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金持ちと貧乏人

リーディングマスター・まさみちです。心理カウンセラーとして活動しております。四国八十八カ所巡礼の旅と題して、歩き遍路をしながら各お寺に奉られているご本尊との繋がり方を紹介しております。

Instagramで、その模様を紹介します。

良かったらライブ配信中に視聴していただけると、仏さまからのメッセージをお届けできるかも知れません。

三十六番札所〜三十七番札所の道中は「傷ついていたものが治る変化」がキーワードとして降ろされてきました。

その中で感じた変化が「金持ちと貧乏人」というキーワードです。

富裕層と貧困層の二極化が取り上げられるようになって、随分時間が経つ気がしますが、ご自身の周りはどんな様相を呈しているでしょうか?

ここで取り上げているのは、自分一人の中で「金をポンポン払えてしまうもの」と、「大した金額でもないのに出し渋るもの」があることです。

自分同士でお金に対する価値基準がぶつかっていると、家族間やパートナー間で衝突する現実を創るものです。

問題の発生は、「身分」や「立場」などで「可能性を全否定された体験」が起因しています。

「長男だから家を継がなければならない」や、「長女だから婿を取らなければならない」という「そうしてきたもの」に縛られ、多くの人たちの心が寸断され形を守り通すことが絶対に良いとしてきた歴史の積み重ねにより、富める心と、貧しい心が分断されているのです。

兄弟のような関係であり、厳密に言うと異性間となります。

兄妹や、姉弟のような関係です。

富める兄と、貧しい妹や、富める姉と、貧しい弟などの上下間の分断により、金の使い方が荒いところと、細かいところが出てきてしまい「そこケチる?」というような富める者の感覚が湧いてしまったり、「金遣い荒いなぁ」という貧しいものの感覚が湧いてしまうものです。

口を挟むと大体は喧嘩など、片方が不機嫌になるもので、突っ込む方は平常心でいられるものの、突っ込まれる方はとても不快な気分に陥るので「好みが違うとトラブルにしかならない」という感覚を育て、いずれ「何も干渉しなくなる」という落ち着きどころを見出すようになります。

富める者も貧しい者も、それぞれに正当な言い分がありますが、安く済みそうなものに高値を払ってしまうことで支えられる人たちがいます。切り詰めていても、全然足らずにいて、仕事を増やさなければならないなど余裕のないギリギリの人もいます。

心の兄妹みたいなものが、分断されることが原因で貧しい側に追い詰められる人は楽しくないものです。もちろん富める側に立っている人でさえ、貧しい人の面倒を見なければならない時は神経質になることだってあり、お金があるのに心が貧しくなることもあります。お金がないのに夢の大きな話をたくさんしている心の豊かさがあっても、現実化しないこともあります。

家族の中で自分が「富める者」の方に入っていればそれでよいと考えてしまい、「貧しい者」がいても、それを立て直すことが出来ないもどかしさがここにはあります。

お金を稼ぐことや、物理的に豊かになることは「理屈ではない」というシビアな現実があります。学ばないより学んでいる方が当然豊かになりやすいですが、この「貧しい者」グループに知識をどれだけ与えても「富める者」には至らないのです。

相対して存在する為、片方が「富める者」なら、もう片方は「貧しい者」になる相関する対象なのです。豊かさを追求した結果、貧しさを生み出している現実があるのです。

心を繋ぎ治さなければ、家族の間や、夫婦の間の「お金の使い方」や「物事に対する価値の捉え方が相反するもの」になり、喧嘩が絶えなくなってしまうものです。

純粋さに繋がるかどうか関係なく「富める者」になるものである為、訳がわからなくなります。

時として富める者の方が配慮に欠けていたり、どうして豊かなのかわからないような価値基準を抱いていたりするものです。

「貧しい者」の方が思慮深く慎重であるものの、結果として豊かさに繋がっていないこともあり、「なぜあなたから言われなければならないのか?」という理不尽さを感じたり、「あんな人がなぜ豊かなのかがわからない」といったニュアンスで捉えてしまう知り合いがいるものです。

