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「聞いてない」を振りかざす人へ。

 聞いてない。

 この一言をできる限り口にするまい、と常々思っている。それはこの一言のみで、ググゥィーとマウントかましてくる人にたくさん出会ってきたからだ。

 もちろん、実際に聞いてなくて困る時って多々あって、それはいわば純粋な「聞いてない」だから今回僕が伝えたいものとは別。こことても大切だから明確にしておくけれど、「それは聞いてないから困ります!」と防衛するときの「聞いてない」は重要。今回僕が言いたいのはそっちの「聞いてない」ではなく、あくまでも「聞いてないんだけど」と振りかざしてくるタイプの「聞いてない」の話だ。まずそこを理解してもらった上で、以下読み進めてもらいたい。

 僕が初めてこの振りかざす系の「聞いてない」の空気を感じたのは、僕がまだ20代の頃だ。大阪のミナミ(地名で言うと心斎橋・難波あたり)で、とあるアートイベントを企画したときのこと。各所に協力のお願いをするべく、いろんな人たちに会いに回っていたら、そのうちの何人かに「Kちゃんには相談した?」みたいなことを言われ、そのKさんなる人を存じ上げなかった僕は、「いや、まだお会いしてないです」と言うと、「ダメだよー、ミナミでアートイベントするなら、まずはKちゃんに話通さなきゃ」と言われて、その時点からこの感じ好きじゃないなと思いつつ、とは言え20代で世間を知らないことは自覚していたので、これって反社的なやつじゃないよね?と多少不安に思いつつ、Kさんに会いに行った。

 通称「南船場の赤い人」と言われていたKさんは、いつでも真っ赤なスーツを着込み、真っ赤に塗られた小さなビルを拠点に活動をされている現代美術作家さんだった。アーティストでありながら、Kさんが南船場に拠点を構えたことから、さまざまなクリエイターが集まり、南船場の街は現在のようなオシャレな街へと変化していったのだという。それゆえ、周りのみなさんがKさんのことを心からリスペクトしていることがわかった。

 Kさんの赤いビルの中はギャラリー兼、バーになっているという。ビルの表に据え付けられたインターホンを押すとKさん自らの声で「誰〜?」と聞かれ、紹介を受けてきた藤本だと話すと「は〜い」と中に入れてくれた。

 照明も何もかもが赤いその空間にクラクラしながらも、僕が考えているイベントのことを話すと、Kさんはとても親身に相談に乗ってくれて、全面的に協力いただけることになり、なんだかすこし拍子抜けした。そのときに思ったことは、Kさん自体は「聞いてない」を振りかざすタイプの人では全くないということ。Kさんは、自分の人生をかけて自分なりのアートを表現し、自身の幸福を貫くために紹介制のバーのようなものを始めたのだと思うけれど、いつしかその特別な場所に居られる優越感に浸る人が出てきて、本人が知らないうちに、意図とは違うカタチでこの場所がステイタス的に変化してしまっていた。

 Kさんはとにかくオープンで優しい人だったから、僕はとても好きだなあと思ったんだけど、正直、周辺にいる何人かの人たちが好きになれなかった。常連さんで埋まる喫茶店のような居心地のわるさを感じてしまった僕は以降、そこに足を踏み入れられなかった。

 そんな経験を経たからか、僕はそれに似た環境に自分が関わらないこと、ましてや自身がそれを作ってしまわないことをとても気にしている。もはや恐れていると言ってもいい。

 そんな風に「聞いてない」と自分が言わないでいても、周りにそういう空気を作らせてしまうことがあるくらい、「聞いてない」で囲い込む心理というのは人間の中に強くあるものだ。振りかざす系の「聞いてない」は「把握したい」という欲望の現れだから、そこには「把握しておくべき範囲」という、周りからすると不明瞭で非常に厄介なラインが生まれる。そこについて上手く振る舞える人はいいけれど、大抵はその範囲がどこなのかわからないので、とにかくなんでもかんでも伝えておいた方がよいとなるし、そのせいで、つたえられる方も、「黙っていても向こうから話にくる」ことが当たり前になって、結果「聞いてないんだけど」という圧になる。

 この「聞いてない」で守られた超絶ローカルなコミュニティのルールに、余所者はとても苦労する。けれどそこで振りかざしている「聞いてない」は本当に胸を張って「聞いてない」と主張するようなタイプのものなのだろうか。

 僕が編集者だからなのか、「聞いてない」というのは、自分から「聞きに行ってない」というのと同義で、ある種の「待ち」の態度の表明であり、自分から「聞きにいく」ことを放棄した宣言だ。なので僕は、聞こえてこなかったものに対し、帰す刀で「聞いてない」とは言わない。相手が言っていないのは、言えなかったのかもしれないし、こちらが言いづらい空気をつくっていたのかもしれない。もしくはシンプルに言いたくなかったのかもしれない。だからもし僕の心の中で「聞いてない」が湧き上がってきた時は、一度こう変換する。

 「聞いてない」じゃなく「聞けてない」。

 地域で活動していると、いかに多くの人がこの「聞いてない」に囚われてしまっているかを感じで辛くなることがある。だって人間はわるぎなく忘れてしまったり、他のことで必死で考えが及ばなかったり、懸命に生きていればいるほど、そういうことはある。そんなことは誰しも知ってるはず。それでも皆「聞いてない」を無闇におそれる。僕はこの「聞いてない」の呪いをときたいなあと思う。

大切なことだし、混同してしまったら良くないので、もう一度言うけれど、事前に話しておいた方がいいシチュエーションはたくさんある。だから立場の弱い人が自己防衛的に「聞いてません!」と伝えることはとても大切だ。だけど年齢や立場が上の人、つまりは年配のおじさん、おばさんたちが、自分に伝わってこなかったことを、謎に悲しんだり、過剰に傷ついたりして、怒りと共に「聞いてない!」を振りかざすのはやめて欲しい。

「聞いてない」のは「聞けてない」自分を見つめなおすチャンスだ。

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