みんなのお金
みんなの銀行アンバサダーになって数か月。10名のアンバサダーさんとリアル対面できる機会があって、博多入りした。社員証まで用意してもらって行内のツアーをしてくれたり、頭取の永吉さんが「みんなの銀行」の歩みを話してくれるのを、博多のクラフトサケ「LIBROM」を、ほぼ一人で飲干しながら聴くとか(昼間からお酒飲む人僕くらいしかいなかった💦)、とても充実した会で、スタッフのみなさんの良い場にしようという気持ちが伝わる素敵な時間だった。また夜は、最近オープンしたばかりという屋台居酒屋で、頭取自ら、お酒や料理を振る舞ってくれたりして、その屋台の名前が偶然「みんなの屋台」だったりしたから、ずいぶん盛り上がった。
他のアンバサダーのみなさんや、銀行スタッフのみなさんとともに、それぞれの「お金観」について語り合う、貴重な時間。
でも正直、きっと僕一人、浮いてたよなあとも思う。
だってみんな投資とかガンガンやってて、そこに対していかに「みんなの銀行」が便利かみたいな話をされるんだけど、僕は正直、NISAとか、何かの拍子に消滅しないかなとか思ってるくらいだから、そこに心地いいズレがあった。そのズレの認識や違和感っていうのが、僕の編集の種なので、それはもう本当に良い時間で、ありがたいのだけど、他のみなさんにとってはどうだったろうか。と思うと、やっぱり心配。
僕にとっての「みんなの銀行」の魅力は、既存の銀行業や金融サービスの延長ではなく、システムを0から構築したスマホ銀行だからこその「まだ見ぬ未来」にあるので、お金に対して思っていることや質問などをみなさんにぶつける時間に、「お金ってシェアできないのかな?」なんて、子供みたいなことを書いた。あの場には明らかにそぐわない問いだったと思う。
みんなの銀行がいかに先進的で、既存のネットバンク(銀行のネット化)と一線を画しているかについては、下にリンクを貼った本を読んでくれたら、よく理解してもらえると思う。銀行が云々というよりも、イノベーションが起こっていくときに、人はどう動き、何を決断しているのかということがよくわかる良書だ。僕はこれを読んで、アンバサダー募集に手を挙げた。けれど、いまの「みんなの銀行」は顧客拡大のための大事なフェーズに入っているので、徐々に、従来の銀行サービスに近づいてるとも言える。その結果、既存の銀行との差異を「UIデザイン」だけだと感じている人が増えている気がして勿体無いと思ってもいた。そういう、問題提起も含めた、未来への議論ができるといいなと考えて今回の集まりに臨んだ僕は、なんとなく、おもてなし感の強い会に、どこか申し訳なさと気まずさみたいなものを感じてしまって、要は一人、反省してる。
けれど、サービスや商品を変化させるのはユーザーだから、「みんなの銀行」を変化させるのは、僕たちの声やアクションのはずだ。僕なりに、あたらしいお金の世界の入り口を、みんなの銀行のサービスを活用して、提示してみたいと思うので、よかったらぜひ下の紹介コード使って口座開設してみてほしい。僕は本気で「みんなの銀行」に魅力を感じている。
なんだかんだで、20代の頃から「お金」ってなんだろう、と考え続けてきた。でもフツーはみんなその思考の成果を、お金を増やすことに全フリする。ていうか、そもそもお金を増やしたくて「お金」の攻略法を研究するのだろう。だけど僕にとってそれは、資本主義の構造や仕組みに対する研究であって、実のところ「お金」の話のようで「お金」の話ではない気がしている。僕はもっと根源的に、「お金」という人類史上最大の便利ツールについて考えたいし、考え直したいという欲望がある。
お金は共通認識の賜物だ。この紙切れがお金だとみんなが認識して初めて貨幣が成り立つ。群雄割拠する仮想通貨の状況をみていても、結局はどれが生き残るかみたいなことになっているから、やっぱりそういうことだよねと思う。天下を取るということは、広く認知させるということ。多くの人に、これがあたらしいお金だと共通認識を持たせることが重要で、それはやはり数の論理になっていく。もしも、「来年からプラごみを貨幣とする」と世界の偉い人たちが握手をしたら、みんな血眼になってゴミを拾うだろうか。などと妄想する僕は、これでも本気でお金について考え続けている一人だと思うけれど、「円とドル」や「貯蓄と投資」のバランスの話などを前にすれば、もはやただのお伽噺。
僕は、お金がもっと「自然」に近づくといいなと思っている。ある意味でそれは落合陽一さんのいう「デジタルネイチャー」なのかもしれないけれど、僕はシンプルに、人間の意思とお金の動きが切り離されてほしいのだ。いまの金融の動向予測は、人間の行動を予測することと等しい。たしかに、人間は、犬や猫や虫たちよりはコントロールできそうだから、ともなって、お金もコントロールできると考える人は多い。けれど、増えれば増えるだけいいとされる「お金ゲーム」のルールは、マジで際限ないから恐ろしい。鳥取県智頭町のパン屋「タルマーリー」のイタルさんが書いた『腐る経済』という名著があるけれど、僕も、お金は時間が経つと腐ればいいのにと心底思う。使わないと腐る。回さないと腐る。そういうところから、持つものと持たざる者との貴賤をなくせないものか。
米が日本人の主食と言われるまで広まったのは、備蓄できることと輸送のしやすさが大きい。言ってみれば、玄米はいわば個包装のお菓子みたいなもの。そして最も大きな理由は管理者にとって都合がよかったからに違いない。それが芋ではなく米だったのは、地中にあるか地上で育つかの違いだ。実りが一目瞭然な米は、管理者にとって、その徴収に都合がよかった。
