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未来を愛する 弥勒菩薩

リーディングマスター・まさみちです。四国八十八カ所巡礼の旅が再開し、身体に現れる症状と対話しながら、徒歩で移動しております。二十三番札所と二十四番札所の間は長く77kmほど? あるので、この隔たりの遠さは初です。それ故にか、身体にかかる負荷も初の想念に覆い被されて足取りが重いです。気が巡ると痛みも消え去る体験は、何度体験しても不思議です。筋肉痛? 疲労痛? ではないのか? というほど、痛みは消えたり、突如現れたりしております。身体の声を聴きながら楽しく歩いています。(84/88)

弥勒菩薩(みろくぼさつ)を紹介します。

この菩薩は56億7000万年先に、救済が行われるとかWikipediaなどに書いてある、有名? な話しであり、私も10代の頃に見聞きした記憶があるくらい知られているものだと思います。

「遠い未来」の比喩表現というのもあるので、何かしら別の意味合いが含まれている表現ではないか? と論ずる人たちもいるようです。

若い頃、この「56億7000万年先に救済が起きる」とか言われても、「意味あるの?」と、期待どころか、見放された感満載になるだけのものなのですが、みなさまはどう感じてお出ででしょうか?

この「未来仏」と呼ばれる「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」も、仏性の一つであり、「このように繋がれば、弥勒菩薩(みろくぼさつ)とした“大いなるわたし”と繋がり、対話が出来る」と伝えたいと、あの頃とは違う認識を得たのです。

弥勒(みろく)とは、「既に何かを始めようとしたとき、必要とされる情報の全てがここにある」と伝えてくれる存在であり、「物事に対して、無条件に信じることから始めるものの、正しく疑い、公表出来るものかどうか確かめ、信頼に値するものとされるよう支援するもの」とした仏性です。

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56億7000万年という数字の解釈として、仏性との対話を目的として考える未来仏であるなら、56億7000万年先の未来まで、転生を続けて魂の学びをしていたら「さすがに悟っているだろう」とイメージ出来るか考えて欲しいのです。

地球誕生46億年から、考えるなら56億7000万年という途方もない時間経過を果たしているなら、理由はどうであれ「悟ってていい」と思えるかがポイントになります。

ここで、それだけの時間を費やしても「悟れそうにない」と56億7000万年も時間を無駄にしか出来ず、どれだけのサポートを受けても断固拒否れる方は、「ごめんなさい」救済の手立てがありません。ありとあらゆる手放しでも「悟れるサポート体制も確立されるだろう」と想像しても、「いや、やっぱ無理だと思う。これだし」と、今生だけで考える事に固執する方も「ごめんなさい」救済の手立てがありません。

このように56億7000万年という、桁違いの手間暇を時間かけてやる転生未来を信頼出来るかどうかにあります。

これが出来ましたら、56億7000万年の未来から、悟りを開いた自分自身が、タイムマシンのようなもので「今ここ」の自分に寄り添ってくれることをイメージする仏性なのです。

超絶悟りを開いちゃってます自分が、見えないけれど寄り添っていてくれるのです。

その未来の弥勒(みろく)しちゃっている自分が、今のあなたの姿に「それでいい!」と応援してくれていそうか、「あー、この時の私ってこれを知らなかったんだよなぁ」と見ているのか、どっちをイメージ出来るのか?

それが未来仏の取り扱い方法ぐらいに認識してもらえるといいものです。

今の年齢から、10代の若かりし自分に「やっちゃってたね」と微笑ましく見ていたり、痛々しく見ていたりするものです。少なくとも激怒しているとか、悲しい顔をしていることはないです。何しろ「悟っている未来の自分」ですから、滅茶苦茶上手に諭してくれるし、導いてくれる存在なのです。

ただ、当時のやんちゃ具合や、向こう見ず具合も承知しているので、サポートの仕方も、弱点もよく解っているのが「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」なのです。

それでもこれまでと違うのは、未来の自分がサポートに既に来ていてサポートが始まっている事実を今の自分の方が知っていることです。これは大きな変化です。

一人でしか居ない孤独の自分に、自分を熟知し尽くしている悟っている自分が寄り添っているので、解らないなりにも助けが入っている安心感に繋がります。

今の自分で対処していた事例を、未来の悟っている自分で対処するとしたらどうするのか? それをイメージしてみるのです。

「この人ってこうして欲しいのだろうなぁ。でもしてあげるのって、エゴに乗せられるようで嫌だなぁ。だから『してあげない』としよう」と、決めていた物事が、弥勒菩薩(みろくぼさつ)している自分だったら? で考えてみるのです。

