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仏の愛に包まれて 帝釈天王像㉘-7

リーディングマスター・まさみちです。好きなことを好きなだけして生きて行くのは誰しも求めるものですが、好きなことだけで食うことは出来ないものです。この仕事をする前はサラリーマンをしておりました。しかし、好きなもので食えるようになるにはその期間も大切な学びであり、好きなことをする為の前段階では必要なものだったように思えます。そう考えると、好きでもない仕事などしたことなど一度もないのかも知れません。心のことを解説する記事を書き綴っています。(74/88)

心の構造の一部を三十三間堂を通して理解する一端になればと思い、記事にしています。

東寺・立体曼荼羅の二十一体の仏像の役割もざっくり解説してみました。あちらは仏像との対話の方が重点にあるように思え、こちらの三十三間堂の二十八部衆は、「救済」における道のりや、心の全体像を通して意識を相対的な部分を含め、掌握していなければ治せるものも、治せないことを解いてくれているように感じます。

第七チャクラは、「主観性からわかる状況認識があり、自我の観察や記憶の整理と共に、意識の掌握を担うもので管理統制しつつ、独立した行動管理も出来るもので、個体と全体の連動も出来、個体のみ独立することも出来、全体に従い個別性を主張しないでいられるもので、反射の集合体で動くもの」であります。

五蘊(ごうん)となる「色・受想行識」「識」のパートを㉒〜㉘まで紹介しており、㉘においては1〜7まで細分化して紹介しているものです。

第七チャクラ第七チャクラ重ねて主観して見る力がある為、自分の世界観の中に埋没し易く、絶対値として「私は正しい」「私は間違っていない」に入りやすいものです。

「⑦傲慢〜傲慢(行)」「⑭遺棄〜遺棄(想)」「㉑迫害〜迫害(受)」「㉘冤罪〜冤罪(識)」主観性として働き、機能不全を引き起こしてしまい「哀しみ」に囚われたまま、動けなくなるものです。それに対して「哀しみ」に「負けない」という抗うことで「哀しみ」を踏み台にして頑張るのです。

「哀しむ弱い自分」に相対することで「強い自分(行)」を維持するのです。
(※正しくは「強がる自分」になります)

「哀しむ辛い自分」に相対することで「喜ぶ自分」を作るのです。
(※正しくは「あざ笑う自分」になります)

「哀しむ惨めな自分」に相対することで「賢い自分」を演じるのです。
(※正しくは「ずる賢い自分」になります)

「哀しむ愚かな自分」に相対することで「自由な自分」で生きるのです。
(※正しくは「盲目な自分」になります)

「自分の事が嫌い(色)」という姿は、分解すると「嫌うしかない自分(行)」「嫌う自分(想)」「嫌らわれている自分(受)」「嫌われてしまう自分(識)」になります。

周りに合わせ傲慢に見せないように自分から、「私って駄目だから(行)……自己否定」という表現をすることで、相手に「嫌わないよ(想)……自己否定だが他人は肯定」「嫌うわけないよ(受)……自己否定だが他人は肯定」を引き出し仲間でいる確認をします。

自分は二人に肯定され、深部に隠した「嫌われてしまう自分(識)……良かった嫌われていないから今は大丈夫と自己肯定」することで、束の間の安堵を得るものです。

これが繰り返し続く限り、マイナス発想に対してプラス発想で関わる構図があるので、自分の「哀しみ」に触れずに済みます。

この自分嫌いに対しては、四カ所(受想行識)とも、嫌っている「哀しみ」でしかない姿なので、「やめる」ことです。

千手観音がどんな手でも使って救済しようとする「深い哀しみ」で必要な力は「慈愛」です。この慈愛の力で嫌い合う自分同士を「やめる」ことが出来れば、「㉘冤罪(識)」のままである記憶の解釈を改めることが出来ます。

11,道、慈愛、「誰もが哀しみを通して愛することを学び、信じることでしか前に進むことは出来ぬと知っており、苦難の果てに辿り着く真の優しさであり、大いなる許しのことである」

10,現、慈悲、「誰もが哀しみを抱いているものとし、改めさせようとすることよりも庇い立てて力を合わせて窮地を乗り越えて行くこと、弱きものは休ませ、強きものが支えて行くことで解り合おうとすること」

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