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「キリエのうた」岩井俊二

 ルカはキリエ、マオリはイッコ。本書の二人の主人公は、いずれも二つの名前を持っている。
 人はどんな時に二つ目の名前を持とうとするのだろうと考えた。
 まず、過去を忘れたい時、それまでの人生をリセットしたい時に、新たな名前で再出発するということがある。この場合、前の名前に付随した人生の記憶を無かったものにしたいという気持ちが強い。
 別のパターンとしては、もうひとつの「今」を生きるための名前として用意するということがあるだろう。タレントの芸名であったり、小説家や漫画家がペンネームを用いたりするケースだ。また、一般人もメディアに投稿する際にペンネーム/ラジオネームなどを使うし、SNSでは基本的な匿名性に加えてさらに裏アカというものもある。
 改めて名前というものが自分の多くを規定することに気づく。そして違う名前になることで、タガが外れ暴走してしまう恐れもある。今まで気づかなかった特性/才能が表に出てきて、まさに違う人生を形作る可能性もある。ルカ‐キリエもマオリ‐イッコも、新たな人生の展開に、本名とは別の名前を持ったことが――どこまで自覚的だったかはわからないが――影響したことは間違いないだろう。
 本書は著者・岩井俊二が「音楽映画」を制作し、その小説版として書き起こされたものだ。「音楽映画」という捉え方/言葉が著者のインスピレーションを刺激したそうで、映画での音楽のこだわりは相当強いようである。そういうこともあってか、やはり本書も映画的な展開や描写を感じさせるものがあり、こうした物語が好きな人にとってはとても心地よい小説になっていると思う。一方、言葉で徹底的に描き出すということは意図されていない(だろう)ことから、登場人物の心の奥底にせまるもの、機微を感じることはできなかった。雰囲気で感じ取るしかないというか、ただ、それも読む側の想像力の出来次第だといわれると仕方ない。感じたかったが、私の力不足だ。


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