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真愛の力 大梵天王像㉒

心と言葉を研究し愛してやまないリーディングマスター・まさみちです。心理カウンセラーとして活動を決めて動き出してから,毎日、明けても暮れても心と言葉について勉強を重ねています。もっとも外から学ぶよりも天から閃き降ろして学ぶことの方が多くなってしまい、統計学としての概念と、自分の持ち合わせているものとのすり合わせをしていかなければならない問題に直面しています。それは今後の課題としてクリアしていけると信じて、今はこの二十八部衆を紐解くことに専念しています。(62/88)

「悟る」と、こんなに色んな事が「わかるよ」と、伝えたくて表現しております。

実質問題、自分が「悟る」なんて境地に辿り着くとも考えてもいませんでしたし、この研究の道が、結果的に「悟りを開く」などという到達地点に至るとも思わないので、目的意識などなくても到達出来ることを伝えておきます。

心理カウンセラーとして活動してはいますが、引く手あまたという程問い合わせがじゃんじゃんというものではなく、淡々と予約がとりあえず埋まるというもので、与えられた時間を提供したら、それが綺麗に埋まるので、生活の苦しみや悩みというものはないのが現状です。

宣伝活動もしていないと言えば嘘ですが、大々的に告知活動もしていませんので、この通り、読み手も2021/05/10時点では、「スキ」の数も一桁ほどです。

千手観音という菩薩がどういう意識の使い方をしているかというなら、「全部やる」という感じの意識です。

五蘊(ごうん)で知られる「色・受想行識」であるところの「識」の部分がここから紹介していくパート(㉒〜㉘)になるのですが、この「識」というものは、単純に定義づけるなら「解釈(受)、恩恵(想)、意図(行)、記憶(識)」という表現が当てはめられます。識の中にも「受想行識」が込められていて、これがフラクタル(相似形)構造として幾らでも展開されていくくらいに思ってください。

意識とは、記憶のことを指していて、わたしたちは記憶に縛られているものなのです。体験した記憶の解釈の間違いから、問題を引き起こし続け、永遠の苦しみの業(ごう・行為(カルマ))に閉じ込められているようなものです。

その記憶の解釈が間違っているから、間違った意図(あれしよう、これをやろう)で動くものですし、間違った恩恵(哀しくけど頑張る、寂しいけど諦めない)が、誤解や錯覚を繰り返し生み出して、解き明かせない悩みとなり蓄積されていきます。

認知の間違いを正すには、「識」の中に記憶されている様々な物事真実を解き明かして行く必要があるということです。

過去世など読み解く「阿頼耶識(あらやしき)」という意識も、昨日や一昨日を思い返す場合などは「意識」すれば思い出せるものの、それは「意識と言いつつ、舌識(ぜっしき)などを機能させている」ものだったりします。

思い出す作業において、色んな意識の使い方があり、総じて「意識」としか言っていないだけで、無意識「耳識(じしき)」や「鼻識(びしき)」や「身識(みしき)」など使い分けており、強烈な印象に残る体験は「末那識(まなしき)」や「阿頼耶識(あらやしき)」に記録されているものです。

密教ではさらに「阿摩羅識(あまらしき)」とした転生を股にかけて見て記憶する領域や、「乾栗陀耶識(けんりつだやしき)」という呼吸の息のような領域に記憶されているものと繋げることで、誤解を解消することが出来ます。

今の時代は、「阿摩羅識(あまらしき)」「乾栗陀耶識(けんりつだやしき)」自在に使いこなして見せて、問題の抜本的解決を実践して届けてみて、「これぞ仏教の神髄!」とでも見せなければ、「信じること」の重要性やメリットなど感じられる筈もなく、科学的見知再現可能性など論理的解釈を正しく持つ人に信じて貰えるようには至らないものです。

