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時を超える仏 阿弥陀如来⑪

リーディングマスター・まさみちです。腑に落ちる理解が得たくて心の世界に入り込んだら、悟りを開いてしまいました。空や、無というのも解りますし、真理が何であるかも体感覚で掴んでおり、宗教の世界観がわかるものの宗教家ではありません。それは現代の『宗教』の定義と、私の悟りで告げるものがかけ離れていて同一で扱われたくないものです。それでも、伝統的仏教の中で伝わるものは途絶えることなく立体曼荼羅に引き継がれているところもあるので、それを紹介する記事を書いております。(28/88)

21体の仏像を揃える東寺・講堂は、修行の場としてはこれ以上にないものだと感じるものですが、悟りを開くには真理に触れる必要がどうしてもあります。何もないところから智慧を閃き降ろせるようにならなければ、修行の意味を成しません。

11体目の仏像として、阿弥陀如来となり、無量寿仏(金剛界)無量光仏(胎蔵界)での表現があるなど、Wikipediaを見ても、色んな名前が出てくるものです。

全てを超越した時を超えた存在としての仏が阿弥陀如来です。
無量というのは、「世界を問いかければ世界が答えるもの」であり「歪さが煩悩であるだけで、正していいと願えば叶うもの」だとするものです。水面のようなものだとイメージしていただけばいいですが、やっていることは「阿摩羅識(あまらしき)」という阿頼耶識(あらやしき)を超越する意識の使い方で問いかける領域なので、人生の目的や転生の遍歴などを問えば答えてくれる仏です。

阿弥陀如来⑪
物事を認識するには、相対するものが必要です。陰陽で表現されるように黒と白がなければ識別出来ないように、片方の存在を立証するには、対となるもう片方が必要であるものです。引き合う二つでない一つのものが確実に存在している為、雑念や煩悩など、心の悩みという片割れがあれば、もう一方の対を為す片割れが存在していることは疑う必要のない絶対に存在する相対論のことを指します。その相対して、結び合うものを邪魔されることなく感じ取るには、あらゆる解釈や経験からもたらされる知恵を使わないことです。「明け渡し」「大いなる許し」「無知の知」「生命の源」といった無執着に至ることで引き起こされる「ゆだね」に成ることです。一生という寿命という生きている流れに相対するものが存在しうると気づくことです。一生という寿が在る(金剛界)なら、相対に、一生という光が在る(胎蔵界)を捉えることが出来れば、何故、この人生を歩んでいるかを問いかけることさえ出来る世界観がここにはあります。この人生を為す人生設計図を見ることが出来、また書き換えることが出来れば人生を組み立て直すことさえ可能であるものです。無限の力をもたらしてくれるものとなり、耐え難い苦痛さえも、消し去り歓喜へと変えてしまうものです。転生の数々を一まとめに見ることで、人生の学びや課題を知ることが出来るようになり、気づきを自由にもたらし、悩みの全てを同時に消し去ることも出来、全てが「今」引き起こしている事実を見つめることが出来れば、時を超えてあらゆる時間軸に存在する自分を同時に癒やせることも解るようになります。生命は失われず、死ぬことを知らず、恐れることもなく、あらゆるところに臨在し、普遍的に時を超越した存在と、大いなる源(サムシング・グレート)と呼ぶものです。

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阿弥陀如来は、問答における基礎的な役割を教えてくれる存在でもあります。問いと答えが一対であるのがわかれば、問いかけ方を間違えなければ、相当数の謎を解くことが可能となりますが、多くの人が大雑把に聴きすぎてしまう問題をクリア出来ずにいます。

仏との対話は、自分との対話でしかありません。

自分でも問われて困るような、問いかけ方をされても、返答出来ないように、返答しようがある問いかけでなければなりません。

「どう生きたらいいのですか?」という聞き方では、返答に窮するものです。

「あの会社で働きたいと思っています。賛成してくれますか?」という聞き方なら、返答するのも「はい、いいえ、わからん」という三択ぐらいで返事が出来るので、導かれやすくなります。

答えられる問いかけ方を修得していくことが大切です。

繋がり方
阿弥陀如来が自分と同化しているイメージを持ちます。
同化したまま、阿弥陀如来(自分)が、肉体から徐々に上に離れて、高く上がっていきます。ゆっくり上がり、5m、10m、50m、100m上がっていきます。200m〜1,000mと更に高まります。2,000m〜10,000mへと上がり続けます。10万m、100万mと上がり、宇宙へ行き、更に更に高まります。太陽系を越え、銀河系を越え、宇宙の果てに行きます。無限の世界へと到達するイメージを持ち、そこに陰陽の闇と光の世界を越え赤、橙、黄、緑、水、紺、紫の層を越え目映い金色の世界に到達するイメージを持ちます。到達したかどうか、地上に残る肉体に尋ね、首が頷くことを確認します。確認出来たら、阿弥陀如来に繋がったので、そこで自問自答します。

これは素人では繋ぐのが難しいかも知れません。
誘導してくれる方と一緒にやれるとよいものです。これが繋がったからといって、阿摩羅識(あまらしき)と繋がったとは限りません。阿摩羅識(あまらしき)は、ここから更に広げるイメージが出来て成立するものです。

