが世界第一の理、慎みが往還や程に。 

おさしづ(明治25・5・11)


楽しいことをするのだとしても、度を越さない程度を大切にし、
明るい前向きな姿勢・ポジティブな思考で振舞っていたとしても、価値観の違う他の誰かに対しそれを過剰に押し付けない。

欲しいものや望む形で満たしていくということより、慎ましい生活を心がけ、その中にささやかな喜びを見出して満足していくことが、本来のお道らしい模範的な生き方なのだろう。


そう考えると、天理教が掲げている陽気ぐらしのキーワード、

感謝・慎み・たすけあい

“感謝”と“たすけあい”は何となくわかるけど、一体どうしてこの中に並んで
“慎み”? という素朴な疑問が今まではあったものの、また違った印象が芽生えてくる。
一見何気ない標語もなかなか端的に的を射ていて、奥が深いものだなぁと感じていた。

【2013.9】



おまけ

灼熱のおぢばから地元に戻ってきたピーナッツ。

…涼しい。

娘が「暑ーい」と言ってる室温も、詰所のそれを体感してきた後だったので、とても涼しく感じてしまいます。
おぢばはやはり過酷な暑さだったようです。これからKОGに携わる多くの皆さんが体調を崩されないよう健やかに期間を過ごされることを願うばかりです。


詰所でひのきしんしている間、とある老先生に、

「普段どれだけ良いことを言っていたって、どんな役職や肩書きを持っていたってな、いざ信者をつくって月次祭に参拝してもらって、そうやって人を増やせなかったら何の説得力もないんだからな」

布教とおたすけに工夫を重ね、成果を残してきた先生だからこその強い言です。やってきた人にしか言えないことでしょう。

確かにそうなんだと思います。
おそらく正論でしょう。


その上で、「必ずしもそうとは限らない」という在り方も、どこかでは大切にしていきたいなと感じています。

信者を、人を、たくさんつくる、集めるということは、言うなれば“動”の営みです。そして一方で見方を変えれば、それは“数にばかりフォーカス”するという誤った方向づけにもなりかねないからです。

自身の心の内側に矢印を向けるという“静”の営みもあります。

“動”と“静”、どちらが大事ということもなく両方必要です。
どちらか一方だけに偏らないように、よく心がけたいと思いました。



ここまで読んでいただきありがとうございました!
それではまた(^^)





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