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やさしさの旅_01『ファンタジックなリアル』

 今日もなんだかご陽気な青森の街。ホテルの部屋から眺める港湾地区に、また何か大きな建物が建ったのかと思ったら豪華客船。街に海外の人が多いのはそういうことか。今日の午後、僕は関西に帰る。

 夜中のふわふわしたテンションのままに今回の青森旅の出来事を喋った寄り道だらけのVoicyを聴きながら、出会った人たちの優しさに今回もたくさん救われたなあと思う。前回の来青時同様、またしても友人のアンリにはスペシャル甘えてしまった。空港まで迎えにきてもらって、そこから青森市、十和田、八戸、弘前と、二日間、南部と津軽を走り回った。そしてこのあとは空港までまた送ってくれるという。ありがたすぎる。
 それに今回は、ラジオ局のディレクターをしている旦那さんのはからいで、某ラジオ番組にも出させてもらったりもして、あらためてアンリ夫妻には助けられまくっている。出発の朝、伊丹空港で思い出したように買った「リクローおじさんのチーズケーキ」を渡して満足してる場合じゃないわ。マジでちゃんと恩返ししなきゃ。

 旅最後の日の朝というのは、いつも独特の寂しさがあるけれど、今朝はその思いがより強かった。なぜだろう。なんて書いてみたけど、理由はわかっていた。SNSのなかが、現在開催されている「森、道、市場」の投稿で溢れていたからだ。
 そうか、ローカルの友人たちはみんな愛知だったか。楽しそうだなあ。いいなあ。なんて羨ましい気持ちが、一人旅の寂しさを増幅させる。でもその一方で、それぞれみんな頑張ってるなあという謎の思いが込み上げて、離れた土地で気持ちが昂る。

 煩いくらいの青空のなか、むやみにでかいスーツケースをごろごろ引きながら、青森市の定番「喫茶マロン」へ。階段を上がった2階の店ゆえ、スーツケースを持っていくのに一瞬躊躇したけれど、久しぶりにバタートーストとゆで卵の定番モーニングを食べたいという一念で非力な腕でスーツケースを持ち上げた。

 さて、今回の旅を振り返るとするか。と、書いているのがこの文章だ。けれどチラチラと「森、道、市場」のことが頭をよぎって仕方がない。それはもはや寂しさじゃなくて、頼もしさというか、なにか説明し難い感情で、それはどちらかというととても心地いいものだ。
 それぞれの街で暮らす友人たちが、それぞれ懸命に生きている。ただそれだけのことに、なんだか込み上げてしまうのだ。日々を逞しく生きるみんなの精神とエネルギーを想像するだけで、最近は謎にウルウルしてしまう自分がいて、まるでおじいちゃん。

 もともと感動しい、、だと自覚するけれど、最近とみに過剰な感動を抑えられず、昨夜もRe:Schoolのメンバーが開催したウェビナーをホテルで見届け、画面をオフにした途端、感極まった。その理由はさまざまあるのだけど、とにかく世の中は素敵なことで溢れている。つらく悔しい世の中だからこそ、仲間の優しさに救われてばかりだ。それを感じられることが、僕にはとても重要で、だから僕は旅に出るのだろう。

 本来、社会とはやさしさの集合体のはず。Re:Schoolはみんなが弱みを吐露してくれて心地いい。私はあれがデキルこれがデキルじゃなくて、これができない。ここが難しい。と、弱さを出し合える関係は心を穏やかにしてくれる。人は自分の弱さを自覚してはじめて、強さに近づくのかもしれない。僕の場合の「強さ」は、限りなく「ずぶとさ」に近いずいているような気もするから困ったものだけれど、まあそれくらいでちょうどいいんだろう。

 一昨日の朝、青森空港に降り立ったのだが、たった3ヶ月ほど前の雪降る青森が嘘のように、今回はのっけから晴天で、それどころかまるで真夏のようだった。機内で着ていたカーディガンをカバンに押し込み、ずっとTシャツ一枚な5月の青森。
「今日はさすがに暑すぎますね。また藤本さんが天気連れてきましたね」
 アンリはそう言ったけれど、いやいや、オイラにしたらもはやそれはアンリの方じゃないのかとも思う。
 たった一つの真実なんてものはないからこそ、この世には多くの物語が存在する。物語に触れるということは他人の視点に触れるということだ。ドキュメンタリーな僕の旅の記録も、所詮、僕の目に映るファンタジー。
 そういえば、ブログなるものが世の中に出てきた20代の頃、僕が初めて立ち上げたブログタイトルは『ファンタジックなリアル』だった。結局20年以上経っても考えていることは何も変わってないんだな。
 そう思えば「成長」というのは、別に何かが増幅していくわけではなく、ものを知らないがゆえの瞬間的な閃きや直感を、い時間をかけてしていくことなのかもしれない。
 リアルだと思っているものもファンタジーだし、ファンタジックなものにこそリアルが詰まっていたりもする。そう思った若いうちの短距離走な直感を、20年もかけて長距離走してるってことか、僕は。

 最初に向かったのは、成田本店という書店。青森の人たちが「なりほん」と呼ぶ成田本店は、青森でもっとも有名な書店の一つだ。本店とは、本の店、書店ということ。今回僕が訪れたのは、成田本店しんまち店。つまり成田本店の支店。バグりそうになるが何も間違っていない。