過剰な備蓄は人間をダメにする。米はつまり=お金だ。個々人が備蓄しなくても健やかに暮らせるというのが、僕は良い社会だと思い続けている。もっともっと自由にお金が循環していけば、その流れのなかに身を置くだけでいい。人生の大きな悩みの一つが、そうやって消え去ればいいなと思う。それこそが人間の次の大きな進化じゃないだろうか。増幅していくことが進化ではなく、減衰、整理されていくことに進化をみれるかどうかが、いま問われている。そういう意味でも万博とか言ってる場合じゃない。
勝手な僕の美意識の話をすると、FIRE(Financial Independence, Retire Early)とかマジダサい。FIRE状態で本当に人生あがりなのだとしたら、せめてそこからは本気で他人のために生きてほしい。今回の福岡入りで僕は、少し前乗りして久留米滞在した。この久留米滞在に僕はかなりインスパイアされたから余計にそんな気分なのだろうか。これまで僕はまったく知らずにいたのだが、久留米という町は、平たく言えばブリヂストンの町、ブリヂストン創業者、石橋正二郎さんの築いた財で、文化のベースがつくられている町だった。
「最高の品質で社会に貢献」とは、石橋正二郎の言葉。「絶えず時世の変化を洞察して時勢に一歩先んじ、よりよい製品を想像して社会の進歩発展に役立つよう心がけ、社会への貢献が大きければ大きいほど事業は繁栄する」と、著書『回想記』で語っている。
17歳のときに「志やま」という仕立物屋を兄とともに継いだ彼は、さまざまなオーダーに応える仕立て物の商売から「足袋」専門に特化させた。そしてさらに、当時、草鞋を一日一足履き潰していたという労働者たちにむけて、ゴム底接着した耐久性の高い足袋を「地下足袋」として販売。それまではサイズによって値段がバラバラだったのを「20銭均一 アサヒ足袋」とPRし大ヒットさせた。これが後のゴム製造につながっていく。
またその裏で、無休かつ無給が当たり前だった徒弟制をなんとかせねばと、弟子っ子であろうと職人として給料を払い、勤務時間を短くして休日をつくるなど、当時の商家としてはかなりの大改革をしていたりする。それも実施してから父親に報告したので、めちゃくちゃ怒られたという。この、とりあえずやっちゃう感じ、あきらかにイノベーターだ。そうやって、まわりの大反対を押し切り、やり遂げたのが国産タイヤの製造。
関東大震災以降、増えつつあった日本国内での自動車需要。将来のモータリゼーションを確信した石橋正二郎は、輸入タイヤしか選択肢のなかった時代にタイヤの国産化を考えた。既に足袋で成功しているんだから、そんな新事業は危険すぎると、共に会社を継いだ兄に反対され、社内の技術者にも反対された。聞く人聞く人、アメリカのタイヤ業界の巨大さを前に成功する可能性は限りなく低いと反対されるなか、ただ一人、九州帝国大学の教授でゴム研究の第一人者だった君島武男工学博士の賛同を得て、研究開発に巨額投資。その結果、1930年に第一号タイヤが誕生し、その後のブリヂストンの隆盛はご存じのとおりだ。
多くの富を得た正二郎は、1928年、九州医学専門学校の創設を支援。現在の久留米大学だ。このことがいまの久留米市の医療の充実につながっている。日本における、人口1,000人あたりの医師数は、OECD(経済協力開発機構)平均が3.5人なのに対して2.4人と、諸外国比較で医師の少なさが指摘される。そんななかで久留米市における人口1,000人当たりの医師数は6.6人!
少し話が逸れるが、久留米名物に「ダルム」というものがある。久留米市内の焼き鳥屋に行けばどこでも食べられる定番メニューなのだが、これはいわゆる豚のホルモン串で、部位としては直腸。博多などでは「シロ」という名で出てくることが多い。ほどよい脂を残しつつもカリカリに焼かれた豚の腸に塩が振り掛けられて、最高に酒がすすむ一品なのだが、これを「ダルム」と呼び始めたのは医大生たちだという。医学用語で腸を「ダルムDarm(ドイツ語)」という。実に久留米らしい名物だ。
話を石橋正二郎に戻す。空襲で焼け野原となった久留米の文化振興のため、1956年には、美術、音楽、スポーツのための施設、石橋文化センターを建設。久留米市内の小中学にプールを寄贈するなど、文化振興や社会貢献の規模が半端ない。それどころか、石橋正二郎は生涯に、4つの美術館をつくっている。1952年1月にブリヂストン美術館、ブリヂストン創立25周年の1956年4月に石橋美術館、同年5月に、イタリアのヴェネツィア・ビエンナーレ日本館、そして、1969年5月には東京国立近代美術館を建設寄贈した。つい先日、棟方志功展を観に行ってきたばかりの僕は、あらためてあの建物が石橋さんの寄贈なのかと驚いた。
こういった文化事業に投資したり、応援したりするような、巨きな経営者の考える「お金」と、FIRE状態を夢見る人の考える「お金」は、同じ「お金」なんだろうか。そんなことを考えながら、博多に入り、みんなの銀行アンバサダーの集まりに参加したものだから、僕は「お金をシェアできないのかな」などとスケッチブックに書いてしまった。
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