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若い人がいないんじゃなくて、若い人に託せる度量を持つ大人がいない。

自民党総裁選の報道を見ていると、東京の政治家のみなさんは、いつまでお爺ちゃんを神輿に担ぎ続けるのだろう? と思う。

昨夜テレビで、総裁選に出馬表明された3人の方がデジタル化推進について話されているのをみかけたので、どうにも気になって検索してみたら以下の記事が出てきた。

この記事は注意しなきゃなあと思う。一見、時流にのったデジタル化推進への提案に見えるけれども、それを一元化することの国民のメリットについて語られていない。一元化することが、そのデータへのアクセスを容易にするものであればよいけれど、それをただ一括管理して自らの統制下におこうとするためであれば、かなり恐ろしい話だと思う。

念のために言うけれど、
僕たちにとってのインターネット、そしてデジタル化の波のむこうにあるものは、シェアの精神だ。
デジタル化は、権力者が一元管理するためのものではなく、あらゆるものを、みんなで共有していくためにある。

コロナ禍において、僕たちが前を向けたのは、どう考えてもインターネットのおかげだ。当初は擬似的ではあったものの、さまざまがデジタル化して音楽ライブや演劇体験までもがシェアされたことの意味の大きさははかりしれない。しかしそこにあったのは、利権の開放でもある。

「こんなときだからこそ」。

その一言とともに、それぞれの組織が占有していた権利、わかりやすく言うならば換金できるコンテンツを巨大な事務所までもがこぞって一部解放した。デジタル化の波には抗えないと、サブスク解禁も増えた。そして逆に、小さな表現者たちはデジタル化のなかで、自らのコンテンツが直接換金できることを知った。

つまりデジタル化とはある意味で権力の解放だ。富のシェアともいえるかもしれない。もちろんグーグルやアップルといった新たな権力への危惧も認識したうえで、逆に言えばそれこそが民がデジタル化で巨大な力を持ち得る証拠でもある。

だから政治におけるデジタル化のポイントは、縦割り省庁が抱える各種書類の一元管理ではなく(意地悪く言えば、都合のわるい書類を削除できる権力ではなく)、シンプルに、投票のデジタル化だと思う。

政治家が若返らないのはなぜか? それが全部ここに集約されている。お爺さんたちが選挙をデジタル化しないのは、知識がないのではなく、怖がっているからじゃないか。

✳︎

先日、大好きな秋田県の新聞、秋田魁新報を読んでいたら、こんな記事があった。

秋田県の湯沢市が、同市出身の菅義偉官房長官が自民党総裁に選ばれた際は、16日に首相指名選挙が行われる臨時国会のテレビ中継が見られる特設会場を設ける考えを明らかにした。
 鈴木俊夫市長は、この日の市議会で「市民が一緒に喜び合えるパブリックビューイング(PV)を行う考えがある」と述べた。市協働事業推進課によると、市役所市民ロビーのほか雄勝、稲川、皆瀬の各総合支所、雄勝文化会館オービオンの計5カ所で行う予定。

大好きな秋田をいよいよ嫌いになりそうになった。

なんだろう、この地方の縮こまった精神は。これでは東京に媚びているだけじゃないか。こういうものを地方の誇りに変換させてはいけない。誇りとはその土地に立つ人たちが、自らの実感として手に入れるものだと思う。

ヒドイ仕打ちだと言われても仕方がないイージスアショアの問題が、秋田に住む多くの人たちに与えた不安は計り知れないし、そういったことをなきものにして、ただただ地元から総理が生まれると、他者への配慮なく菅さんを歓迎するような地元のノリは、いくら秋田贔屓な僕でもどうかと思う。僕たちに大きな誇りと勇気をくれた金足農業高校の活躍じゃあるまいし、権力図の末端に湯沢の文字が掲載されることを期待するような、媚びたパブリックビューイングになんの意味があるのか。

ただ菅さんは菅さんとして、そうやって生きてきたのだから仕方がないのだろう。懸命に頑張って、一つ一つ権力を手に入れてきたのだろうから、それを立派だと思うか、つまらないと思うかは自由だ。ただ僕が今回言いたいことは、シンプルに、

政治のトップが、いつまでもお爺さん過ぎるんじゃないか。

ということ。

森喜朗さんがオリンピックについて語るときや、菅さんの記者会見の姿に現れるように、年齢を重ねるほどに強固になっていく権力基盤を背景に、相手をマウンティングする態度は、僕はすきではない。

この国の大人たちはいつからこんな風になってしまったんだろう。

決して優秀な若い人がいないんじゃなくて、この国の老人たちに若い人に託せる度量がないんだとつくづく思う。

子離れできない親のように、常に自分の影をちらつかせ、圧をかけながらコントロールしようとする。そんなお爺さんたちには心から引退してほしいと願う。そうじゃない、心から尊敬できる方々もいらっしゃるなか、大先輩に失礼なことは重々承知の上で、声を大にして言いたい。

みっともない。

僕は、野菜や果物における食べ頃のように、どんな世界においても適した時期や年齢がひとそれぞれにあると思っている。そういう、あるジャンルにおける自らのピークを意識するチカラが弱まっているのが現代なのかもしれないと、お爺さんたちを見ていて思う。

そんな生き方を本来、昔の人たちは自然にやってきていたんじゃないだろうか。自然の摂理から離れ、人間本位な人工的サイクルをつくることが是とされた時代、それこそ安倍さんや菅さんのようなお爺さんたち世代にとっての正義は、いまの世の中にまったくフィットしていない。そういう時代をそろそろ終えて、僕たちはいち早く次の時代に向かいたいのだ。

例えば、古典落語の作品に通底する、先輩を敬う気持ちは、決して強制されて芽生える性質のものではないように感じる。老体に鞭打つことの不自然に抗うことなく、身を引く美しさを持った大人たちがそこにいたからこそ、我々はそんな先輩たちに意見を求め、それに対して「こんな老いぼれなんぞに……」と謙遜しつつ放たれる言葉が、僕たちの胸に金言となって届いたのだと思う。

ご隠居さんに僕は憧れる。

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編集者。1974年兵庫県在住。『Re:S』『のんびり』編集長。著書に『風と土の秋田』リトルモア、『魔法をかける編集』インプレス。『アルバムのチカラ』(共著:浅田政志)赤々舎。その他、『ニッポンの嵐』『るろうにほん 熊本へ』(佐藤健)など、手掛けた書籍多数。

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