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23→24歳

芸術家気取りの世間知らずな言動には辟易してしまうけど、だからってなんでも折り合いをつけながら安定して着実に生きれるほど大人になれない。どっちにもなれない孤独感。ちょっと考える時間があるくらい余裕ができると感じてしまう孤独感。

自分の名前で世間に自分の設計物を発表して生きていこうとしている人たちの、つまりいわゆる建築家を目指す人たちの、その世間知らずさが嫌いだった。私はそうやって仕事をして生きていきたいけれど、なんでそんなつまんない夢物語ばっか語ってるんだって、そう思ってた。学生も、駆け出し建築家の作品も、全部耳あたりの良い事ばっか言っていて、何も切実さがなくて、つまらなかった。私も大概世間知らずだけれど、世間の表面しか触らずに真理を分かった気になっているような言動に呆れていた。だから、建築が切実だった時代、ヨーロッパでのモダニズムの始まりとか、戦後の日本とか、そういう切実な時代の建築や建築家の生き方や言動が大好きで、そこに浸ってた。

そういう現状のつまらなさに少し嫌気がさしてたとき、目の前のことを必死に追いかけられる緊迫した環境に出会って、そこに逃げ込んだ。企業の理念や事業は全く共感できなかったけど、ひたすらに未知の数字を追いかける企業の姿勢と、日々必死に自分で追いかけて周りと競って場数を積める環境は魅力的だった。実際にしんどかったけれど、毎日必死で切実で温度が高かった。

でも、少し余裕ができて考える時間ができると、あまり共感できない事業の理念で突っ走ってることに折り合いがつけられなくなった。自分の経験と成長のためなら、稼げるなら、そこに折り合いをつけて理性的に頑張ろう、っていうことができなかった。しかも、収入と地位を得て、着実に結婚して子供産んで、っていう安定した将来像が自分の幸せと結びつかなかった。そう考えられるほど大人ではなかった。未来に対しての理想論を持って突っ走る子供だ。

現実的に生きるのも、理想を語りながら生きるのも、どっちにも上手くハマらず、どっちつかずをモヤモヤしながら生きる、振り切れない中途半端な人間だと思う。でも同じくらいのバランスを持った人はたまにいるから、そういう人と話してる時は心地よい。緊張感と緩さのバランスが合うんだと思う。

切実に生きたいし、今の建築に思うところはたくさんあるし、モヤモヤしてるとこもたくさんあるし、それに折り合いをつけれるほど大人じゃないし、難しい。

日常がひっくり返るようなことが起こらないと、切実な状態にはならないねってこの間友達と話していた。タブラ・ラサ状態。物事が普通起きないような速さで急速に起きてしまう。コロナはその訪れかと思ったけど意外とそうではなかった。結局第一次世界大戦後にミースが急速に極地に行ったのも、戦後に丹下が急速に日本のモダニズムを確立したのも、そういう切実な状況下だったからだろう。その生命力的なものはすごく魅力的だ。もしそんな状態になった時に自分は生き残れるんだろうか。物理的にも名目的にも生き残りたいけれど、そんなの運だろうな。日常ひっくり返れ、なんて不謹慎なこと言えないし、実際に起こったらワーワー文句言うだろうけど、ちょっとワクワクを感じてしまうところもある。もしそうなったら絶対生き残って、立て直す中で何か打ち出してやるという心意気だけはある。

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