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愛を教える 虚空蔵菩薩

リーディングマスター・まさみちです。八十八カ所巡礼の旅は、室戸岬まで到着しました。二十四番札所・最御崎寺(ほつみさきじ)です。ここも虚空蔵菩薩が本尊にあり、そこに石像が彫られていたので、撮影してタイトルに使っています。けれども、仏像として力を引き出すには「使えない」という事実を告げなければならない残念さもあるので、造形が良ければ仏性に繋げられるとは違うというものです。それ故に、天、明王、菩薩、如来とあるのですけれどね。毎日更新もカウントがラスト(87/88)までやってきました!

一つの願掛けみたいなもので、88回更新することをやっております。

明日は、私の誕生日であり、49歳を迎えます。

7×7=49 という数字の力も加わるちょっと面白そうな出来事が起きるのではないかと画策して、この仏像記事を連載しているものです。

今回は「虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)」です。

八十八カ所巡りといえば空海! 空海と言えば虚空蔵菩薩! と明けの明星が飛び込んできて、悟りを開いたという伝説があります。「虚空蔵求聞持法」を身につけると、経典のことを理解し、忘れなくなるとか? いうようです。

知識、知恵の信仰対象と人気を集めているところもあるのですが、実質どういうものなの? と紐解いてみたいと思います。

虚空蔵菩薩とは、「何もなくても全ての物事を知っている状態にあり、ただそれが見えず、知らず、解らないままであるだけで、適切な関わりをすれば全ての物事を理解出来ると導くものであり、人の価値観の歪みや知識の誤用なども解り、解決への道のりも諭すことが出来るもの」とした仏性を示すものです。

『虚空』という、「見えもしないし、証拠もない、実在していないものの中」に、求めたもののみに応える『蔵』があるのです。

「全ての物事の解答を知っているにも関わらず、どうして無知を装うのだろうか?」といったニュアンスの発想から、真理への探究をしていくものです。

世の中には、悟っていない人が、悟っていない人を導く情報しかなく、悟った人が、悟っていない人を導く情報を与えると、大変な問題を引き起こす可能性が高い為、直接的な解り易い表現で伝えることが出来ないものなのです。

心閉ざしている人に、心の開き方をどれだけレクチャーしても実は心を開かせることは出来ないものです。

悟っている人は、心の開き方などレクチャーせず、心が開いていることを伝えて救い出してしまうものです。

救ってからでなければ、問題解決に向けての取り組む姿勢すら、救う前とは違う為、心は開いていないと始まらないものなのです。けれども、事情があって心を閉ざしているのですから、心を開かせようという働きかけそのものが過ちだと気づかない限り、悟っていない人が悟っていない人への関わりは辛いだけになることがあるのです。

悟っていない人と、悟っている人では、教え方、関わり方、導き方など全部違うのです。

しかし、真理という教えは「望んでいる人の元にしか届かない」ものです。

学びが浅い段階の人には、真理に出会えないものですし、仮に出会えたとしても「一番大切な学びが書いてある」部分だけ意識が反れたり、内容を歪めて解釈してしまうなど、「望んでいるのに得られない」ことになるのです。

この「求めている」にも関わらず「応じて貰えない」ことに違和感を覚え、「求めているなら、必ず応じて貰える」ことが真実であるなら、悩みは消え去るものです。

しかし、そうではありません。ほとんどのことが望んでも応えて貰えない社会に住んでいます。

けれども、「お金を払えば」という価値観で大体は片付きますが、「お金では解決出来ないこと」を抱え持つことになり、よりたくさんの「お金を持つ」ことで、願いを叶えようとしてしまうものですが、どれだけお金を積み上げても、お金で片付かない問題の答えにはならないものです。

生きる上で、「衣食住」が足りているかどうかが重要な部分であり、それらを埋め合わせられるお金があることが、「生きる力」と錯覚してしまう理由です。

「お金があることが生きる力の象徴」と考えるようになると、「お金がないことは、必要な愛を手に出来ないもの」とした解釈を持つようになります。

「稼げない」ようでは、愛する人を喜ばせられないことを伝えているものです。

「稼ぐ為の努力」は、自分の為でなく、他人の為に動こうとすると、問題は解決されていき、お金も得られるようになる側面が在ります。

どこまでも他人に尽くし、他人を喜ばせるようにすることが出来れば、結果的に自分が他人により支えられ、様々な問題が無くなり、喜びに包まれて生きるようになれるのです。

それでも「どうにもならない問題」については、お金では決して解決出来ないことを、その身で受けてしまうようになるのです。

この「どうにもならない問題」についてでも、虚空蔵菩薩の仏性は、それを観察して「どうやってでも解決してしまうもの」として機能するものです。

心のモヤモヤがあるなら、放置せずに正しく理解することが答えなのです。

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物事を深く洞察していくと、「始めに否定ありき」とした「哀しみ」を見つけることになります。それを埋め合わす為に「お金」が必要となり、「これがあれば愛が得られる」と思うようになるのです。

「お金」がいらない、などと最も重要な位置づけであるものと引き換えにだったら「愛」がもしかしたら得られるかも知れません。

「欲しかったもの」を“いらない”と扱えるかが大切なポイントになります。

掛け替えのない人の命や、存在理由などは、代えが効かないものです。とても重要なものであり、心の支えとなります。その重要で心の支えとなるものを“いらない”と扱えることで、見捨てられていた感と感覚が繋がり、大いに負の感情を解放することとなり、楽になると共に失われていた思いを取り戻すことが出来るようになります。

