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その苦しみの理由について

2024年がスタートした途端の大きな地震災害に、北陸の人たちの無念さを感じて胸が痛い。その翌日の日航機事故も、災害支援に無縁ではなく、その辛さが膨らんでしまったかたも多いと思う。僕自身もそうだ。

そんななか、「被災してない人たちの日常も大事」「自粛ムードになりすぎず」「どうしたって時間がかかる復興」「一度きりじゃない末長い支援をしよう」「東日本大震災で我々はそれを学んだじゃないか」といった、Xのポストを目にして、その言葉ひとつひとつがなぜか僕を苦しめた。

被災していない人たちの心を気にかけたはずの、やさしさに満ちたそれらの言葉に、悔しさに似た思いが込み上げてきたのはなぜだろう。実際これらの言葉を同意とともにリポストする人たちがたくさんいて、その人たちは一様に、救われたかのような言葉を加えていた。それがまた僕を苦しめる。

でも

いまじゃない。

その言葉はいまじゃない。

僕の胸の奥で、チカラなくつぶやかれる言葉。

そうだ

それは、昨日の今日でポストされる言葉じゃないように思ったのだ。
そう思って苦しかったにちがいない、きっと。

被災していない人たちの日常も大事なのはとてもよくわかる。けれど、それを過去から学んだと、いま・・ポストする必要はないように思った。いま最も日常に戻りたいのは被災された当事者のかたたちだ。だからいまは、いや、せめていまだけでも、どうか被災した当事者の方々にこそ、まっすぐ気持ちを寄せてもらえないだろうかと、なんだか悔しさに近い気持ちが湧き上がって苦しかった。

以前から、つくづく日本は、東京とそれ以外でできていると感じていたけれど、そこには当然ながら、自分の住む地域とそれ以外という感覚があって、これだけ情報が見通せる世の中になってもなお、その範囲はこんなにも狭く切ないものかと思った。それがCGでなくとも、画面を通して見るものの異世界感は4Kだろうと8Kになろうと変わらない。それどころか、解像度が上がるほどに異世界感が増すようにも思えるし、そもそも解像度で語られるうちは、決して変わることはないのだろう。

僕は、人生のベースにフィジカルな旅があるから、そう感じるだけなのか。だとしたら旅はとても大切だ。画面越しの情報の確認や手前の理解ではなく、そのむこうの現実を想像するチカラがいまこそ必要で、旅がその手助けになるのなら、やっぱり旅はとても重要。

もちろん、悲しみの大小に関係なく、当人の辛さは他人に共有などできない。けれど、それがわかっているからこそ、僕たちは、家族、友人、他人にかかわらず、その悲しみを想像し、エンパシーをもって接してくれた人に救われる。だからこそ、被災地に感情移入し過ぎずに日常を生きようという表明・・が、それを見て辛くなる人の目にも触れてしまうことと、そこに賛同する人々の正義の旗を振るような同意がこわかった。その言葉自体はその通りだと思うし、そもそもタムラインはそれぞれに違うから、きっと最初にポストした人のタイムラインには、強い自粛ムードを感じるポストが多く、その反動だったのかもしれないと想像する。だからそれを見た人が個々に「いいね」と思うことはよいけれど、せめていまは、被災された当事者の気持ちをこそ考えて拡散して欲しいと思った僕は偽善者なんだろうか。

こんなにも大きな悲しみがあってなお、僕はある意味で変わらぬ日常を過ごしている。被災地にも行けずにいる。東日本大震災のときも、こんな仕事をしていながら、ひと月ほどは東北まで行けなかった。放射能も怖くて、福島に入ったのなんてずいぶん後だ。そして北陸地震を前にしたいまもただ闇雲に苦しみを感じるだけでいる。日常を過ごしながら、北陸の状況を気にかけるというよりは、気になって仕方がない。お正月の時間を家族と過ごしながら、ふとした瞬間に北陸の街の惨状を思い、被災された方のことを想像して胸が痛む。その悲しみからは目をそむけられない。それは確かに僕の心のなかに在るからだ。このざわつきは簡単に消えるものではないし、消す必要なんてないと僕は思う。

なのに「気持ちを寄せすぎないようにしよう」とポストしなければ辛くなってしまうのは、個人が必要以上に罪悪感を持ってしまうような社会になっているからだ。つまり、こういう場面で、国が大きな支援を迅速に進めてくれているようには思えないからだ。いまは何より、心一つに北陸の復興に全力を注ごう!というリーダーシップをまったく感じることができない。

これだけ大きな災害があったにもかかわらず、それが能登半島や日本海側であることの、政治家たちの明確な温度の低さはなんだろう。東日本の震災直後に、復興という言葉を盾にして、東京にオリンピックを! と叫んだ安倍総理のことを決して忘れられないのと同じように、震災から三日しか経ってない夜、テレビに生出演して総裁選への思いを語る岸田首相のことを僕は忘れないだろう。

僕にとってはコロナ禍で強引に開催された東京オリンピックこそ、画面の向こうの異世界で行われているイベントにしか思えなかった。きっとこのまま大阪万博が進んでもそうだろう。その情熱を、予算を、復興支援にかけてもらえないのかなどと思っても、言葉にしても、叫んでみても、何も変わらない現実に、僕たちは今後、未来を自分たちでつくっていくチカラを持てるだろうか。この惨めな諦念を消し去るために、僕たちに何ができるだろう。

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