二十八分解しなければ、とてもとても深い哀しみに取り込まれて、真心を見失った心の救済活動など出来るはずもなく、「ここには、こういう解釈が閉じ込められている」「あそこには、こんな意味の思い込みがあり、それを大事にしている執着を心の支えにしているから動かせないのだよ」と、一つ一つを丹念に、丁寧に解き明かして行く説明力と、それでいてその実践する力をどうすれば掴めるのかを気づかせていかなくてはなりません。

心と言葉の研究を重ねていて、思うこととして「哀しみがある限り、仏と対話できない」という問題です。「哀しみの分量が多すぎて、自分の真心となる仏性との対話が機能しない」ことが重大な問題点になるのです。

自我が邪魔するし、自我の正当なる訴えが「仏性のつぶやきを邪悪なもの」だと判断してしまい、心が治る力を封殺して、治らないように維持している現実があるのです。

みんなの心が、ぐちゃぐちゃなのです。

これではどうにもなりません。

「哀しみを支えにしている自我」ですから、哀しみを取り除く人さえ敵視する勢いがあります。

もう、話さえ聞いてくれませんし、幻覚の中で生きている状態では、何一つまともに話し合うことが出来ないのです。

そんな幻覚の夢の中を全力で愛から逃避する勢いで生きている人に、真実を届けようとしても、全て払い除けられてしまうし、まともなやり取りにもならないのです。それ故に、全部の幻覚を消し去ってからでなければ、救済さえ始められない現実があります。

梵天は、立体曼荼羅の一体目に紹介する仏です。

「創造主ブラフマー(仏)」「維持神ヴィシュヌ(法)」「破壊神シヴァ(僧)」が三神一体で成り立つのが梵天です。ここでは「大梵天王(だいぼんてんおう)」と名付けられており、顔も一つしかありません。働きが違うのです。

仏との対話も、この三神一体のメカニズムが解明出来ていないと、心の探究や真理を知る道を行くことなど難しいものです。

この「維持神ヴィシュヌ(法)」を二つに分けた阿吽「那羅延堅固(ならえんけんご)」と「密迹金剛士(みっしゃくこんごうし)」となる仁王像となります。

その為、仏の中に別の仏が存在するようになり、あれとこれ、それとこれ、これとあれ、みたいなよくわからない繋がりや関わりや、表現が所々で変わるので全くもって仏像の解釈など意味不明に陥り易いものです。

意識の中身を具現化するなど「無茶振り過ぎる」という感じです。

その為、顔がたくさんあったり、目がたくさんついていたり、腕がたくさんあったりして、意識が分散したり、拡大化されたり、通常の意識とは違う意識の在り方を示すことで「こういう意識でやってみて」と、仏像で示しているものです。

大梵天王像(だいぼんてんおうぞう)㉒

大梵天王

心は「受想行識」となる働きがあります。深い哀しみとは、心が「破壊(受)」されていることであり、そこから思いつくことは、「犠牲(想)」の精神で関わることになります。その二つの世界(受想となる阿吽の二人)を「必要だ」として関わる姿を“利用している存在”と見えてしまい、「強欲(行)」な人にいいようにこき使われてしまう現実があります。

①満善車鉢像「強欲(行)」と連動した記事になります。

⑧迦楼羅像「犠牲(想)」と連動した記事になります。

⑮摩尼跋陀羅像「破壊(受)」と連動した記事になります。

この「強欲さ(行)」に利用される「自己犠牲精神での働き(想)」と、正しい認知が欠落した「破壊された精神での働き(受)」支える意識はどのような記憶によってもたらされているのか考えなければなりません。

そもそも、どうしてそのような結末(現実)に至っているのか洞察することが大切です。

自我(エゴ)という心の働きは、基本「楽できた(受)」「いい感じ(想)」「これでいい(行)」「そうするもの(識)」とした解釈で機能しているものですから、どれだけ心痛な面持ちでいようが、辛く哀しい目に遭ったとしても「それが最善だ」と認知しているものなのです。