失っていたと思い込んでいたものが、失っていなかったと気づけた場合、「哀しみは維持出来るか?」という問いに、答えは「維持出来なくなり、哀しみが消え去ります」と概念がガラリと変わることが出てくるのです。

虚空蔵菩薩は、物事の本質を突く仏性でもあります。

「問いかけるのも自分」であり、「応えるのも自分」だと最初から解っていれば、「問題の解決する方法論を協力して持ち合わせていくのも自分同士」ということになるのです。

「問いかけるのは幼き自分」であり、「応えるのは成熟した自分」であることです。これを最初から持ち合わせている存在が「虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)」なのです。

閃きを邪魔する想念があります。邪念など、邪念を放っている事実が見つからなければいいとした価値観です。この邪念を他人から自分に向けられている状態では、虚空蔵菩薩と対話が困難になるのです。

邪念を払う力が必要です。

邪念をどこまででも受容し、愛に気づかせるように働きかけて行くには、心が洗われるような思いをする必要があります。

「空」と「海」が果てしなく360度の、どの視野を持っても「空」と「海」は広大に広がっているとイメージすると、「移動すること」「移動した事実」を確かめることが困難になります。

この心が「空」であったり「海」であったりすると、無限に続く『邪念』の想念は瞬く間にクリアリングされていき、邪念は消え去るのです。

空や海には、人の心を穏やかにしてくれる作用があるのです。

まずは、自分の事を整えられる力を持つことです。

自己受容という、「自分の劣っているところも優れているところも認めること」とするものであり、意識を向けた通りの意識に心は自然状態だと、合致させられる力を持つものです。

ただ、自我の成り立ちが「哀しみ」に基づいているため、「哀しみ」は既に愛に辿り着いて癒やされているとし、自我の止滅を求められるようにし、それに応じられる必要があります。

自我の止滅は、存在理由が全てが「悪意」だと気づけると消え去ります。

虚空蔵菩薩は、どんな劣悪で、人を人扱いしていないと表現されても「100%悪意」とは認めないものです。それを「100%自分が悪かった」と考えられるようになると、正常な働きだと考えてください。

頭の中は自由である方がよいものです。

良いものが残り、そうで無いものはそれなりに扱われるものです。

エゴとなる自分の自我について、一切の「批難」や「不安」や「誹謗中傷」や「意気消沈」を持たないことです。これに類推するものがあると、人はずっと不審を抱いたままになるのです。

人が持つ本来の自然状態がいいにも関わらず、それが出来ないのは「自分の抱いている感情の方が正しい」とした認知がある為です。それが「負の感情は不要」であることを理解し、形を頼りに、必要とされる行動をしていくしかないものです。

「解こうとして解けない」

ではなく、

「解けるのは当たり前だから解けた」

と、解釈する方が心地よいのです。

物事の問題は「最初から起きていない」と解れば、虚空蔵菩薩と対話が可能となるものです。

現在を生きていながら、実際は過去も未来も創造しており、自分の扱いの不味さで過去も未来も苦しむ事になり、まさか自分が自分をいじめ抜いているから辛いと解れば、直ちにやめるものです。

マイナス行動などは、全部が見えていたら、絶対にやらないものなのです。

「愛から見つめれば解ること」ばかりあるのです。

けれども、その「愛」が解らないから、迷子になり、まず「愛以外のもの」を体験していくことで人生が始まるのです。

全部の「愛以外を見つけた」と解ると、それを転じさせたところに「愛がある」と教えて、やっと「そうだった」と解るものなのです。

今の、このままの状態で「愛に目覚めている」と仮説を実証するつもりで取り組むと、目覚めていくことになるのです。

最初から信じていることが大切なのです。

私たちは、愛そのものなのですから「解らないことはない」ものなのです。

虚空蔵菩薩は、前提の中にある苦しみに従わないとする力のことです。

苦しみや哀しみに従うと、マイナスがマイナスを加速して呼ぶ込むことになる為、使わぬ方がよいものです。しかし、それでも衝動というものは強烈なもので、呑み込まれそうになるものです。

その「呑み込まれそう」という感覚がわかる側にいるのが「虚空蔵菩薩」です。

自分が他人に本質的には無害な存在だとわかる力です。

あらゆる前提をオールオッケーにすることです。

その中で見つけられるものから、解釈を育て直していくことです。

ワークはありません。

詳細について突き詰めて考えみてください。

さまざまな、前提拒否が見つかるものです。

それを取り除けるようになったら、虚空蔵菩薩の扉が開きます。

心の浄化を手伝ってくれる存在です。

そして、自分の投げかけた言葉に対して、相手が「否定」から入るか、「肯定」から入るかによっても、世界は変わります。

前提を否定し続けることで、想念の力を蓄えることが出来、巨大な問題となって押し寄せてくるものがあります。

例えば、子に対して「早く結婚して欲しい」と、『結婚しない前提を否定する』ことで、「建前ばかりを気にするようになり、事故に遭いやすくなる」などが生じるものです。

事故に遭ってもいいほど、「結婚を望む」ものかどうかを想像し、検証して欲しいのです。マイナス体験と引き換えに望む希望では、希望とは言わず優越感を満たしたいと扱うものです。

この一連の流れを見る眼差しが虚空蔵菩薩であり、その智慧を閃き降ろしてくれる扉なのです。

使い続けなければ、見つけ出せないものですが、いつも側にいて力を貸してくれる頼もしい存在です。

自分の見ている世界を、自分が納得する言葉で彩りを添えてみると、世界が素晴らしくなります。

いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。





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