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神道・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)

リーディングマスター・まさみちです。見えないものを研究しております。

神社などの信仰の対象となるものは、ご利益や普遍的真実がそこに宿されていない限り、受け継がれないものだと考えております。

時代を越えて継承されるものには、確かな自然の命みたいなものが宿っており、そうしたものをわからないなりにも感じているからこそ、伝統と成りうるものとして認識しております。

色んなものが時代と共に形骸化したとしても、それでも継承されることは凄いことの筈です。

心理カウンセリングを仕事としておりますが、神道についてもアプローチがはじまり、お気に入りの神社の神さまと繋がり、そこから伝えられる今年の道行きなどのメッセージを降ろすことをしました。

そこで笠間稲荷の神さま、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)さまと繋がることとなり、そのようにして必要なメッセージをお届けしました。

この笠間稲荷に参ると、いつも尋常ならざる狐の精霊たちが迎えてくれます。

初詣に寄ってみると半端ないでかさの狐がおりまして、これまで九尾が最大の霊格を持つものだと捉えていましたが、十二尾もある霊格の狐もいると感じてビックリしておりました。

この狐の精霊に気を取られておりましたが、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)さまと狐の精霊は別であります。

Wikipediaには丁寧に色々と教えてくださいます。


リーディングをする私の視点というものは、「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」さまがどういういきさつや背景を持って名前をつけられ、奉られることになった存在のはじまりを読み取りに行くことをしています。

伝承にある日本書紀や古事記などを参考にしないわけではないのですが、それを読んでも多分本質に到達することはないと感じるからです。まったくの嘘ではないものの、書き記した事のはじまりが何か、どうしてそれを後世に残すことになり、「口伝で残す解説者なしには判別出来ないもの」と心得ています。後世に残るほど本質を貫く何か偉大なものがあると感じ取り、それらを明確に識別出来る状態に到達していなければならないと思って読み取りに取り組んでいます。

Wikipediaには穀物のこととか「イザナギイザナミが飢えて気力がないときに産まれたとしている。飢えた時に食を要することから、穀物の神が生じたと考えられている」とあります。

名前には力があり陽の要素として「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」、陰要素として「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」とあり、その名を唱えればそれに給わることが出来、その力を借り受けることが出来るというものです。

言葉と一つになる力を「給わる」と扱うのですが、言うのと実践するのは違う訳です。これが出来れば悟りを開くなどは当たり前になります。

この名を唱え「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」に意識を一つにすると、「絶体絶命でも諦めずに何かをそこで掴み取ろうとする意識の表れ」というニュアンスが届きます。

倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」に意識を一つにすると、「自分が不退転の決意を持ち、ここで自分が全ての人の命運を背負っているとしたならば、気に迷いでは済まされないほど真剣に物事の変化を感じ取り、そこに細部に渡り丁寧に関われる対処をしなければ、取り返しのつかない事態が起きるかも知れないという一瞬を大事にする意識の表れ」としたニュアンスが届きます。

稲荷信仰が盛んな背景には、商売や収穫など利益に直結するものでありますし、背に腹は変えられない切実な毎日を送るギリギリの糧の中、少しでも豊かになれる知恵や力を貸してくれる神さまと一つになることで真摯に取り組む人々の気持ちの背中を押してきたというイメージが読み取れます。

イザナギイザナミが飢えて気力がないときに産まれたとしている。」というものも、夫婦が飢饉など生活ギリギリの時に子らを食べさせる為に団結して力や知恵を振り絞る時の意識の表れが「お稲荷さま」とでも感じていただけると、神の道というものが少しはイメージ出来るのではないでしょうか?

神道の難しさは、この「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」さまにおいても、「倉稲魂尊(うかのみたまのみこと)」さまにおいても、「必死」の在り方が夫婦の中のレベルや質によっても様変わりしてしまうことです。

本殿には鏡が奉られているように、自分たちのレベルに等しいメッセージしか得られないものです。

それ故に、自分が神さまをどれほど尊び、敬う気持ちがあればあるほど神社に参拝するときの敬虔な姿が危機的状況を乗り越える知恵や力を授けてくれることにも直結するので、信じ甲斐のある神さまとして信仰を受けやすいとも言えるものです。

とはいえ、信仰は取引するものではありませんけれど。

仕事として宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)さまと結び、一年の道行きを降ろしていただきましたが、普段の判断力の乱れや思い癖なども指摘され、導いてくれ、様々なことを教えてくださいました。

宮司や巫女、神託を降ろす人がどれだけのことを降ろし、届けられるかは「人の器」によりけりです。

一心に信仰し、祝詞を上げることも大切ではありますが、事の始まりを見る神眼を持つことも大切なことです。

ただ、人も神も、求めていない人に与えても受け取れないものであるように、求めた内容しか受け取れないものだと知らなければなりません。

穢れを持った心のまま、求めても与えられるものは穢れです。
清められた心で求めれば、与えられるものも清いものです。

こうした神事の話など持ち出すだけでも、

「意味わからん」
「必要性を感じない」
「不快感しかない」
「なんか嫌な感じがするからしない」

など、宗教にまつわることを毛嫌いする反応を持つ人も中にはいます。

例えそういうことがなく、日本の神さまなど神社好きの人であったとしても、いざ問いかけられると、抵抗する意識が浮上してしまい「穢れ」なる不信感を抱いている自分に無意識、無関心だったりします。

本当のことは自然が全て教えてくれるものです。

言葉さえ自然から生み出されたものだと想像する力があるのであれば、それがどのようなパターンや波長を持ち合わせているか探究してみるのも面白いものです。

言葉は神です。

知った言葉を使うか、知らぬ言葉を使うか、知るも知らないもない言葉を使うかでは、届くものは違います。

神道にもリーディングする力は有効です。

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