「そんなことない!!」

と、自我(エゴ)は、否定し、反発して、真実を伝えようとする教えを受け入れることなく抵抗(ブロック)し、拒絶する勢いで意識を外します。

この世界は、常に願ったまま叶っている状態で現象化しているとは認めたくないものなのです。

「破壊(受)」され「犠牲(想)」になり、いいように「強欲(行)」な心に利用されている精神状態は「落第(識)」と扱われ、様々な人から忌み嫌われる存在として「不合格」にされてしまいます。

「あんな人(落第者)にならないように」と、教えられるのです。

「教えている側(行)」は、「自分の気持ちを大切にして欲しい(想)」と感じさせ、「相手を傷つけたりしないように大事にして欲しい(受)」と理解し合えるように諭すには、悪い手本が必要なのです。

「善い手本」「悪い手本」実在していないと信憑性がありませんから、指を差して批難する実在する人物が必要なのです。

この実在する人物が、家族や伴侶や友や自分自身であるとしたら?

それを考える力を「仏性」と呼ぶのです。

「善い人」を育てる為に、誰かが「悪い(落第)人」でいなければならず、そんな役割は、誰もが担い手になりたくないので、より強く非難する力を持つ人が上位に立ち、非難出来ないか弱い人が下位に堕とされ、「いじめ」の対象になるのです。

いじめる人の心は、自分の「強欲(行)」な部分を指摘されている気がするので、心の中が「不快感(想)」で染まり、「同じにところに居たくない(受)」とした認知が生まれるため(善い人と悪い(落第)人が同居するものではない)徹底的な排除する気持ちが高まり、攻撃的になるのです。

いじめる人を見過ごす心は、自分の「犠牲(想)」な部分に触れられてしまうため、「次は自分かも?(受)」とした認知が生まれるため、「ごめんなさい、何もしてあげられない(行)」と、無視や無価値感に閉じ込められた気持ちとなり、動けなくなるのです。

いじめる人と同調する心は、自分の「破壊(受)」された精神の闇に「面白さに似た戯(たわむ)れる感覚(想)」が湧き立ち「考え為しに加担してしまう(行)」為、暴行などのいじめがエスカレートして、誰も止めてくれない現実を生み出すのです。

いじめる人も落第者(行)であり、いじめを見過ごす人も落第者(想)であり、いじめる人に同調する人も落第者(受)であり、いじめられる人も落第者(識)だと自認している意識が隠されているのです。現実に「いじめ(色)」が引き起こされ、誰にも止められないのは、全ての人の心が病んでいるからです。

この成り立ちの全てを見透す仏性「大梵天王(だいぼんてんおう)」なのです。

善い人を支える為に悪い人が本当に必要かどうか?

その相対するもの(善を教える為に悪は必要なのか?)は本質として無ければならないものなのか?

小さな善いことと、大きな善いことがあればよく、「悪い」という落第するような扱いが必要かどうかを考えてみることです。

現実に「いじめ」が引き起こされるのは、誰もが望んでいる事実を直視する勇気が必要であり、誰も解決出来ないのは、誰もが加担している現実があるからであり、「善悪の判断を消し去る仏性を宿している人が欠落している全員が落第者」であるから、「いじめ(色)」という問題を解決出来ないのは、『悟らない』からです。

相談している人たち自身の心の片隅に「落第」となる無意識が隠れていては、他人のいじめをどうにか出来る力量そのものがないのです

指摘しても、

「お前に言われたくない」

と、言い返されてしまうものです。

「落第」という欠点を抱えている人(受)が、「落第しているよ」と欠点を指摘して(想)「落第を直そうよ」と指摘された相手が欠点を改める筈もない(行)もので、また「落第」した現実を作り上げ、三者三様に非難し合うばかりで、また「落第」して現実は維持される(識)“先送りされる”のです。

全員が「落第」するような心を隠し持っているものであり、それは「識」という記憶にまつわる部分であり、「いつの記憶が原因なのか?」は、探らなければ見つけられないものであり、重要だから維持されているものです。