「この人ってこうして欲しいのだから、その通りにしてあげて、尚且つ期待以上のことまでしてあげたら嬉しがるだろぅなぁ。だから『してあげよう!』としよう」と、弥勒菩薩(みろくぼさつ)だから、弥勒菩薩(みろくぼさつ)に、やらせてみるのです。自分の身体を使わせて。その結果で判断していくのです。

今の自分には出来なくても、未来の自分が乗り移ってくれるなら出来るものがあるかも知れないというものです。

しかし、そのようにイメージしても出来ないものは、出来ないのが仏との対話です。

私の記事とワークは、セットです。
ワークだけ抽出して、後からワークだけやろうとしてもうまく出来ないことがあります。それは、記事全部が読んでいく過程で、気を整える経緯が込められているので、その延長にあるワークを、そのまま実行すると何故だかイメージ出来たり、対話出来たりして、感動することがあるのは、お膳立てに従ってくれているからです。

別の日に、ワークをしようとしてもうまく行かない時があります。その時はもう一度読んで取り組んでみてください。

読むだけでも精神的な安定になることがあります。

弥勒菩薩(みろくぼさつ)になりきり、未来の何でも解ってます感覚の自分が他人や知人に対して「嬉しがること」をしてあげることです。

生理的に嫌なことであることが多く、敗北感や、屈辱感の要素が感じられる為、やりたがらないものです。それでも弥勒菩薩(みろくぼさつ)だからと、やってみると世界が変わるかも知れません。

この「嬉しがること」をイメージしても、ウンともスンとも言わないほど、イメージが出てこなくなることがあります。これは、とても大きなストレスを相手との間に抱えており、それを察知している状態にあるものです。

いつもは思わない不平不満や、嫌な体験を思い出すなど、ストレスの渦中にあると、通常思考から、マイナス感情・ネガティブ発想に陥り易く、仏性などどうでもよくなります。

仏との対話など関心が消え去るものなので、「私、今おかしいかも?」と思えると良いのです。これも「未来の私だったら、今の状態は正常と思う? 異常と思う?」と確かめてみることです。意外と「異常」とイメージされてしまうことがあるものです。

この「正常」「異常」の判断は、さらに良質で品格のある視座、“大いなるわたし”となる仏性に繋がっていないと解らないものです。それでも、未経験でも到達可能な判断力なので、誰でも備わっているものなのです。

この未来の私としたイメージを活用出来るようになると、「全部知っているのに、何、暇つぶしみたいな生き方しているの?」と思うようになれるとよいものです。

悟っている未来の自分がいて、今の自分を「何とかしてくれようとして手を貸しにここにいる」のだから、今の状態でいいというものでもないということが解ります。当然、今の自分を作り上げた過去も問題があるから、現在も問題なのです。それでも遠い未来は悟っているので、問題が無いのです。

では、この未来の問題ない弥勒菩薩が、現在も過去も指導し直してくれたら、過去も,現在も、未来も、悟ってました! という理屈に到達出来るとイメージ出来ると良いのです。この文脈がわかるなら、「弥勒菩薩」は既にあなたと共にあることがわかります。

あとは、意識の使い方になります。

ワークを教えます。

56億7000万年先から、全てを知り尽くした弥勒菩薩(みろくぼさつ)が、あなたを完全に乗っ取り、制御機能を奪われたことにします。自我の自分は片隅に追いやられて、見ているしか出来ません。口出しも手出しも出来ません。弥勒菩薩になってしまっているとして、気にかかる日常の雑念の苦しさや、人との関わりにおける問題事項など思い浮かべ「笑い合っています」と宣言します。すると、エゴが大噴出してくるので、それを一つ一つ聞き流していくことです。聞き入れる必要はありません。言いたい放題、言わせてあげることです。弥勒菩薩ですから、言い尽くしているのか、言い淀んでいるかも識別出来ます。最後まで出来たら終わりです。

弥勒菩薩は、弥勒如来でもあり、様々なサポートの違いがあります。

「嬉しがらせること(受)」「嬉しいこと(想)」「嬉しくさせていくこと(行)」「嬉しすぎるしかないこと(識)」というイメージで、全般に嬉しくさせていく方向性で、物事を考えていくと、相手との軋轢(あつれき)やわだかまりが解消されていきます。

人との衝突は、人と人との間に、溜まりに溜まった負の感情や、魔の発想です。

全部取り除くことが出来れば、人は変わります。

未来から救済が、誰の元にも訪れているのですから、救われない筈などないのです。

弥勒菩薩化している自分は悟っていますが、今の自分は悟れていないのです。しかし、悟れていない自分が悟っていると嘘をついて、真似て悟った振る舞いをしてみることです。

好感触の周りの評判なら、そのまま続ける方が人には喜ばれます。

ここに自己犠牲がなければ良いのです。

健やかな心が、日々、何を思うのかを想像してみてください。

笑えたなら、既に弥勒菩薩が側にいます。

共に笑ったらいいのです。


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。


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