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雑念日記

公園のベンチで本を読みながら、道ゆく人をぼーっと見ていた。ヘッドホンして、ゆるいトレーナーにデニムを履いて、好きなスニーカー履いて、派手な靴下履いて、おっきいピアスつけて、そうやって自分が1番好きな格好をした時、自分が1番好きな自分でいれるのに、道ゆく大多数の女の人たちの大半と自分の服装の好みがかけ離れていることにちょっと孤独を感じる。
その時聴いていた音楽、ディゲブルプラネッツ、めちゃくちゃ好きなのに、ディゲブルプラネッツがめちゃくちゃ良いっていう感情をあんまり人と共有できたことがなくて、ちょっと孤独を感じる。勧めてもそういうのが好きなんだって言われて終わり。そもそも相手はこういうジャンルが好きじゃないかなと思って勧めないことがほとんど。私も人に勧められたのを聴いてその曲を好きになることもあるけれどそうじゃない時もあるからそんなもんだとは思うけれど。
10分以上するような長めの映像を見ることがあんまり得意じゃないから、YouTubeやTVやネトフリを見ることにあんまり興味がない。見ることが億劫に感じてしまう。建築史がすごい好きなんだけど、会ったことある中で本当に建築史が好きそうな人、大学の建築史の教授くらいだ。恋愛だって、恋愛に割くエネルギーが周りの人の1/50くらいだ。この前初めてちゃんとした占いに行った時、占い師のおばさんに、あなた自身が恋愛に情熱を持たないと恋愛ってものはできないんですよって言われた。そりゃそうだって分かってはいるけれど今はその情熱が生まれてこないから適当に遊ぶ日々。こうやって自分のモヤモヤを言葉にしてを誰が見てるかわからないnoteに書き出しているのも、普通じゃないかもしれない。こんな自分語りは自分の心にしまっておくべきなのかもしれない。でも誰にも読まれたくないけれど誰かには読んでほしい、という矛盾する感情のまま吐き出すのが私のメンタルヘルスになっているから時々書き出してしまう。
好きなものを好きって言って、自分が良いと思うやり方を選んで、やりたいことをやって生きていたいし、そう生きることに全く不満はないけれど、時々ふっと孤独が襲う。それなりに人と話を合わせて楽しく過ごせるし、普通とは言い難い人生を過ごしている知り合いも多いから、孤独で病むことはなく楽しく生きているのだけど。

中学生になるまで、同年代が少ない山の中の村で育った。「みんなと同じ」の概念が生まれるほどの「みんな」がいない中で育ったから、周りや流行に好みを合わせに行くってことを幼少期に培ってなくて、うまくできないんだと思う。幼馴染もたぶんそれができてなくて、楽しそうだけど苦労してそうな人生を歩んでる。たぶん世の中の人はみんな普通じゃないんだろうけれど、大半の人は、流行として流れてきたもの、周りと同じものを自分なりに楽しむ処世術を私よりもうまく身につけているように感じる。

夕方の代々木体育館の周辺、渋谷の喧騒からちょっと抜けただけなのに人がぜんぜんいなくて、ちょっと高台になってるから渋谷の街を眺められて、そんな場所に夕陽に照らされて佇む唯一無二の存在感の代々木体育館を見てると、格好良すぎて、孤独がどうとかどうでも良くなって、この建築と私しか存在しないような気分になって、エネルギーが湧いてくるから、最近よくふらっと行く。この感じ、東京カテドラル大聖堂と同じだ。ちなみにカテドラルは夕方よりもパキッとした朝の青空が似合う。この圧倒的存在感と独特の静謐さとエネルギー、丹下健三の為せる技なのか分からないけれど、凄すぎる。やっぱり日本の戦後モダニズムの圧倒的エースだ。  

渋谷はいい街だと思う。こんなに人が集まるんだから、治安の悪さとか道の汚さとかある程度生じるのはまあ仕方ない。人のエネルギーが集まるっていうのは空気がめちゃくちゃエネルギッシュで良い。いる年齢層が比較的若いっていうのもありそうだけど。あとは建物の工事がずっと続いているの、スクラップアンドビルドとかジェントリフィケーション的な問題はあるけれども、街自体の生命力がある感じが大好きだ。渋谷にいつく人はみんな渋谷のことが好きそうなのも良い。

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