 飛行機の中で大慌てで作ったわりにはよく出来た注文票を、「なりほん」の向かいにあるローソンでプリント。さすがにアポを取っていた店長の栃木さんに見せて新著営業。初対面ながらいろいろ共感してくださって、その場で12冊を仕入れてくれた。ありがたい。ちなみに今回、新著を100冊もスーツケースに入れてきた。バカ重いスーツケースを引きながら、どう考えても持ってき過ぎだろと後悔したけれど、万が一足りなくなったら、なんて夢をみてしまうのが、僕のわるい癖。でも視点を変えればこれもまたきっと良い性質の一つに違いない。なんにしろ一店舗目で12冊も引き取ってもらえたのは、幸先がいい。そこで栃木店長に、写真付きのPOPを依頼された。たしかに店の近所が登場することを知れば、近しい人はその親近感で手に取ってくれるかもしれない。今回の青森滞在中にPOPデータを作ってお渡しする約束を交わした。

 しかし、こういうPOP依頼に「じゃあすぐ作りますね」と答えられる自分でよかったなと思う。機内でつくった注文書もそうだが、なんとなく画は見えるので、素人仕事ながら、時間さえ確保出来れば旅先でも対応できる。こうやって自分でやれることと、他人に頼ることの線を明確にするほど人生は楽になる。若いうちは、やれることを増やしていくことも大事だけれど、歳を重ねるほどに、それよりも明確に線を引けばいいのだとわかってくる。

 人は生きている限りさまざまなことに迷う。この迷いに使うエネルギーで大抵疲弊していくから、迷う時間を減らすのは健やかに暮らすコツの一つだ。地方のスナックで、常連のおじさんが幸福そうに飲んでるのはまさにそういうこと。今日はどこへ行こうかなんて迷いのエネルギーを使うことなく、淡々といつもの店に行く。そんな幸福があるなんてことを若いうちは想像もしなかった。行きつけのスナックこそないが、この街に来たら喫茶マロンでモーニングをと自動的に思うように、定番が決まっていくのは楽ちんでよいものだなと思う。

 成田本店しんまち店のすぐ近くにある「古書らせん堂」にも寄ってみた。もともと「なりほん」の書店員だった三浦さんが独立し営む古書店で、実は来青前、県内の独立系書店さんを調べていた時に、らせん堂さんのXアカウントを見つけ、密かにフォローして楽しませていただいていた。
 それゆえ、いったい店主はどんな方なのだろうと気になっていたのだ。たとえば以下のポストの味わい深さ、共感してもらえるだろうか。

 あ〜〜〜好き。「めぐせー」(恥ずかしいとかみっともないなどという意味らしい)といった津軽弁も心地よく、穏やかな空気に癒される。そんなポストから勝手に想像していたイメージを、ある意味で裏切らない、やさしく穏やかなおじさんがいらして、あ〜この方が呟きの主に違いないと思って密かに興奮した。聞いてみると、まさに店主の三浦さんだった。しかしながら、いいおじさんにむかって、いいおじさんが「いつも見てます」みたいなやりとりをするのは、どうにも気持ちがわるい気がしたので、そんなそぶりは微塵も見せず、ぬるっと『取り戻す旅』の実物を取り出し、営業した。「うちは古本がベースだから」と言いながらも、3色の表紙を1冊づつ計3冊を仕入れてくださった。三浦さんやさしい。

 その場で納品と精算をさせてもらい、領収書を書いている間、三浦さんが新著の最後のページにある蔵書票に注目してくださって、そこから蔵書票の話で盛り上がった。新著にも書いた青森出身の蔵書票作家、佐藤米次郎(1915~2001)の本がないか聞いてみたら、米次郎作の貴重な豆本を2冊紹介してくださり、合わせて1,000円で購入。なんと手頃な。

 三浦さんも蔵書票がお好きだそうで、古書引き取りで手に入れた、とある蔵書票ファイルを見せてくださった。そのなかの一冊に、エロティックな蔵書票ばかりがファイルされたものがあってずいぶん面白く、しかもその出どころが男性ではなく、80を超えたおばあさんだったと聞いて、なんだか物語を想像してしまう。古書店主ってずいぶん楽しいお仕事だなあと思ったけれど、古書と一緒にその思いをも引き取らなきゃいけない場面も多いだろう。想像以上に心の負担も大きいお仕事に違いないと、呑気な羨望を取り消した。だからこそ、なにもかもをすっからかんに流してくれる晩酌の大事さよ。今度来青する際はなにかよい酒のアテでも持参しよう。

 三浦さんが「もしよろしければ数枚あるので」と、佐藤米次郎と同じく青森市出身で、数々の蔵書票も手がけた版画家、加藤武夫(1930~2012)の蔵書票を一枚くださった。それがまたなんとも不思議かわいいデザインで、三浦さんのやさしさに心を満ち満ちにして店を出た。 

 ここまで書いておいて今更だが、今回の旅は新著の納品ツアーだった。今年の1月に青森〜岩手を一人旅した記録をまとめた『取り戻す旅』。単なる旅日記といえばそれまでだが、この小さな一冊に、僕は人生において欠かすことのできない「旅」と「編集」のさまざまを込めた。『取り戻す旅』というタイトルはその象徴でもある。僕がこの一冊をもって取り戻さねばと思った事柄は色々あるが、そうちの大きな一つが、本を自分で届けるということだった。

 もちろん全部を手渡しでと考えているわけではないが、新著において最も重要な舞台となった青森や岩手くらいは、自らの手で本を届けたいと思って航空券を取った。

 約15年前のこと。編集長をしていた『Re:S(りす)』という雑誌で「すなおに売る」という特集を組んだことがある。そもそも、自分の本が出版流通に乗るとき、それらが実際どこに売られているのか、その全容を掴むのはとても難しい。しかしそれこそがまさに出版流通の有り難さでもある。身体一つでは到底行き届かない場所に、本が流通していくことの感謝を思いながらも、その一方で、自らつくった媒体を自分で手売りすることで、その反応を直に感じる、もの売りの原点のような体感が僕には必要な気がしていた。

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