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手を差し伸べて 千手観音坐像・受

リーディングマスター・まさみちです。二十八部衆の解説が終わり、千手観音についての解説です。自分の心理カウンセラーとしての脳内でやっていることの片鱗を少しでも解るように伝えたいと思って記事にしております。(75/88)

「仏との対話」は、仏性となる高次のわたしとの対話ともいえるもので、スピリチュアルの世界においても「自己との対話」であり、「神との対話」にもなるものです。

「仏との対話」と「神との対話」との違いとは何か?

神仏は同じか違うのか? という概念的分類はどこを指しているのか?

考えて解るものでもなく、「教えてもらう」ことでもしなければ、どう整理していいものかよく解らないものです。仏教においては神は「天部」とした扱いになり、それも紐解くことが出来てしまうと大日如来の分身みたいなものに扱われると、一体神と仏ってどういう区分なの? と益々謎になるものです。

ここでは西洋要素の神のこととして定義してみます。

の意味、定義とは、「問えば答えを授ける人類共通する『主』となる叡智の源のようなものを指します。相対する状態や環境や問いかける意思の在り方により、対象となる範囲や解像度の鮮明さや粗雑さが変わるものです。問いかける自身の求めに応じた想像力を授けてくれるもので、様々な価値観の相違や解釈の歪みなどを許した上で対話することで、真なる智慧をもたらす表現することの出来ないもののこと」となります。

神道に見られる、日本の神社に祀られる神のことを定義してみます。

の意味、定義とは、「奉られている存在と対称性で現れる自身の高度な自分との対話をもたらすもののこと。雑念や邪鬼などの心の穢れが災いをもたらすものと扱い、対話を通して穢れの祓い清め方、不快さの取り除き方を授かり生きやすくするもの。来訪する者の扱い方や、物事の変化にどう対処すればよいのかを、自身の自我で判断させず天命に任せるために指示を仰ぐための存在のこと。見えない共通の対象を中心にして和としてまとまるためのもののこと」となります。

仏教における、仏のことを定義してみます。

の意味、定義とは、「大いなる“わたし”のことであり、超越的な自分の全てを知るもののことであり、見失われやすいもののことです。純粋な私と認識しようとしても認識しがたいもののことであり、形容しがたい表現不能なもののことを“梵(ぼん)”と定義するもので、その梵の中心から離れる階層や方角によって現れる智慧の姿として名付けているもののことです。太陽が太陽をどのように自己認識するかを考えるようなもののことであり、その中心に存在しながら、中心を捉えることが出来ない“真我”としての名付けようもないもののことで、“あなたから見られる私のこと”を示すもの」となります。

梵(ぼん)の意味、定義とは、「女性の心中にある“真我”と、男性の心中にある“真我”の両方を同時に捉えつつ、全体を掌握して普遍的に臨在するものこと。あらゆる物事に触れて支えている“宗(素)”であり、阿吽の内外に存在するもののこと。私を認識する大いなる“わたし”を感じ取る主観性のことであり、どこにでも在り、どこにでもないもののこと」となります。

このような定義を用いても、実際に神や仏をどのように認知して、対話に到るかはその人の資質や勤勉さによるものになります。

千手観音坐像は、十一面千手千眼観音と表現するものとします。坐像と立像の違いは、「求めなければ会えない存在(坐像)」というものと「いつも側にいる仲間たちのこと(立像)」といったニュアンスがあります。1001体ある、千手観音立像は家族であり、友人であり、関わる人々のことを指すものです。それ故に、「坐像となる人に会う!」決意すると、関わる仲間や人々となる「立像たちがこぞって会えるお膳立てをしてくれる」ものだと認識すると「坐像となる人に出会えた時、『全てはあなたに会うために起きていた出来事』だ」と解るものです。

十一面千手千眼観音の意味、定義とは、「あまたの苦悩の根源に寄り添い、それらが発生した始まりの哀しみから、愛されていたと気づいて救われる全てを見透すもののこと。不幸とされる“教えの歪み”によりもたらされる相対する認知の欠如から発生する悲しみから発生する怒り、貪り、愚かさを解明し、真実を知れば誰もが目を覚まし、迷いを払っていくもののこと。あらゆる立場や状況や関係性により、解釈が変わって捉えられることを知り尽くし、必要な問答を与えられる存在のこと。全ての謎を解き明かし、真理(法)へと導き、心の平穏を与える仏性のことである」となります。

こうして、神仏の定義西洋の神の定義の違いがわかると、神社に求めるもののニュアンスと、寺に求めもののニュアンスが違うことが解るでしょうか?