参考事例を紹介します。

地上の自分「自己犠牲を止められず、マイナス発想に埋没するのは何故ですか?」
阿弥陀如来(自分)「金を持つ人(地位の高い人)、賢い人(事実を告げる人)、許す人(優秀で慈愛ある人)を嫌い、権力者のようになりたくないと否定している為、プラス発想が出来ないように束縛しているからです」

地上の自分「自己犠牲を止められず、マイナス発想に埋没するのは何故ですか?」
阿弥陀如来(自分)「言い訳を正当化し、人間は弱き者だと断言し、強者のように成りたくないと敵を恨み、悪を裁くことで自身が正義だと振りかざす悪と変わりないことをしている事実が見えないからです」

地上の自分「自己犠牲を止められず、マイナス発想に埋没するのは何故ですか?」
阿弥陀如来(自分)「憎悪を持つことが健全な知性だと誤解し、否定することが賢さだと錯覚し、被害者を装えば優しくされると陶酔してしまった為、「恐れを知らず、比較を知らず、取り引きを知らぬ愛」を見失ってしまったからです」

地上の自分「自己犠牲を止められず、マイナス発想に埋没するのは何故ですか?」
阿弥陀如来(自分)「楽をする為に、誰かをこき使わせることを正当化し、笑う為なら、誰かを低く扱い、利益の為なら、相手の無知につけ込んで高く買わせていいとし、悪いことでも“みんなやっている”からやっていいと開き直るような気持ちで生きているからです」

地上の自分「自己犠牲を止められず、マイナス発想に埋没するのは何故ですか?」
阿弥陀如来(自分)「嫌った人の方が優れていることに気づかず、相手を低く見ている限り、事実は相手より低い為、マイナスに沈没する人生に至るのは自明の理だと心得ることです」

地上の自分「自己犠牲を止められず、マイナス発想に埋没するのは何故ですか?」
阿弥陀如来(自分)「“ごめんなさい”と言葉に表して相手に伝え、やり直ししないからです」

地上の自分「自己犠牲を止められず、マイナス発想に埋没するのは何故ですか?」
阿弥陀如来(自分)「“助けてください”と、自力での回復は無理だと受け入れ、他力でなければ、回復しないと学ばないからです」

地上の自分「自己犠牲を止められず、マイナス発想に埋没するのは何故ですか?」
阿弥陀如来(自分)「“最初から最後まで間違っていた”と未だに間違えを認めようとしないからです」

地上の自分「自己犠牲を止められず、マイナス発想に埋没するのは何故ですか?」
阿弥陀如来(自分)「“人のせい”にしているからです」

地上の自分「自己犠牲を止められず、マイナス発想に埋没するのは何故ですか?」
阿弥陀如来(自分)「“改善に努める”という一点に集中せず、自己否定を繰り返すからです」

地上の自分「自己犠牲を止められず、マイナス発想に埋没するのは何故ですか?」
阿弥陀如来(自分)「“勝利した”と、エゴエゴの心が人生を覆い尽くして、純粋愛の真心を排除出来たと納得しないからです。“エゴの方が愛より強い”と認めて、エゴを消し去らないからです」

地上の自分「自己犠牲を止められず、マイナス発想に埋没するのは何故ですか?」
阿弥陀如来(自分)「無知だと知らないからです」

地上の自分「自己犠牲を止められず、マイナス発想に埋没するのは何故ですか?」
阿弥陀如来(自分)「優しい嘘は、いずれにしても嘘でしかなく、嘘では幸せは得られないと悟らないからです」

地上の自分「嘘をつくのを止めます」
阿弥陀如来(自分)(微笑んでいる)

といったやり取りが浮かび上がるかも知れません。

仏との対話は、答えを確実に知っており,知らない無知の自分に対して答えを与えてくれると教えてもらうようなものです。

極楽浄土を示す阿弥陀経がありますが、意識の合わせ方こそ重要であり、その極楽をイメージし、それと同一化できると、様々なことが解るようになると共に、自身もその境地に至ると教えるものです。

願えば叶うなど、どうしても「拝んでしまう」として「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えることで、委ねること、委ねていること、願いは成就していることとして身を任せば、そのように至ると思い込んでしまうようになるが、実際はそういうことを示しているものではなく、「委ねる」とする程に邪念などが脳裏を埋め尽くす為、それら祓い清めていくことで、阿弥陀如来そのものの智慧を授かれる状態に到ることです。無知の知を獲得した後に、様々な人生の疑念がどのような相対性で引き起こされているのか感じ取り、今自分に出来ることを生み出し、周りと助け合いながら喜びの世界に変えて行くことに疑うことなく身を捧げることを指すものです。

出来る最大の努力を今しているなら、それは極楽浄土に到達していることを示しているのです。自分の培ってきた認識の外へと踏み出すことが出来れば、真理から智慧をもたらすことも可能となります。


いかがでしたでしょうか?

では、また。

リーディングマスター・まさみち。



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