自分を物語の主人公にしない生き方
今日はいきなり結論から。今回僕が言いたいのは、表題のとおり、
自分を物語の主人公にしなくてもいい。
ということ。
今の世の中の空気にフィットするのは
間違いなく、こういった言葉たちなんだと思う。
自分で自分を褒めることはとても大事だと僕も思うし、
自分を大切にすることは、マジ大切。
んなことはまあわかっている。
だけど僕はいまあえて、こう言いたい。
無理に自分を物語の主人公にしなくたっていい。
地方で素敵だなあと思う人に出会うと、いつも思うのだけど、みなさんとても利他的に生きていらっしゃるし、そこに溢れてしまいそうなくらい満ち満ちた喜びを感じる。実のところ、僕たちは自分のためではなく、自分以外の誰かや何かのために生きている。それが誰なのか、なんであるか、が問題であって、自分or他人という二択ではない。
「自分らしく」なんて言葉に縛られることはない。難しいことを言うつもりはないけれど、自分らしさは自分ではつくれない。他人との差分にあるものこそが個性であり自分らしさなのだから、どうしようこうしようとコントロールできるものではない。なのに「自分」「自分」と言葉が踊るから、無駄にしんどくなる。
ならば、他人が主人公の物語の登場人物になればいい。そんな物語がいくつもあればいい。
いまの世の中に、冒頭のような自分を労わる言葉があふれるのと同じく、「推し」という言葉が散見されるのはとても面白いなと思う。それもきっと、自分を喜ばせる手立てとしての「推し」だから、きっと同じ系譜にあるのだろうけれど、実際のところそこにあるのはある意味の「自己犠牲」だ。「推しのためなら」という魔法の一言で散財する人たちがまわりにはたくさんいらっしゃる。そしてなによりみんな幸福そう。
「推し」について思うとき、多くの人は「推し」の世界が続くこと、「推し」が幸福に存在しつづけることを願っている。そういう意味で、「推し」のいる世界は、それが自分の物語ではないことの心地よさと共にある。
つまり、自分が主人公でない物語は、とても居心地がよいのだ。自分を大切にするということは、一見逆説的だけれど、限りなく個人の境界を社会のなかに溶かしていくことかもしれない。地方の人たちに強く残る、いちいち周りの顔色をうかがう習性は、そこにある種の心地よさがあるからこその行動で、安易に否定するようなことではないのかもしれない。
もし、これらの言葉がコピーライティングされたポスターがあるならば、そこにはきっと主人公の《自分》らしき人が、突き抜ける空の下、立っていたりするに違いない。しかし、僕がこのメッセージをコピーに使うなら、そんな表現はしないだろう。
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