心の自我が発生するそもそもの原因は、「哀しみ体験」が大元になります。

この哀しみ体験未だに引きずって生きており、心を治すには、最初の体験である「哀しみ」「哀しむようなことではなかった」という気づきが訪れればよいものです。

自分の人生において「哀しい目に遭った」ことが「間違ってました」という記憶違い、記憶の認知の誤りだとするのは、自我の消失を意味するため、とても辛く苦しいものとなります。

自我が消失してしまえば、辛さも苦しみも消え去り幸せ感に包まれ、どこにも「哀しみ」など無くなり、「落第」していた記憶も、誰かの「善い人」を支える為に「悪い(落第)人」を維持する必要も消え失せているので、とても平穏な感覚に至ります。

過った「哀しみ体験」を消し去るギリギリまで「辛く苦しい!!」ギャン泣きする勢いであるものの、消え失せてしまえば、ケロリ「笑っている」状態に到り幸せ体験にすり替わる為、気づき終わるまでの辛抱ということになります。

それでも、人の心は「辛く苦しい」ことを絶対無理と、近づこうともしない「落第」した解釈を地で行ってしまう為、どうにも変化しようのない現実を維持してしまい、苦しみを長引かせる自我の「いじめ」に加担し自虐の日々を生きるのです。

「終わりにしませんか?」

と、大梵天王(だいぼんてんおう)は、呼びかけ続けるのです。

ワークをして感じてみてください。

大梵天王(だいぼんてんおう)体内に入り、包まれているイメージを持ちつつ、「いじめ(色)」「破壊(受)」「犠牲(想)」「強欲(行)」「落第(識)」となる五蘊(ごうん)を一まとめにしたイメージを持ち「何を見落としていたの?」と、問いかけて浮かび上がるままに流していくと、「落第」していた「解釈(受)の誤り」や、「恩恵(想)となっていた気持ちの歪み」や、「意図(行)となる周りの人たちの思惑違い」や、「記憶(識)のズレがわかる」と、「落第ではなかった」という気づきに至ります。

大梵天王(だいぼんてんおう)に包まれているのですから、「解釈の持ち方」が正しいか過ちか、「恩恵の受け止め方」が正しいか過ちか、「意図の持たせ方(周りの人たちの考えや気持ちや狙いなど)」が正しいか過ちかを探れる信頼して続けることです。

自分は本当は「わかっている(受)」のです。

何が本当のことなのか「知っている(想)」のです。

どうしてそうしてしまっているのか「気づいている(行)」のです。

でも、そうしておかなければならない理由が隠されていて、何故だかわからないけれど、そうしなければならないと「思い込んでいる(識)」のです。

その全てを紐解けてしまったら「人」では居られなくなり、神仏と変わらぬ振る舞いが出来てしまうのです。

もう少し、もう少し、このまま「人」という「夢」を見ていたいとして、この現実を「幻想」だと知っているからこそ、先送りし続けて、夢が覚めるその時まで、夢なのかはたまた、悪夢なのか判別出来ないような現実を生きているのです。

「起きましょうよ」

と、呼びかけている大梵天王(だいぼんてんおう)優しい声が聞こえるでしょうか?

見ている自身が本体(主体)であり、見られている自我(受想行識)として、どうとでも動かせる客体だとわかれば、意識(十識)を使いこなして、全ての記憶の改ざんを真実に照らし合わせて元に戻す作業をしてみませんか?

きっとこの世界が喜劇しかないとわかります。

「哀しみのない世界」を望んでいたのを思い出して動き出しませんか?

あなたの真心に従えば、道は見えるものです。

愛してやまない自分を、哀しんでやまない自分のままに放置しないでいてください。泣かせたまま、見ていないで強制的に救い上げてください。

大梵天王(だいぼんてんおう)仏性たる自分は、有無も言わせず救い出しますよ。

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どんな劣っている部分も愛せるようになりましたか?

「はい」しかないと教えますから、「はい」と言って、心を開いてください。

悟りの道が始まります。


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。




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