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がっかりにがっかり

最近、何かしらの作品や事象に対する感想として「がっかり」という言葉を多く見かける気がする。この「がっかり」という言葉に、思いのほか「がっかり」している自分がいるので、まさに人の振り見て我が振り直せと、自分を省みる意味も込めて、「がっかり」という言葉について考えてみる。

別にこの記事は言葉狩りが目的じゃないし、みんな遠慮なく「がっかり」を使えばいいと思うんだけど、僕が「がっかり」という言葉に違和感を覚えるのは、「期待はずれ」という一人相撲な感情に対する気持ちだ。

がっかり=期待はずれ ということ自体に異論はないように思うのだけれど、そもそもその「期待」とは、実に身勝手なものだということにも共感してもらえる人はどれくらいいるだろうか?

例えば今朝、こんな内容のツイートが散見された。

「東京オリンピックの最後の聖火ランナーが大坂なおみ選手でがっかり」

僕はオリンピックの開催自体に相当な違和感を持っている。けれどその感情と一旦切り離した上で、最後の聖火ランナーが大坂なおみ選手であったことは納得できるし素晴らしいなと思った。

けれど、そう思わない人がいることもなんとなく想像できる。ただ、それを「がっかり」という一言で伝えることがもたらすものって、どういうものだろう? もう一度言う。これは人の振り見て我がふり直せ的な自問自答だ。


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最近「竜とそばかすの姫」という映画作品を見て大感動した僕はその素晴らしさを伝えたい!と思った。とはいえ、すべての人が僕と同じように感動するわけじゃないから、近しい友人たちなら、僕が思うこの映画の素晴らしさを理解してもらえる気がすると、内容がどうとかそういうことは一切言わずに、SNS でこうつぶやいた。

その一方で、タイムラインを眺めていたら、個人的に興味を持っていたクリエイターのかたが、同じ作品を「今年一番の期待はずれ映画はこれだな」と呟いているのを見てしまって、なんだかションボリしてしまったと同時に、この「がっかり」や「期待はずれ」という言葉に対する、僕のなかの違和感の根っこが明確になった気がした。

一人一人の性質や境遇が違うように、作品に対する個々の「期待」も様々だ。だからその期待というのは、受け手側の問題であって、作品そのものの評価に対する正当なものさしではない。そのことを踏まえた上でアウトプットしなきゃ、作り手はシンプルに傷つくよなあと思う。それこそネガティブな感想のときほど気をつけるべきじゃないかな。


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昨夜、僕が運営するオンラインコミュニティ内で開催されたトークイベントを見ていて、最後にその企画者が、なぜこのようなイベントをやろうと思ったかの理由を話していて、それが僕の感情と見事にマッチした。

昨夜のトークの主役は、コミュニティメンバーの一人であるユウさんという女性で、障害を持つ息子に対する理不尽な社会環境や、医療事故の裁判にかけた12年の月日、またそれらの経験から世の中をどうチェンジさせるべきかという考えなどを、既に過去3回のトークで話してくれていた。昨夜はそれらを受けて、ちひろちゃんという同じくメンバーの一人が企画&進行してくれたイベントだった。

過去3回のユウさんのウェビナーは本当に素晴らしく、毎回、大切な気づきと学びに溢れていたけれど、伴って、同じく子育てに悩みを抱えるメンバーたちのなかで、知らずユウさんがほんのり神格化してしまっていることに危惧を覚えた、というのが、ちひろちゃんのイベント企画理由だった。

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