役割が重なるものもあり、求めものが違うため、神道における神との対話や、仏教の対話や、スピリチュアルの世界からイメージされる西洋の神との対話が絡まり合って存在するもので、混乱する要因になっているようです。

それ故に、宗派などというもので定義別にして「こっち方面」「あっち方面」で解釈を固定化させることで棲み分けしているイメージを受けます。

千手観音は、そういうものを全部丸ごと含めて捉える心眼を持つ仏像としたニュアンスを感じるものです。大日如来=?=薬師如来=?=千手観音のようなイメージです。

薬師如来を見てきて感じるものは、大衆の無限ループに特化した十二神将からの回帰を見るものであり、千手観音を見てきて感じるものは、領域の深部における個人の無限ループからの救済を見るものです。

千手観音の意識の動かし方や、仏性へのアクセスは、自身が救済されていないと到達出来ないものです。

タロットカードにおける78枚のカードと、四国八十八カ所の88という数字の持つ意味合いは霊的な真理において被ります。差異となる10を捉えられる目を持つ仏性が千手観音とも表現していいものです。

この差異の見えない10を認知出来る力が『梵(ぼん)』であります。

五蘊(ごうん)における、「色・受想行識」を、千手観音からでも「受」において解説していきます。

受け入れることから始めよう・千手観音坐像

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千手観音坐像を見て、受け取る感受性というものがあります。

目、耳、鼻、口、身など、五感による情報はもちろんのこと、脳内に様々な思いが湧き上がるものでもあります。

造形美を感じることもあれば、言葉にならないものを受け取っていると表現する人もいるものです。写真でわからないものが、三十三間堂に赴くことで触れられるニュアンスがあります。そして、写真であっても意識を繋ぎ結ぶことで受け取れるものもあります。

仏性という『大いなるわたし』千手観音坐像に見て、受け取れるかをイメージすると何を感じるものか捉える必要があります。

意識的に、自分は何を『心の動きとして見られている』と認識してみることです。

千手観音という「大いなるわたし」は、「一体何をわたしに言おうとしているのだろうか?」と、受け取るイメージを想像してみることです。

千手観音というもう一人の自分という存在(仏性)を、全てを見透す心眼を持ち、『梵(ぼん)』さえも解っていると仮定するなら、対面する私自身をどのように見つめているのか想像するのです。

この時、質疑応答すれば、閃きや思いつくことが浮かんで来るのです。

多くの場合、「どうしようもない愚痴」や、「いつも思いついて離れない不満」などが湧き上がるものです。それをそういうものから始まると知り、諦めることなく雑念にしか思えない自身の愚痴や不満を余すことなく聞き入れることです。

「受け取ることの力を持つ」

それが傾聴であります。

自分が千手観音を前にして「すごい」「荘厳だ」という感想を抱くことよりも、「うちの子が暴れる」「妻の金遣いが荒い」「会社に行きたくない」「何もしたくない」という思いが次から次へと溢れ出て来てよいものなのです。

人は、不快な雑念や邪念と表現されるものが脳内に浮かぶことさえ忌み嫌うものです。「こういうこと考えてはいけない」をして、不満や悪意に近しいものなどを解らないようにしてしまうことがあります。

それをここではやめて、存分に解放して千手観音の前にさらしていくのです。

自分が普段思いつくことをひたすら受け入れて、千手観音の眼差しの中「愚痴る」のです。普段の自分が部屋で「愚痴る」のとは種類が違うことを意識してください。三十三間堂の仏像群の中で、二十八部衆と風神雷神がいて、1001体もの千手観音立像まで並び、中央に千手観音坐像がいる中で「愚痴る」のです。存分に愚痴っていいと許しまくってください。

人は目上の存在や、偉大な人を見ると萎縮してしまう傾向があります。

これは「親に怒られた」「師に駄目と禁じられた」「先輩に許可がいるものとされた」「他人に迷惑をかけないこと」などがあり、主体的に判断してはならないように無言の圧力で封じられてきた人生があるからです。

しかし、目上の人である、「仏性を示す親は怒るのか?」「仏性を持つ師が禁じるのか?」「仏性に従う先輩が許可を要求するのか?」「仏性と共にある他人が気遣うようにと要求するだろうか?」捉え直してみることです。

千手観音の前「愚痴る」自分に対して、千手観音は優しく「愚痴を聞き続けてくれる」ことが体感してわかると、仏性のなにかが触れられるようになります。

みんな愚痴を、仏性である「大いなるわたし」に見せないでいるのです。

聞いて貰えるだけで、「受け取って貰えた実感がある」と、人の心は安らぎます。

物事として出来事は、起きています。

ニュースなど遠い世界のこともあれば、学校からの連絡や、職場でのやり取りなど、日常生活で肌身に感じていることがあります。

それを無条件「起きました」受け入れることです。

どれこれも日常の出来事というものは「済んだこと」です。

どれもこれも「取り返しのつかない掛け替えのない一瞬」でしかないものです。

一期一会(いちごいちえ)というものとは、知っていたとしてもその意味合いを実践出来ていない人が多いのです。

全てを、ただ肯定的に「はい、解りました」と受け入れることです。否定的解釈をやめて、肯定してみるところから始めて見ると、つっかえていた思いが自由に吐き出せるようになります。