富める者も貧しい者も、どちらも同じ自分の心の姿だとわかれば、「理解出来ない」と扱うのではなく、「理解している」と扱うことの方が学びが多く深くなります。

「合理的に考える」ことばかりしてしまっては、子育てや後輩の育成などしては「愛のない世界を創造する」人たちで溢れかえり、貧困層を増加させます。

面白いことは無駄も多いものですが、意味がよくわからずとも取り組めていることの方が結果豊かになりやすいものです。そこに愛が流れていて「思いつきで『穴掘りしない?』と持ちかけ、『やろう!』と乗る人がいること」が豊かさに直結していることに気づく必要があります。

それが自分同士であるなら、自分の閃きに自分で「いいね!」と返事をしてあげられているかが、豊かさに向かうか、貧しさに向かうかの違いとでも思っていただけるとよいものです。

合理性にハマり込んでいる人は、突拍子もない無駄な提案や無茶な発想は「否定したくなる」ものです。しかし、この無茶振りを「いいね!」と言える感性を磨こうとすると、様々な雑念が噴出することが体験出来ます。

この雑念が「富める者」と「貧しい者」を分断する雑念です。全てを受け入れ、言葉にして吐き出してみて、言い尽くすところまで吐き出せると、「富める者」の心と「貧しい者」の心が結ばれて豊かになります。

愛されることです。

また、愛することです。

一つ一つの想念において、自分の価値基準を世間に照らし合わせて深く考え直していく必要があります。そうした最中で、「なあなあにしていた概念」が明確化され、適切な解釈を身につけることも可能になります。

知らずに振る舞っている時と、知って振る舞っている時とでは、扱われ方まで全てが期待にそぐわないこともあります。

そして、貧富の差がある方が、どちらも自分の気持ちを肯定できるので、相手を否定する快楽から抜け出せないのです。自分たち家族の心が豊かになれば、凍てついていた他の家族の心も豊かに変わっていくのです。

心も身体も、「死にたがる発想」はないと知っておいてください。

精神も「生きよう」としているので、何か生きられないものが隠れていると意気揚々としていられないものです。

精神も肉体も「生命力」で満ち満ちていると想像する力が不可欠なのです。

その「生き生きとした生命力」を想像することが出来た時、心は結ばれ治ります。

その治す方法として、「治っている」という発想を自分に向けてあげ、その投げかけられた「治っている!」という問いかけに、自分の自我が無意識に抵抗するのです。

愛はいつもここにあると気づいたことにして、「治りました」とすることで、「治った現実を創造していくもの」です。この微妙なニュアンスの違いを紹介することが出来ませんので、個別に聴いてください。あなただけにわかる道を届けます。

「全てを間違えた先に、成功する世界が育つものです!」

このようにキーワードを声に出して唱えると、気づきのワークが受け取れます。
繰り返し、「もういい! やりません!」という気分に追い詰められても取り組んでみてください。

実践した者でなければ、「癒やし」は起きないものです。

「富める者が貧しい者の面倒を見れば済む」とした価値基準が過っていると気づく事です。面倒を見られる貧しい者は、何もかも出来なくなり、より貧しさが増すばかりで、困難な人生しか送れなくなります。

「愛し方が合っているのかどうか?」

この自問自答では、自分の心が健全に機能しているかどうかなど、よくわからないものです。

それでも繰り返し問答し、自分の無意識の束縛を見つけて解放していくことです。

自分の中に「差別」や「序列」があると、心は治らなくなるものです。

「全てを世話される植物人間とした豊かさを手に出来ました」と、声に出して言ってみることで、溢れ出てくる否定感を全て吐き出してみてください。全てを言い尽くすことが出来ましたら、豊かさと貧しさの対立はなくなると思います。

豊かになりましょう。


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