悪口であろうと、批判的なものであろうと、千手観音ですから、あらゆる手立てを使い救済する自分の神秘の仏性がそこにいるのですから、頼って「これでも救えるなら救ってみろよ!」と、三十三間堂の中で大声を出す勢いでイメージして見ることです(本当に声は出さないでください。大切なのは本気になることであり、心を開くには見せかけのきれい事をやめて、素の自分をどうやったらさらせるかを掴み取ることが目的です)。

人生において、親や先生などの関わりにおいて「悔しいこと」「笑われたこと」「関わってくれなかったこと」「嫌われたこと」「惨めな思いをしたこと」「許されなかったこと」「不当に扱われたこと」などを思い返しては、云えなかった思いを吐き出してみて欲しいのです。

千手観音は、どのように受け入れてくれるのか、吐き出すだけ吐き出してみることです。

千手観音は「何も」言いません。

話をしてくれることよりも、「ただ聞き入れてくれるだけ」というイメージの方が良好なやり取りが出来ると想像していてください。対話しても良いですが、アドバイスをもらうよりも、受容される体験こそ、大事なことです。

対話は「識」のパートで知らせます。

仏性で大切なことは「無」として、全てを吸収してしまえるだけの「吸い込まれる闇の無」とイメージすることです。暗闇のイメージは、全てを吸収してしまうイメージがあります。不安や焦りなど隠しきれない負の感情が湧き上がるものなので、湧き上がらせて、「無」に受容させることです。。

それら不安や焦りも全部、聞き入れてもらう(無に受容させる)ことです。

鳥肌が立ったり、いても立ってもいられなくなったり、この場から逃げ出したくなる衝動にかられるなど、隠し込んでいた闇の心千手観音により引き出されて、無に吸収されて受容される過程は、終わるまで苦しくなるものです。

この過程の苦しみが、内観における取り組みを中断させる恐怖です。仏との対話やめたくなる恐怖の正体です。

恐怖は逃げたしたくなるものです。

それでも三十三間堂の中にいるイメージを持ちながら、千手観音の前にいると想定して、心を開き、不安や焦りが浮き上がってくるなら、どれだけ不安や焦りが続くかトライしてみることです。隠し込んでいた不安や焦りの負のエネルギー量は限りがあります。

恐れは有限です。

愛は無限です。

有限である恐れの不安や焦りには、限界があるので取り組めば終わりが来ます。

愛には終わりがありません。

愛に基づく生き方に切り替えるタイミングが来たのです。

有限でしかない恐怖や深い哀しみなどを後生大事に抱え持つことの意味などありませんから、味わい尽くして聞いてもらえば無くなります。

無くなれば、スッキリと解放され、寝入りも目覚めも良くなるものです。

健康にいいものです。

取り組んでみてください。

ワークを教えます。

三十三間堂の全ての仏像と千手観音坐像をイメージして、自分の感じるまま受け入れてもらう告白をすることです(上記の説明と同じ)。

千手観音坐像を自身と重ねてイメージします。この千手観音坐像に千体(男)の千手観音と、千体(女)の千手観音を合わせてイメージを重ねます。
鏡を用意し、その鏡に全てを重ねた千手観音坐像と自身を映し出します。
鏡の中に映し出した千手観音坐像と自身に向けて「隠して云えないことを話してみませんか?」と三回問いかけると、何かを思いついて話し出してくれるので、傾聴して最後まで聞き入れてみてください。

人の心は、他人が自分を「理解してくれない」と思うものです。

実際は、自分が自分を「理解してくれない」ことで思い悩むのです。

受け入れるのは、一人や二人の自分ではないのです。男性性千体の自分と、女性性千体の自分と、それを合わせ持つ自分の梵の心に受け入れるように話しかけていないのです。自我が真我に思いの全てを見せていないことが問題なのです。

みんなの愛に押されて「話してみる」ことです。

一人でいる時であるなら、千手観音坐像をイメージしながら「寂しかった」と108回、声を出して唱えてみることです。自分がどのような体感覚になるのか実験してみることです。

体感ワークは、やらなければわからないものです。

やり続けなければ意味の無いものです。

「惨めだ」「逃げ切った」「冤罪が晴れた」「報われた」「幸せです」「ありがとう」など、108回唱えるワークは幾らでも作り出せます。

繰り返し問題や悩みは出てくるものを丹念に一つ一つ解き明かして行くことです。

言い聞かせず、不安や焦りの謎を解くことです。

自然体に戻れるようにしてあげてください。

手を差し伸べてくれている大いなる愛のわたしの手を掴んでください。

共に生きましょう。

愛の世界へようこそ。


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。





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